生きるのに疲れた時「  」に何語いれても寂しい時……俳句の心

            俳句を作ることのメリットとは

                児 島 庸 晃

 時々ではあるが何故俳句を作っているのか、と自問自答している私に吃驚して夢より覚めることがある。夢より解かれて現実の世界に戻っても、しばらくは私を責めている全く別のもう一人の私が居て、思考の続く時間に悩まされることがある。これまでの長い月日に会得した日常のなかに何の不思議も思わないで俳句を作ってきた私である。だが、ときどき俳句を作ることに何の意義があるのだろう、何の価値観があるのだろうと思ってきたことも事実である。生活に追われてきた多忙な日々も必死で専念する俳句であった。

 …何故、俳句を作るのか。それは私自身になれる、私自身を取り戻せるから、と言う俳人の言葉。なるほどと思う間もなくその人は言う。

…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。真剣に物事に集中して、毎日の現実と闘っている俳人の事を思っていた私。俳句は、日日の生活の糧とも、或いは生きていることのメリットとも。そのように思考してみると、明日への力の源とも、俳句を作ることは意味をもっているのかとも考えだした昨今である。

 そこで、生活の癒しの栄養素であれば、何も俳句だけが特に優れたものでもないだろうにとも思う。一行詩や散文の一行にだって同じような味は含まれている筈。どうして優れた心の癒しが俳句にはあるのだろうかと、私自身に問い詰めたいと思ったのが、この稿を書きたいと思ったきっかけである。

 一口で言ってしまえば散文は意味を求めるもの。その意味を細かく追求しそのことを深める。より解りやすく人の感情を探り出し心に取り込むのが主眼の文体を作る。私は小説も書いているが、小説のなかでの意味の大切さを知った。神戸新聞の小説部門で三回入選したのであるがその時の選考の基準が意味の重要性であったと感じたのである。

 一方、一行詩は作者の思想を意識的に高めて芸術的に発展させる文体である。これは短歌や俳句へとつながる文体でもある。ただここで言えることは一行詩には意味を求める要素が強くあり、ここが俳句とは根本的な相違点である。…故に一行詩は読んだ時の印象は強くある。だが、この感覚は一過性のものである。その心の思いはすぐに消える。心中を通過してしまえば消えてしまい後には何も残らないのである。それは意味の要素を多く含んでいての説明の文体だからである。したがってそれ以上の広がりと言う展開へは繋がらないからであろう。

 俳句は寄物陳思である。ここには美意識を強く求める心がある。私が…そのことを強く感じたのは鈴木石夫の句であった。

   風峠越え彼岸花悲願花   鈴木石夫 

句集『風峠』(平成8年8月)より。この句は言葉遊びのように思われるだろうが、私にはそうは思えないのである。むしろここにあるのは…心遊びである。これこそ寄物陳思である。寄物陳思とは感情的な言葉ではなく「物」で心を伝える基本に沿った表現。石夫の句には具体的な「物」を見て、心そのものを表現。「物」を導き入れ感情を抑えていることが理解できるのである。この句「彼岸花」は作者にとっては「悲願花」でもあるのだろうと思われる。いろんな思いの中における心の揺れが、心遊びとなって定着したのだと思っている。そして美意識と思われるのは心を美しくしての思想でもあったのだろう。

   幽霊の集会があり 招かれる  鈴木石夫  

「歯車」311号鈴木石夫追悼号より。心遊びと言えば、これほど自由に遊んで気持ちを精一杯開放している句も珍しいと言える。日常の諸々にぶっつかり、苦しい思考の中で切羽詰まった時には思いもよらないとんでもない事を考えてしまうものである。幽霊の集会へでも言ってみれば何かが開かれるかもしれない。全く現実には存在しないことを思ってしまう。即ちこれが心遊びなのである。現実には存在しない幽霊が作者の目視のなかにはあるのだ。希望または願望として強くある。心の中の鬱々とした諸々が開かれるかもしれない。招待してもらいたいと切に思い、願いがかなえられ招かれる喜びにとっぷりと浸り切る作者。普通であれば、この句は寄物陳思とはならない。だが、作者の目視の中には幽霊が存在し見えているのである。幽霊の集会に招かれると信じ、そのように思うていられる事の心の美しさは大切であった。作者固有の美意識である。作者は心いっぱい癒されているのである。現実の世界では体験出来ないものが心遊びによって遂げられたのである。 

   くちびるを花びらとする溺死かな  曽根 毅 

句集『花修』(深夜叢書社)より。第4回芝不器男俳句新人賞の受賞者。この句が寄物陳思の類に入るかどうかなのだが、比喩が意識的に作られているようで不自然のようにも思える。なるほど「くちびる」は「花びら」でもある。そのように思えることはある。だが、「…とする」ということは物で心を表現すことではないのである。意味を説明していることで心を伝えることとは思えない。…その思いを強くすのだが、これは俳句ではない。この句は一行詩としての文体のように私は思える。俳句は美意識を心で感じるものでなければ…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。とは言えない。俳句に使われる言語は意識して作り上げられた言葉であってはならないのである。心中より自然に発声される心を大切にしていなけれは心を癒すもの、また生活の糧などにはならないのである。そのことは心のなかに誰もがもっている美意識を生むことであろうとはしないのである。

 ここで【美意識】とは何かだがデジタル大辞泉によると次のように記載されている。

  美しさを受容したり創造したりするときの心の働き。

「物」に接し、目視し、そして美しいと心で受け入れたときに生ずる心の働きと記されている。意味を述べて説明することではないのである。しかし現代俳句のなかには言葉表現そのものが意味を求める傾向にある。感覚は意味を追求することや訴求するところから出てくるものではないのである。心で受け止めたときのその心の働きなのである。言葉先行の観念語や作られた意識操作語を十七音の中の主体にしようとする傾向は…生きるのに疲れた時、俳句は癒しの栄養素になります。…ことにはならない。俳句は心を癒すものでありたい。まさに俳句を作るメリットは生活してゆくことのポイントでもあろうと思う。 

