前衛作品俳句考…その意味するもの

 前衛俳句を論考するに及びよく聞かれることがある。その俳句たるやもう亡び去ってどこにもないではないかと、よく聞かれる。確かに…そのように正面切って詰められると答えに困ってしまうことがある。答えと言っても理論らしく説明したところで解ってもらえるような単純なものでないのが前衛だと思っているので別に気にはならない。ただ言えることは誰にでも作れるものではない句。過去より現在までにおいて誰も作ってはいない句、その人のみの独特の発想なり感受で、その人でなければ絶対作れない句が前衛俳句だと、私は思っているから現在も前衛俳句は人それぞれにいっぱいあると思いたい。

 ところで当時、物議をかもした前衛俳句と呼称された作品が如何なるものであったかを紹介することから論考に入りたいと思う。

   雨をひかる義眼の都会 死亡の洋傘 島津 亮

   帰る円盤孵る銃座に毛をふく雨   大原テルカズ

   音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢     赤尾 兜子

   母に肖て薄明エトナの山の禿鷹飼ふ 加藤 郁乎

   テロの速度に黒い去勢の烏歩く   稲葉 直

   切歯の放屁虫駈け被爆の古い時計  大中青塔子

   はなやかにかくす一髪落ち目の神馬 船川 渉

   去勢の馬に 雪来る村の 弓矢の祭 野田 誠

   黄蝶ノ危機ノキ・ダム創ル鉄帽ノ黄 八木三日女

ここで興味深いのは、この前衛俳人と呼ばれる人たちは自分自身が、前衛俳人なのだとは思っていなかったことである。当時、私は八木三日女さんの「前衛私論」(「俳句」昭和36年2月号)の文章を読んで吃驚仰天したことがあった。次の文面である…。

 

 前衛、ゼンエイ という言葉が私の身辺を蝶のようにちらちらする。すうつと姿をくらませて、あちらの方で又ちらちらしている。摑んだと思つた掌を開いてみると、中には一匹の小虫も入つていない。こんなにやかましく、ゼンエイ ゼンエイ と聞こえてくるのに、又私のまわりの人々が、そのような呼名を与えられているらしいのに、どうして私には、その言葉のもつ意味が、何を指すのか釈然としないのであろうか。私を囲む所謂前衛と呼ばれている誰彼から、ついぞ一度も「前衛はかくあるべし」というようなことを聞いたことがない。(原文のまま)

 

 この三日女さんの困惑した表情は、いったい何を示しているのだろうか。私はどう考えても不思議でならないのである。

 もう一人、前衛の先陣を進んでいた赤尾兜子の「琴座」での誌上言葉にも、私は戸惑ったことがあった。次の文章である…。

 

 前衛、抽象俳句が論じられるたびに、いささかの光栄をになって僕の作品は引用され、そして多様な批判をあびた。…(中略)僕としては、難解、抽象とも、自分で自分の作家的色合いを決めたこともなければ、そう規定したおぼえもなかった。

 

このように前衛派と呼ばれる俳人たちは、自分自身を前衛とは思っていなかったのである。ここに貴重な言葉を紹介したい。「季流」主宰、小泉八重子さんの75号の引用から…。

「私の俳句の育ち方は前衛俳句全盛の頃であった訳ですが、前衛俳句と言うのは如何にして他の人と違う発想をするか、従来の俳句の概念を破り自分だけの感受、感覚を持って新しい俳句を作り出してゆくか、という事に腐心し私はその世界で育った訳です」             