 だが、言葉が意識的に動かされても寄物陳思を思わせる句もある。 

   あめんぼに是非来てほしい洗面器   仲 寒蟬  

句集『巨石文明』より。ここにあるのは目視による具体的な物は「洗面器」だけである。言葉が説明的のように配置されてはいるが、物を踏まえてのもの。目視の果てでの心に残る言語である。意識して作られても…作りものと思わせなければ、立派な心の表現になる。ここには私性の文体があったのだ。作者にとっては日頃より思っていることが、物を目視することによって現実のものとなって蘇る。心の中だけではなく、目の前のものが目視の彼方にあることとして認識する。いま心を癒す時を作っているのである。この句にある言語は意識して言葉を作っても作者の作り言葉とは思わせていない。それは作者の日頃から思っている真実言葉であったからである。心遊びは充分に出来ている。

   処分する風鈴いちどだけ鳴らす   仲 寒蟬

   手袋を出て母の手となりにけり   仲 寒蟬 

これらの句の根底をなすのは俳句における…心遊び。ただ気をつけなければならないのは意識作用が強すぎると、わざとらしくなり、言葉だけのものになる。心の伝達が不自然にならないことが望ましい。

 心遊び…作者の心の状態が定まらないで揺れているとき、正常な安定した心理に戻す、その時にいろいろな癒しを求めて心が動く、その様子を表現にして示す。日々の生活が繰り返されてゆく中で俳句での心遊びは大切である。感情の揺れをコントロールし安定させる気持ちの切り替えは俳句で出来る。

   月もまた前傾姿勢寒波来る   岡崎淳子

   晩年の右手に弾む手毬唄    岡崎淳子

句集『蝶のみち』より。作者は「暁」編集委員。目視により心に映った作者自身の思考の形が「月の前傾姿勢」であったのだ。寄物陳思によって編み出された心の弾みは「手毬唄」にもしてしまう。上弦か下弦の半月の前屈みの姿を、作者は自分自身として確心。それは前進しようとする心の姿勢である、半月が前傾させようとする形を作る時、自分自身を投影させ、寒波へと立ち向かう心の安心を受けとっている。その時の心の弾みこそ、心を自由に遊ばせる岡崎淳子さん自身であったのだろう。日日の一切から解放される楽しく美しいほんの一瞬。ここには心遊びがある。正に寄物陳思による美意識が込められているのだ。生きていることの実感が一瞬、喜びに行き着き心が美しく思えることの素晴らしさ。作者にとっては一瞬一瞬の思いは心の弾みとなって蘇生するのである。心遊びにより癒されてゆく寄物陳思であった。  

 俳句は…心遊び…である。日常の日々に傷つき悩み苦しむとき。癒しの心で心情を安定させ明日への弾みに向かう心を育てる。それは心遊びであろう。「歯車」の代表であった頃の鈴木石夫先生は、今の私たちにこの心遊びの重要性を懇切丁寧に諭されていたように思う。生きていることの楽しさを俳句にすること。生活の日常を俳句として心遊びする、心を癒して人生を楽しくする。平成の今の社会にあって、自分自身を感じとることすら出来ず、自分の心も開けない、そんな中にあって自己表現の出来る場としての俳句である。心遊びの要素がどれほど大切であるのか、示して下さったのは石夫先生であった。俳句を作り続けることの意義を私たちに遺して他界。

 …これが私の俳句だと言えるものが出来るまで続けなさい。

 改めてこの言葉が心を打つ。決して忘れてはならない。心遊びは私の俳句である。私がわたしを癒すことでもある。石夫先生の心遊びの俳句とは…心を癒すこころを大切に保持することであった。私が俳句を作り続ける所以である。 

 

 

俳句を作っている良さはなになのだろう

                        人やものの機微はアナログでなければならない

                                                 児 島 庸 晃

 俳句を作っている良さはなになのだろうと考えてみるときがある。そして多くある文芸のなかで何故句つくりをするのか、考えているときは私にとっては一番幸せな時間なのかもしれない。物を見て感じて何かを心に残すその瞬間の喜びは短詩系文芸以外にないからであるようにも思う。私はエッセイも小説も短歌もシナリオも書いてきたが、やはり究極は短詩系文芸ではないかと思えるようになった。そして純粋に見つめる心はデジタルではないようにも思えるようになった。即ち伝統のもつ心はアナログでなければならないようにも思える

 そのきっかけは「十五夜にいったん帰京いたします」の句を俳句総合誌「俳句研究」で知ったときのことであった。人やものの機微はアナログでなければならないと思うきっかけを貰った句である。伝統の俳人がこんな句をと思い心ひかれたからである。この句は「篠(すず)」岡田史乃主宰の句である。その後稲畑汀子さんの「峡深し夕日は花にだけ届く」に及んでは、益々アナログの良さに接することになる。アナログ…時計で言えば針が見えていて刻々と進む姿が見える。デジタル…針はなくそのときの時刻が数字で表示される。いま世の中は全てデジタル化されてゆこうとしている。瞬間そしてまたの瞬間の感情は目に見えてはこない。結果だけを要求するデジタルへと移行しようとしている。いま俳壇は俳句が言葉先行優先の形だけのものへと進もうとしている現状。私はデジタル化への道と捉えたいのだ。

   春曉の夢に置き去る ちちとはは   向山文子

現代俳句協会「データーベース」より。この句はアナログの良さをとことん魅せて読者を引き込む心の濃ゆい感情や表情を示した句のようにも私には思える。この句のどの部分かといえば「夢に置き去る」の俳句言葉である。この俳句言葉の使い方やこの言葉にたどりつくまでの心との葛藤が私には見えてくるのである。「夢に置き去る」と現在進行形にした言葉。このことがアナログなのである。「夢に置き去った」ではないことがアナログなのである。デジタルは物事の終結した部分を表示するデジタル時計と同じように、その部分が数字で表示されるだけのようにそこまでの過程はわからないのだ。この句は作者の心の中での「ちちとはは」との作者の葛藤が、それも「ちちとはは」の諸諸の事がらが作者の心の中で動く過程が私には見えてくる。それは作者の工夫とも言える「夢に置き去る」と現在進行形の表現を用いたからであるようにも私には思えた。このように俳句は言葉の表現方法でアナログにもデジタルにもなる。言葉そのものが先行してしまうと全てがデジタル化する。俳句はデジタルになってはいけないのだ。

 人の日々の生活の機微はデジタル化されると表面には現れない。したがってデジタル語でなる俳句言葉は心の微妙な揺れは表現されることはないのだ。何故かと言えばデジタルは物事の結果、もしくは結論の表現言葉であるからだろう。作者がその句を作るのに、どれほど苦心苦労をしたかの表現工夫は見えてはこないのだ。故にその句に含まれている緊張感、緊迫感は読者には伝わらないし、その句の理解度は深まらない。だが俳句作品を見ているとデジタル化しようとの傾向が時々ではあるが、一句のどこかの部分に俳句言葉として出てくる、その傾向が当然のように配置されている。

   浅草よわが故郷の十二月    石川正尚

俳誌「歯車」327号より。この句はアナログ発想を基本とする原点を思わせる俳句なのではと私は…。何気なく自然のままに登場した「浅草よ」の俳句言葉。ここにある「…よ」の間投助詞はアナログ語なのである。相手に呼びかけたり、訴えたりするときに発する語であり、この言語はデジタル化は出来ない。作者の思い出の諸々がこの「…よ」の俳句言葉で強調されてぐーっと深まり、これ以後の言葉へと繋ぐことが出来る。この俳句言葉「…よ」だが固有名詞にくっつくことにより、よりアナログの感情を強めるもの。これが単に「浅草」であれば地名を示すだけでデジタル語である。作者と固有名詞との思い出の多くある情感はデジタル語としてあり、作者の数々の思い出は深まらない。言葉そのものがデジタル化され俳句言葉そのものがデジタル語になる。そうなってはならないのである。

 日常の生活様式がデジタルへと時代を進めてゆけばゆくほど文学・文芸は壊れる。物事の結果だけが求められ、人間の評価は結果が表に示されなければダメ人間とされる。物事の結果へとつながる苦心苦労はどうでもよい。これがデジタル時代の評価なのである。しかし文芸は作品となる過程が大切なのである。人間としての大切な心の暖かさや優しさは文芸の基本的思考なのである。俳句言葉までデジタルになってはならない。

 次の句は人間自身が本来の人間そのものを取り戻し、より人間らしさを誇らしく表示している句である。

   耕せば土ふふふふと笑いけり    福島靖子

句集『青胡桃』より。この俳句言葉「ふふふふと笑いけり」はアナログの発想なのである。作者そのものが擬人化してのもの。「耕せば土」と作者が土の気持ちを代弁しての俳句言葉なのだが、この言葉にたどり着く過程の緊張感を私は受け取ることになる。その作者の心はアナログなのである。だが、その気持ちは純粋でなければアナログの思考は生まれない。心がデジタル化されていればこの純真な思考にはなれてはいないのだ。俳句言葉「ふふふふと笑いけり」は日常生活では汲み取ることの出来ない心の中にある僅かな温かみのプラス思考への温存なのである。物事の結果のみが評価される社会の中にあって心にはまだアナログの情感が残っていた。作者自身のアナログ思考を賞賛したい。私たちは社会の中にあっての日々はデジタル化された生活様式を保たなければならない現状で心は壊れてゆく。このような現実に直面しての詩性は俳句言葉にも出る。「ふふふふと笑いけり」の俳句言葉は作者の現実へ向かっての、もうこれ以上は壊れまいとする純粋な心の保全のようにも私には思える。…詩形がアナログでなければならない理由である。

 デジタル化と言えば、こんなにまでもデジタル化されてしまうとは…私を吃驚させたのが次の句である。

  ・(ト)・(ト)・(ト)ー(ツー)ー(ツー)ー(ツー)・(ト)・(ト)・(ト)ピカドン・(ト)                       

                             市川春蘭

「現代俳句」平成三十年6月号より。作者のこの句を作ることになった状況がよくわからないので良否の事は私にはわからない。この句はモールス信号の一部分を思わせる雰囲気でもあるのだが、明らかにデジタル発想である。この句の受取りを読者それぞれがどのように思うのかは私にはわからないが、心の程はどのようなものなのかは、この句には感じられなかった。所謂無機質の心情のようにも思う。この句の「ピカドン」とは広島・長崎原爆に対する批判的な思いがあってなのか、いずれにしても無機質のものの感覚である。この句からは作者の心情は読みとれないのだ。何故なのだと、私は考えたのだが、やっぱり文字そのものが記号のようにしか思えなかった。社会がデジタルしてしまうと人間の感覚感情は麻痺して無機質になってしまうのだろうか。この句はデジタル社会の典型のようにも思われる。デジタル語俳句は心が壊れてゆくのだろうか。…このような俳句言葉が俳句雑誌に並べられると、心そのものの汚れが顕著になる。文字が記号のように見えてきてしまうのかもしれない。文芸は壊れてしまうかもしれない。私にとっては受け入れられない句であり、デジタル時代における俳句のあり方を思考するにアナログ思考を強めることとなるのである。

 デジタル語発想の俳句は俳句そのものが俳句言葉になったその時点で、既に発想そのものが過去の言葉の句になってしまうのではないかと私自身は思ってしまうことがある。デジタル語発想の句は平成時代後期のようにも思われるのだが、既に明治時代にもあった。次の句である。

   鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規

この句は明治三十三年作品である。この句はデジタル語発想を基本とする言葉の使用がある。その俳句言葉とは「ありぬべし」。有りぬべしの意味。あるはずだ。きっとあるだろうの意味。俳句言葉「ありぬべし」は作者の心の内面は物事の結果としてあり、これはデジタル時代に求められている結果のみを良しとする思考なのである。この結果に至る作者は目視の時の作者自身の内面での心理的な心の葛藤は描かれてはいず、この句に至る心の働きはどうでもいいこととなってしまっているのであろうか。この時代はまだすべてがデジタル化されてはいない頃である。私たち現代の俳人にはものたりなくて句に対する緊張感、緊迫感と言う必死な俳句への取り組みはみられなくなってしまう。目視の時の結果だけの報告レポートになってしまうのである。つまりこの句へ至る苦心苦労は見えてこない。ここにあるのは観念語としての俳句言葉である。この句を吟味するに句そのものに観念的考慮が優先して、この句を充分に読み込む途中で読者の心を遮断してしまい弾き出されてしまう。既に俳句言葉は作品制作以前に過去の俳句言葉になっている。デジタル語発想は過去の言葉となっているのである。これは現代のデジタル社会の中にありて心を壊すことになりはしまいかと私は思うのである。故に私たちは人間の心の有り様を問うことになる。…アナログ詩形を欲する所以である。