小泉さんは赤尾兜子の門下で培った俳人です。「歯車」に古くから在籍されておられる方はよくご存じかとは思うが、当時の「歯車」を代表する前衛俳人でした。

   夜の地底のしめやかな発芽 亡命の種子

   誤算の涙流し旅立つ 未完の潮流

   死の予感 秋が残した青い手袋

   桜貝が 未知へさすらう夜の引き潮

   ある夜渚に 愛を拒んだ 貝殻埋め

   春の固さに 鞭うたれ蝶の盲の旅

俳誌「歯車」時代、昭和35年の小泉さんの俳句作品である。人それぞれというのは、ここにある小泉さんの俳句は小泉さんにしか作れない句であるということ。その人独特の俳句作品は、それそのものが前衛である。…と解釈すれば、誰にだって前衛俳句は作れても不思議ではないというのが、私の持論である。だから三日女さんも兜子も自分自身が前衛俳人だとは思っていなかったのだろう。

 

 昭和36年総合誌「俳句」2月号は前衛俳句の特集をおこなっている。特集のブロックを三段階に組み、特集①は座談会、②は評論、③は作品と、きめの細かな論考をし当時激しく揺れ動いている俳壇への刺激を加速させたのであった。

 先ず。作品についてだが、特集の目的を「いわゆる」というただし書きつきで呼ばれている前衛俳句は、はたして現代俳句の歴史の上にエポックを描き出し得るであろうか、と言う大きなテーマを担ってのものであった。その作品集である。「動物について」は共通の素材を設定しての方向性を探り、現代俳句においての真の意味で前衛を明らかにするものであった。

   牛の水晶体の加害者が生きのびる   林田紀音夫

   鯨の罠は七転八倒の浪がつくる     山田緑光

   枯野に馬を走らせ密語の石ども     坂本 巽

   最後の皇居裸のオランウータン入浴する 仲上隆夫

   寡婦の森 火を喰いこぼす斬首の嘴   大橋嶺夫 

   涙ためし寒暮の馬刺す汽笛       隈 冶人

   満月がしずまり貧血の動物園      星野一郎

   松下の鳶を鷹とみるべく都心へ去る   永田耕衣

   暗い河から渦巻く蛇と軽い墓      赤尾兜子

   空に拡げたアネモネ歪め闘牛死ぬ    堀 葦男

   わが湖あり日陰真暗な虎があり     金子兜太

   君のメガネ野獣をうつしやさしく曇る 八木三日女

ここに登場した俳句作品を、当時の俳人たちは前衛俳句と呼称していたのだが、その根拠はなんであったのだろうと、改めて考えてみる。

 一口で言ってしまえば、難解で解釈、鑑賞に大変なエネルギーを必要としていたのではないかとも私は思ってしまう。この難解性が、抽象性とも重なってのアブストラクトにも思えて、読者を無視あるいは軽視したエリート意識の集団のようにも受け取られていたのではないかとも。…だが、私はすべての俳人が…そうであったとは思えないのである。赤尾兜子は純粋すぎるほど自己の俳句に責任と信念を持って臨んでいたように思う。何時も真剣に討議し、決して読者を軽視してはいなかったのだ。句会で点が入らないというときなどは、句会後の懇談ではしつっこい位に感想を聞かれた。伝達の重要性は理解していたようにも思われた。そのとき私は観念が強すぎると、読者は作者の思考まで到達出来ない時が多々あると話した。すると兜子は「前衛と呼ばれるのはここなんかも」と、口を開いたことがあった。充分に俳句の難解性や抽象性が自己の句に表現されていることは解っておられたのではないかと思う。私は即座に次の句を示した。

   会うほどしずかに一匹の魚のいる秋   兜子 

前衛だが、難解な句でもなければ、個人的な観念の強い句でもなく、とても好きな句ですよ、と話した。そして暫くすると、「句としては層の薄い句なのだが」との返事。「もっと言葉を積み重ねて重いものにしなければ」。…このとき私はこれほど真剣に読者に理解してもらおうと、語りかけてくる俳人の迫力を、これまで感じたことはなかった。私は、かってないほど兜子の心を重く受け止めていたのだ。

 