 デジタル発想・アナログ発想。それぞれどちらの形でも俳句にはなる。作者の内面を深くしてゆくのには、アナログ特有の暖かさや優しさの感じられるアナログ語が必要とも思ういまの私。それは何よりもいまがデジタル時代であるからである。俳句はアナログ詩形でなければならない理由でもある。

私たちが普段見ている面や線には感情がある……俳句の心

         一句の背景にはどんな俳句にも面や線の姿がある

                 児 島 庸 晃

 世の中の目視できるもの全てを集約すれば面と線になるというのが、抽象表現の基本的考えである。面も線も、それぞれに表情を有しているというのが、抽象絵画の生みの親であるカンディンスキーの考え方であった。古代の頃には文字がなかったのであるがその頃の人たちは日常生活の感情はどのようにして受け取っていたのだろうかと思う。自然界のなかにある線や面を用いて心のうねりを表現していたのであろうか。このことはずーっと後になって象形文字を生むことになるのだが…。私たちは常日頃、いろんな現実に直面して面や線を見ているのだが、それほどに感情を込めて、物を見つめていることはない。私はそのような心をこめて見つめたこともなかった。いったい何処から微妙な表現のバージョンが生まれるのであろうか。そして、なるほどと思うのはカンディンスキー抽象絵画には情感がある。例えば黄金分割には素晴らしい調和のとれた三分割がある。古代エジプトのピラミッドなどの建造物に見られる美しい形を作る基本とされる姿である。…これらは俳句の形にも取り入れられていて俳句も三分割されているのである。上から導入部・展開部・終結部と言う五・七・五のリズムを作っているのである。即ち面の三分割なのである。三分割された一分割が、それぞれの面を作っているのである。その一面は情景が集約された面として受けとれるのである。俳句はその三分割のバランスに美しさが生まれるかどうかなのである。ここには抽象表現の美しい心の調和がとれた感情表現が生まれていることがわかる。これが俳句における品格なのである。見える物すべてを面と線として捉えた時に生まれる感情を言葉に置き換えるというのが抽象表現俳句なのである。

 では、その具体例を一つ一つの句より抽出しながら検証したいと思う。

   コーヒー店永遠に在り秋の雨   永田耕衣 

句集『殺佛』昭和53年刊より。この句は一見して抽象表現でないように思われるのが一般である。一般に考えられる抽象とは、具象に対しての区別としてであるからだ。だが、私は区別そのものを言っているのではなく、その心の有りどころとしての抽象表現なのである。まず考えなければならないのはすべての物を形に置き換えたとき心に生ずる情感である。「コーヒー店」を形にすると長方形か正方形として見え、それは立方体の一面である。どっしりとしていて微動すらもしない重い安定感がある。「秋の雨」は、その降る雨の状態から見えているのは無数の線である。この場面に遭遇した作者はその無数の線に痛みつけられている立方体に心を犯されている気持ちが理解できるのである。そしてこの気持ちのどうしようもない心から「永遠に在り」と言う言葉が生まれたものと考えられる。

私が何時も思ってるのは、言葉から俳句を作ってはならないと言う意味である。俳句は寄物陳思であると言う意味でもある。物をよく見てとは、面と線の置かれている情景から発生する関わりは感情の起伏おも表現出来るのだ。形独特の情緒そのものが抽象表現にはある。

   身をそらす虹の

   絶巓

   処刑台      高柳重信

句集『蕗子』昭和25年刊より。あまりにも有名な句ではあるが、この句こそ私が主張したい抽象表現の基本的内容の濃ゆい作品なのである。抽象的思考が何故生まれるのであろうかと言う疑問を解いてくれる鍵がこの句にはあるからなのだ。比喩の持つ特性を強く打ち出せるのが抽象の極みなのである。「身をそらす虹」と表現するこの手法はそれそのものを人体と見立ててのもがき苦しむ状態を虹の美しいやわらかな曲線にしてしまう。作者の暖かさとやわらかさがこの虹の線にはある。しかも七色の輝きで包む。これらはみんな線の集合よりなりたっている。これが線の持つ独自の感情なのである。しかも作者の連想は次へのステップ、「処刑台」へと展開。「処刑台」は立方体。冷たく光る面の全てを見せる。線と面の対比が心を擽る。面の上に置かれた線は七色の光彩をはなっている。ここに作者の気持ちが置かれていて最も主張したい心なのである。…面と線からなる抽象表現でなければこの擽りにはならないと思う理由である。

 ここでしてはならない手法として私の過去の作品を採り上げその事の程を考えたい。

   しーんとつーんと朝 ずーっと枕木の風景   児島庸晃(照夫)

この句は私の俳句誌「青玄」時代の句である。当時、十代、二十代の若手が六〇人ほどいた中で必死に作っていた時、二十三歳の時である。とにかく前進しなければ落ちこぼれる、そんななかで句に対す考慮が甘かったのである。この句には面の部分はあるけれども線の部分がないのである。面の部分とは「枕木の風景」である。枕木は長方体で、これは面の部分。枕木が並べられて遠くまで続く景色。「しーんとつーんと朝」はオノマトペで身体感覚だが線にはならない。面があって線がないのは意識が分離して難解俳句を生む。意思が統一していないのである。ではどうすればいいのか。線の部分を俳句にすればいいのである。そこで考えて添削したい部分が「しーんとつーんと朝」。ここを「つーんと朝くる」にすると線が生まれる。朝の光線が表現されるので、面の上にたっぷりと線が置かれるのである。線の情感と面の情感が混じり合って心を広げる。

 この線に動く動作が生じると視線の先に方向性が働きプラスの強い情感が発生する。

   田に水が入り千枚の水鏡    鈴木石夫 

句集『風峠』平成4年より。この句は「水」の流れが「田」へと動くのだ。この躍動感が作者の心を動かせたものと思われる。農家の人にとっては生活の基盤となる日常に嬉しさが最大になる。作者にとってはこの喜びを共有した一瞬でもあろう。「水」より生まれた流水の線は固定したものではない。心の喜びも一緒になって躍動する。「千枚の水鏡」へ向かって…。この千枚は面であり流れてくる水を待つ場所。微妙にマッチングする瞬間こそ、面の部分へ入りこむ線の触れ合い場所。これが抽象表現の特徴的絵画となる俳句の味なのである。

 これまで私が述べてきたのは形だけでは具象とか抽象とかの区別は出来ず、また呼称も判別出来ない部分における抽象表現俳句の基本的考え方であった。 

 もう一つ吟味しなければならないのが、言葉だけに見られる抽象表現俳句である。

   すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる  阿部完市

句集『にもつは絵馬』昭和49年より。この句は抽象俳句と思われがちだが、言葉だけが抽象なのである。その言葉とは「すきとおる」。言葉が観念語である。しかも詳細な部分は作者にしか見えていない。抽象言葉にすべてを委ね、その抽象に全体を匂わせる文体を構成してゆく俳句の方法なのである。従ってこの抽象の部分言葉が理解出来なければ、句そのものが成立しないのである。果たして読者は? 

 同句集『にもつは絵馬』の中の句も同じように言葉だけが抽象の句なのである。

   兎ら妹らしずかに想像している乱   阿部完市

難解な句ではない。しかし実感が掴みにくい。何故なのか。抽象言葉が思考を曖昧な方向へと引っ張っているからである。その言葉「想像している乱」は観念語が二つも使われ主情のポイントがずれるように作為されている。これが抽象俳句の常套的作り方であった。常套的というのは現代俳句の世界が、この作り方を許してきてからである。何時の頃からか、俳人は物を見ないで句を作るようになった。言葉から俳句を作ってはならないのである。実感を伴わない句が生まれる原因である。抽象俳句言葉は一般に誰もが同じ意味になる観念語を使うようになった。このことの結末は自分以外の句に興味が移り、その句の一部分の言語に感動し、その言葉を流用するという雰囲気まで生まれてきた。つまり抽象の類似句である。

 いろいろ書いてきたが、最も理想的な抽象表現のあり方はどうあるべきなのか。結論から言えば抽象俳句の形をしない抽象表現はないものかと思うのである。一般に抽象は理解しにくいという話をよく聞く。それは理解しにくいのではなく、理解しやすい表現の句が出来ていないことだと思う。どのようにすれば理解しやすくなるかということに誰も注目しなかったことである。抽象表現だがわかりやすい句もある。 

   じゃあと言い点線となり卒業する   前田 弘  

俳誌「歯車」339号より。この句のポイントがどこにあるのかだが。この句は正しい抽象表現の基本がここに示されていることである。それは「点線」である。この世のすべての物が面と線の形に集約されると、そこより生まれる情感が人の心を擽るのである。「点線」の点は円い小さい面である。点線は線を表現するために一定間隔で点を表示したもの。この句が新鮮な表現をもたらしていると思えるのは「点線となり」である。卒業生があちらこちらと点在してそれぞれに離別してゆく様子を比喩したもの。この「点線」は線なのだが点(小さい円い面)を並べたもの。点線は点と点の二つ両方をくっつけたり離したり出来るかもしれない関係を保って存在する。卒業して離別してゆく姿の心をこの点線は象徴しているのである。…これらの状況イメージの象徴表現である。抽象俳句ではないが抽象表現俳句である。俳句で言うところの抽象とは面と線の組み合わせにより生まれる情感である。

   春がくるくる一輪車二輪車三輪車    桐山芽ぐ

「歯車」339号より。この句も抽象俳句ではない抽象表現俳句である。「春がくるくる」とは、ここでは車輪が回転していること。つまり回っている車輪は円なのだがよく見ると一本の線のつながりとなり見える。本来は円なのだが、回転し始めると線のつながりに見える。この回転を見ている作者まで春を感じ楽しく思えてくる。一本の線の作る情感が作者の心を楽しくさせる。そしてその場の状況を作り出しているのは「一輪車二輪車三輪車」。どれも平面の部分の存在である。この単なる平面の存在部分から凄く愉快な心を生み出す。面と線の接点に生ずる心象現象に作者と共に読者も誘い込まれる。心象は面と線の織り成す不思議な心を生む。…これが抽象表現俳句だ。故に抽象と言われる分野での俳句は俳句としては成立しないのである。しかし抽象表現俳句は、現代俳句に於いては大切である。今まで心象を心の奥深く宿す表現に私は、それほど出会っていない。俳句そのものが心を大切に保ち、特に私性の表現へ向かうのならば、もっと深く掘り下げなければならない課題の一つに抽象俳句表現の姿はあって当然である。何故ならば、形あるものは全て面と線で構成されているからである。そこにもたらされる現象は面と線の接点にあり、そこより発生する情感は真実である。嘘のない姿には緊張感が込められている。

批判的リアリズムと言われる文芸……俳句の心

            リアリズムの正しい在り方を示す俳人

                  児 島 庸 晃

 批判的リアリズム…この言葉はあまりにも聞きなれていないかもしれない。純粋文芸の一端である俳句にとってはなんの関わりもないと思われるかもしれない。短詩系のしかも十七音律の言語に果たしてこのようなものが必要であるのだろうか。また可能なのであろうかと、考えるのは至極あたりまえのことである。この研究実践が行われたのは昭和三十年の初めから四十年後期である。当時、この運動が始まりかけたころは、金子兜太の造形俳句論や社会性俳句、それに、赤尾兜子などの前衛俳句、大原テルカズのイメージ論が俳句総合誌で活発に飛び交っていた時期である。それに関西からは、八木三日女、歌人塚本邦雄、などが論戦に加わり大変な評論合戦の最中であった。

 このときひたすら当時の青年俳人を鼓舞し、現代俳句に向かってリアリズムの正しい在り方を説き、俳壇へ敢然と立ち向かった俳人がいた。伊丹三樹彦である。

 昭和三十年ころから激しくなってきていた社会性俳句論と、それに伴って湧き上がってきたリアリズム論が、三十一年末に「社会性は態度である」と金子兜太が結論づけ、一応の社会性論が終止を迎え、秋元不死男などの「俳句もの説」による即物主義リアリズム、それから抜け出しての主体を表現の内部で回復させようとする表現主義リアリズムの論戦が俳句総合誌や詩誌などで賑やかに華やかになろうとするとき、「批判的リアリズム」こそが真のリアリズムであると主張発言して、当時の俳壇を激震させたのが伊丹三樹彦であった。