 前衛俳句と言うと、すぐに俳人協会が設立されたその原因が…とよく聞かれる。昭和36年の第9回現代俳句協会賞の受賞をめぐって、石川桂郎を推薦するグループと赤尾兜子のグループとの対立が激化しての現代俳句協会からの分裂が起こる。結局のところ石川桂郎はベテランの類にあり、賞に相応しくないとのことで省かれ二次選考にまで至り、飴山実との決戦で兜子の受賞となったのであった。その後、中村草田男を主とした俳人協会が設立されたのであった。もっとも、それ以前から、前衛俳句と呼称されるグループへのアレルギー症状は激しくあって、この兜子の受賞がきっかけになり、その時期を早めたようでもあった。ここで私が思うのは、俳句に対する常識を壊し、俳句に対する基本的な姿勢を超えてしまった俳人がかなり沢山に増えてゆくことへの恐怖が、在来からの俳人の中にあったたからであったように思う。そのような中から、少しづつではあったが、反省らしき言葉を述べる俳人が前衛派ではないかと思われた中から現れる。林田紀音夫の文章は…それに近いものであった。

 

 孤立した前衛は無意味である。アバンギャルドたちの抵抗と破壊と攻撃も、後に従う者がなければ、それは徒らに荒廃を招くだけで、ついに崩壊への道を辿る他はない。いわゆる前衛俳句についても、それが弧絶の他ない試みであるならば、新しい運動としての意義をはじめから失っている。(中略)ぼくは崩壊への道は避けて通りたい。それには、開拓者的要素をもったアバンギャルドとして、孤立化しない運動をすすめることが必要になると思うのである。(「静かなドン・キホーテ」より)

 

 孤立化を危惧しての俳句作品を考え始めた紀音夫であったが、関西はとかく前衛派と呼称される俳人が多かっただけに、まわりの俳人への刺激は強かったのである。

 ここで問題なのは、あまりにも言葉の機能に頼りすぎて、言葉先行の俳句になりすぎていたからであった。紀音夫が主張したかったのは、主題が希薄なのに言葉に期待をかけすぎ、言葉ばかりに負担を重くして、つまるところ何を書こうとしているのかが、見えてこないではないかと言う疑問に答えるものであった。

 やがて、前衛的俳句の基本姿勢は大衆の理解を受け入れられないものではいけないと言う考えに落ち着いてゆくのだが、それは昭和40年代に入ってからであった。その形跡を辿っていて、私が著しくその変化を悟ったのは赤尾兜子であった。かなり前衛化していた関西の俳人のなかにいて率直に変貌を遂げたのは兜子であったと思う。それは素直でもあり、真実そのものでもあった。

   春の眼ゆゆしき痕のかくされて

   花菜明り はやブランコに乗る老婆

   祖たち獲し白魚光る誕生日

 俳誌「渦」65号、昭和47年5月号の変貌を知った私は驚きと、兜子の真剣さを心で受け入れていた。そして兜子の周辺の俳人への影響も出始めその変貌は兜子主宰誌の「渦」の中でも変化し始めていた。第一回渦新人賞の選考に及んでも顕著になっていた。

   セロ弾いて夜明けの父を待つ少女

   涸川へいくつも小禽の墓つくる

   干潟ゆく巡礼ひとりは烏なり

   夕焼けのおわりを母にしらせゆく

   風船売りの空にみじかい橋かかる

 受賞者は本田まさやであったが、最終選考委員は赤尾兜子和田悟朗、船川 渉、大川双魚、青江涼江、の五氏であった。充分に読者を熟知してのことであった。ここには孤立しない前衛があったのだ。…それ以後の兜子の句における兜子自身の前衛はつづいてゆくのだが、だれも前衛俳句とは思っていない。

   歸り花鶴折るうちに折り殺す

   大雷雨鬱王と會ふあさの夢

   盲母いま盲児を産めり春の暮

   壮年の暁白梅の白を瞼す

前衛俳句はいまも続いている。未だ亡びてはいない。