   古仏から噴き出す千手 遠くでテロ 三樹彦

俳句結社「青玄」一三〇号、昭和三五年十一月号に発表された三樹彦の句が俳壇を激震させたのであった。

 いま、私は「青玄」一八六号に発表された三樹彦の言葉を思い出していた。批判的リアリズムがどのような内容であったのかをもう一度思い出していた。発表以後の俳壇が「青玄」の思考に、注目し、多くの青年男女が入会、刺激を重ねてゆくのを繰り返すたびに、その考え方の未来には多大な期待が膨らむであろうことを知る。

当時、私は俳句の革命的出来事だとも思った。

 その伊丹三樹彦の発言は次のように述べられていた。

「批判的リアリズムに依る生活俳句の実践」これは「俳句は諸人旦暮の詩である 草城」を前進解釈したものであります。既に小寺正三(後に俳句総合誌「俳句芸術」を発行)が「俳句と散文の間」で指摘しました通り、モロビトアケクレノウタが、そのまま日常卑近即興詩に堕することなく、より高次の人生詩にまで迫るためには、どうしても鋭い批判精神を必要とします。批判精神とは生活諸般の事物や現象に厳しく対決して、知的思考を加えてゆくことであります。そこには当然「こだわり」や「いぶかしみ」や「おどろき」など多種多様な心的要素が感じられるに違いありません。これらの要素を詩的エネルギーとして生活の歌を発してゆくときには、おのづから在来の抒情とは異なった質の抒情が生まれてくるでありましょう。現代俳句昨今の問題である「社会性」も「造形」も「無季俳句」も、出発点に遡れば、すべてこの新しい現実生活の凝視に基づく批判精神に絞られるものと私は考えています。また、表現方法としてリアリズムに執着するのは、俳句が広く知的大衆の詩であるとの認識から、これら読者の理解なり共感から遊離しないためにも当然守るべき大道と信ずるからであります。

   沖で肌灼くぼくに 浮上の蟹の拍手    伊丹三樹彦        

   ショパン淀む 勤労者まだ来れない椅子  伊丹三樹彦 

   この子供臭さへ 聖夜劇開幕       伊丹三樹彦        

   外套が鉄となる肩 小市民        伊丹三樹彦 

昭和三十六年当時の三樹彦作品である。これは三樹彦自身が「青玄」一八六号に発言した批判的リアリズムを作句の態度として実践を続け、ますますの充実に入ったころの作品であった。

 その発言と言うのは「隠れているものまで見えたように書く」というものだった。批判精神との関わり合いのなかで自分自身の存在を句のなかに見えるように置き据えるというものだった。見えているものを見えたままに書く、という、素朴リアリズムを止揚した結果のことでした。この批判精神という問題は作品に結晶されるべき批判性が作家の主体的内部意識としてどこまで表出しているかによって評価が異なるのである。

 「隠れているものまで見えたように書く」とは表現方法上のこととして、リアリティの追求ということ。文学におけるリアリズムは単なる事実の再現で満足出来るものではなく、事実や素材の生々しい迫力でもなく、作家の内在から発し読者の内在に伝える静かな迫力を意味する…としたもであった。

 三樹彦はいろんな人からのインタビューに多忙な日々であった。草城亡きあと、血の出る思いで継承、発展させるに大変な努力を続けておられた。日常の行動一つをとっても三樹彦の神経の使い方はなみなみならぬもの。伊丹文庫の家業についやす時間の何倍も、何十倍も労を惜しまなかった。だから通信等の一つ一つにまでも目を通し、きちんと返信を書いておられた。決していい加減な返事ではなく、何時も本心が伝えられていたのである。それは昨日や今日の新会員に至るまでの気の使いようであった。こんな多忙な中でいろんな俳人からの反論が発せられる。そのたびに答えてゆかなければならない。実に大変なことであった。いやがらせらしきものもあり、総合誌などに実名入りで書かれ、迷惑この上ない時期である。受け継ぎはしたものの、草城死後の二代目としての皮肉っぽい文章がたびたび俳句の総合誌にもでる。このようなときである。批判的リアリズム俳句の必要性とその存在感を説いての日々であった。

 ところで批判的リアリズムを提唱したこの時代はまだ子規以後のホトトギス俳句の客観写生という、素朴リアリズムの全盛期。当然のように三樹彦の思考には反対論が多くありました。…でも青年俳人は三樹彦の主張に賛同しどんどん増えてゆきました。最盛期には青年俳人が五十人はいたと思う。この考えに諸手を上げて最初に賛同したのは鈴木石夫であった。まだ「暖流」の同人でした。その頃の句に次の句がある。

   東京時雨おろおろ歩く母をかばひ   鈴木石夫

   風さびし季節の傾斜いよよ急     鈴木石夫

   串柿の種背信の味がする       鈴木石夫

 しばらくしてこの単純素朴の客観至上の考え方に対して主観の尊重を掲げ、主観の回復を主張する立場の運動が起こってきます。そのひとつが構成主義リアリズムというものでした。この代表俳人山口誓子です。

客観的なものを見るのに主観を働かせて見るという考え方。この作句姿勢ですが、対象となる現実は客観的現実でしかなかったのです。この方法は素朴リアリズムと同じで、客観的現実を切り取り構成したに過ぎないもののように思われたのです。このとき「青玄」の内部より、この誓子の考えに反発が起こり。大変な論戦が起こります。当時の「青玄」大阪支部のメンバー、佐々木砂登志、寺田もとお、三宅三穂、松本円平、それにオブザーバーとして門田泰彦、児島照夫(庸晃)が加わっての合同研究でした。

 この構成主義リアリズムというのは、イデオロギーが観念的で知的で図式的で、覚醒された意識としての主観ともいえる感情としての情感が希薄なままの表現に終始するというもの。これは従来の素朴リアリズムとなんら変わらぬもので現実を客観的に冷静に主観しているに過ぎないではないかと…の合同研究の結論であった。

 そこで発展的な展開での苦悩が続くのですが、リアリズムの基本に帰趨して何かが欠如しているのではないかとの討論が一年半ほどに渡り論議されました。このとき三樹彦からの提案があり、三リ主義なるものへと展開してゆくのです。

 三リ主義…とは。

   感情のリリシズム

   態度のリアリズム

   形式のリゴリズム

この三本の柱を批判的リアリズムの価値基準と考えるようになったのです。

 以上が批判的リアリズムが紆余曲折を経ての誕生、そして展開のあらましである。私が、ここでこの思考を改めて採りあげるのもいまの現代俳句の矛盾点が、既に昭和三十年代に研究されていたからであって、もう一度基本点に考えを戻したいからであった。

若者の思考が容易には受け入れられる雰囲気ではなかった……俳句界

          既成俳壇と闘った若者たちの記録

               児 島 庸 晃   

 昭和30年〜40年頃の俳壇は若者の思考が容易には受け入れられる雰囲気ではなかった。そのようななかで鈴木石夫は、石夫自身の心を、個々の俳人に押し付けるようなことはしなかった。多くの結社誌は、この若者の思考を認めようとはしなかったのだ。

…このような当時の情勢と必死に闘っていたのが、僅か十二ページほどの俳句集団「歯車」であった。ほとんどが十代、二十代前期の若人であった。指導者…石夫は主宰者ではなく助言者として、若人と同じ目線で、若人の心となり句への応援をしていた。その主体は現代の俳句文体としての指導であった。現代人の心としての感性を磨く感覚俳句であったように思う。

 生活の実感、そしてそこより生まれる感性は確実に若者の心を感覚に育てていた。私は当時の青春俳句を、俳壇は良しとはしなかったことに、今でも些かの反発を覚えるのである。写実主義の必然が、俳句の常道のように思われていて、情感の突出した言葉の表現に対しての心の操作は、あまりにも異質のもののように避けられていた。

 当時、この文体改革に着手し、その運動に積極的に乗り出したのは、伊丹三樹彦と鈴木石夫のふたりであった。そして多くの若手俳人を生み出している。三樹彦の門下からは、摂津幸彦、坪内稔典、鈴木明、諧弘子、伊丹啓子、松本恭子、澤好摩、味元昭次。鈴木石夫の門下からは、酒井弘司、永井陽子(後に短歌に転進)、夏石番矢、林桂、松下道臣、萩澤克子、それにいまも「歯車」で活躍の方々である。

 ここで当時、問題を投げかけた句がある。私の句で全く申し訳ないのだが…。私の17歳〜22歳頃の句である。

   あなた確かめた炎の舌がある 暮色の町

   しーんとつーんと朝 ずーつと枕木の風景  

   ビルの谷間で赤茶けた恋 ぼくのトーン

   しびれだす正座 生きるを思案してる刻

   水禽の目に棲み冷える君の微笑

   例えば単純に 水面から笑って顔上げる

   作ってはつぶす机上の小さな革命旗

これらの句は既成俳壇では無視。これが当時の常識でもあった。全くの異質のものだったのだろう。何時の間にか異能俳人にされてしまっていた。もっとも破調であり十七音は越えている。だが、現代語を使うと従来の定型では収まり切れないものになってきてしまう。その疑問が私に…あった中での俳句作りであった。多くの俳人の反対する中で認めて頂いたのは、伊丹三樹彦と鈴木石夫であった。

 その後、二十年ほどして俳壇は一変する。俵万智の歌集や松本恭子の句集が世間を圧巻してゆくのだ。松本恭子の句集『檸檬の街で』は一般書店に並べられ一週間も経ていないのに三万部も売れるという状況を作る。購入したのは俳句を全く作ってはいない読者であった。世間が既成の俳句に対して、文句は言わないまでも不満を持っていたのが現実のこととして問われる事態になる。大変なことが起り始めていた。恭子は週刊誌の俳句欄の選者に迎えられ、テレビに俳句のコーナーが設けられ、一般からの俳句の募集が始まり、そこで俳句を語ることになってゆく。国語の資料集にまで作品がとりあげられるまでにも…。俳句が普段俳句を作っていない者にまでひろげられたのだ。恭子の何が一般読者の心をとらえたのであろうか。次の句を見て頂きたい。

   恋ふたつ レモンはうまく切れません  

   青いセロファンに巻かれて 月夜の鳥

   さか立ちしたら涙溢れる 六月は 

   檸檬シュパリ カリ わたしの敵はわたし

   無鉄砲なの 寒のれもんを下さいな 

   充血したハートでフラッペ崩してる

   踊って泣いて赤い毛布で眠ったわ

   わたくしの炎のしっぽ るりとかげ

日常の生活心情が俳句を作ることによって、心のどこかで救われてゆくことを、恭子は心得ていたのだろう。ずばりその場、その時の臨場感だったのだろう。長崎より出てきて京都で学生生活をする身であったが、入退院を繰り返す日々。その後、散文の方への転向。テレビ局からのシナリオ依頼があったそうだが…。私が大阪シナリオ学校の卒業生と知ってか、話をされたことがあった。

 こんな時代の変遷を支えていまも俳句集団「歯車」があるのは何であったのだろう。それは臨場感であった。アドリブとしての表現であった。アドリブ表現は純粋感動の現われであり、心の真実感でもある。鈴木石夫が、一貫して追ってきたものは感性俳句であったと思う。それそのものが臨場感であり、アドリブ表現であったのではないかと思う。それぞれの俳人の努力の程は、次の句を見ていただきたい。ここにはアドリブ表現での純粋感動がある。

   近江より京都へ山はよく眠る    前田  弘

   十八で捨てた村から桃が来る    栗田希代子

   コスモスをかきわけかきわけ再会す 藤 みどり

   怒鳴り込んで行く処なき猛暑なり  大久保史彦

   最終のバスは方舟寒北斗      門野ミキ子

   昼眠も特技のひとつ秋の午後    児島 貞子

それぞれが目的をもって一定方向へ進んでいながらもときとしてとまどうことがある。こういうとき心の内を 少しでも表現したいと思うのは人間にとってむなしい行為なのかもしれないのだが…。俳人は自分自身の心と、必死に毎日毎日闘っている。

 俳句にとって…この行為はアドリブ表現以外にない。感性表現をするとき、感動は、その場、そのとき、思ったままの表現をしなければ二度とそのものずばりの表現はない。生存してゆくための人間生活を続けているかぎり、今日の感動は明日の感動と同じものではないのだ。今日だけの感動である。明日は明日の感動があるのだろう。私は必死に思うのだが…。生きている喜びや悲しみをもっとも大切にしなければならないのは、この純粋感動を出来るだけ長く、出来るだけ強く持ち続けていたいからではなかろうか。 

第6回人生十人十色大賞入賞 

     この大賞毎日新聞文芸社の共同コラボにより全国的に募集

    たエッセーです。応募者2000人程の中から30人の入賞。その

    中に私の名前が入っていました。この30人を集めての書籍になり、

    一の本屋さんの店頭に並べられ売り出されます。

   

            母の涙は私への贈り物  

              児 島 庸 晃

 電話で母からの呼び出しがあったのは桜の花の散りかけたころであった。居間の畳に座って微笑みながら私を迎えた。もう十年も会ってはいなかった。                         

「何時死ぬかもしれんから見せたいものがあるんよ」

母の手の中には、私がいじめられていた頃のボロボロに引き裂かれた学生服があった。

「ボロボロの姿になってもお前は泣いて帰ってきたりはしなかったよな!」

私は母を見ていた。そして母の瞳の中で浮いては光る数粒の涙のあることを知る。九十歳になっても苦しい心の蓄積の記憶を忘れてはいなかった。記憶は母にとって九十年生きてきた重荷の積み重ねであったのだろう。母さん泣かないでよ。母は泣き続けていたのか。私は必死に母の言葉を受け止めようとした。その場に座り込み顔を両手で覆う。涙を見せてはならない。涙を出すまいとも思った。

 あれは中学二年の時だった。私は死ぬつもりで電車の枕木の上に立っていたのだ。何時とはなく電車が私を押し倒してくれるのを待っていた。

「馬鹿たれ!何すんね」

数分後、私の背後から声があった。

「彼の世へゆくつもりやったんか」

電車の運転手は早口で喋った。

「馬鹿たれ!」

咄嗟に大きな手が私の頭に飛んできた。

「甘えるな!命は一つや。お前は親のことを考えたんか。お前の命はお前だけのものではないんや」

死ねたらよい、と思っていた私。数重なる学校での毎日のいじめに耐え忍ぶだけの心がなかった私。何するにしても前向きの勇気をもつゆとりはなかった。電車は、その場で一〇分ほど停車し、何事もなかったかのごとく発車した。ゆっくりと歩きだした私は、いじめた生徒たちの顔が浮かぶ。その一人一人の仕草が思い出されても怒る気持ちにはなれていなかった。家に帰ってきた私を見て母は、…その学生服はどうしたの、と言った。しばらく沈黙が続き母は黙った。それっきり母との会話はなかった。一週間が過ぎ二週間が来ても、母と話をすることはなかった。死のうとしたことを母は知っているのかもしれない。そう思いつつも私の方から話をすることはなかった。ふと見ると母は学生服の破れた部分に小さな布を当て針で縫っていた。私はその場に蹲った。その破れはいじめられたときのもの。すこし縫っては手を休める。また次へと縫い進める。その仕草は母の暖かい思いが込められている手付きにも思える。だが、一言も母は言葉に出さなかった。言葉に出さない意味を知るにつれ、母の手の動きが、とても寂しいものに思える。私は母へ向かって何の言葉も出せなかった。いじめはその後も続いていた。だんだんひどくなり、またその度合いも増し陰湿にもなる。止めようもなくなっていった。

「今日は服の釦が二つ落ちていたのよね」

そっと押入れの中に隠していたものだが母は見つけ出していた。服を手に持つと箱の中からゆっくりと釦を取り出し服に縫い付けてゆく。キラキラと光る釦は私を拒否するように目に届く。その間も母は黙って、ただひたすらに手を動かせ服に釦を縫い付けていた。釦が母の手から滑り落ち畳に転がる。咄嗟に私は手を出したが、畳に手が届こうとしたときだった。そこには母の手があった。釦は素早く母の手の中にある。

「釦は二つだったね。もっと取れてなくなっているかと思った」

その母の手は巧みに動いてときどき独り言を言う。だが、その両手は一瞬の動きを止めた。指先は動くことも動かすことも出来ないほどの痛みをともなっていた。針による突き傷が沢山小さい穴となって母の指にはにある。それはいじめられたその都度の数だけ母の指には残っていた。人差し指の内側をそっと下にしては見えないように心配りをする母。必死に心を働かせ動揺を見せまいとする母の指。黙々と縫い針を動かす母の心。

「母さん」

私は話しかけて口を閉じた。縫いかけては止める母。親指の動きまで止めた母。私に知られないようにと、その心をも見せて頑張る気持ちは指にまで届いていたのだ。いじめられた証としての学生服の破れの数は無数にあ る。その都度縫い針を手に持ち針を動かす。縫っても縫っても縫い尽くせないほど多くあり母の手を困らせる「お前の事で先生に呼ばれたよ」ゆっくりと母は口を開いた。私は…何を話したの?、とは聞かなかった。母も…どうしたの?、とは言わなかった。「勇気を出してね、元気を出してね」。母は私の頭を撫ぜながら何回か同じことを繰り返して言った。母は家の前で待っていた。私を見るとゆっくり近寄り笑った。…良かった、と一言。そして私は…何が、と答えた。母と子の会話はたったのこれだけだった。「何事にも負けないでね」。実に単純明解な言葉だった。私は、きまって、…はい、母さん、と笑った。

 いま私は母の瞳を見ている。瞬き一つしない心の落ち着きを見る。必死で生きてきた人生の全てを託す瞳にひきつけられていた私。「母さん」いつしか泣き崩れていた私。「お前の人生はこの学生服にあったんよ」九〇歳の母はボロボロにくたびれ果て、それも引き裂かれた学生服を私に諭すように示した。母の両手の上には学生服がある。改めて座り直し母は再び畳に座った。すこし身体を前に倒し身を屈める。学生服を私の胸の前に差し出した。一瞬目を輝かせ母はもう一度前に出る。ゆっくりと腕を突き出した。私のそばに更に寄り再び腕を浮かせ学生服を畳に置いた「お前の人生の生き魂は、この学生服の中に全てあるんよ」私へ向かって瞳を輝かせる母。渾身の心をこめるその姿のままに母の瞳は光る。しみじみと話し母は涙を落とした。一粒、二粒、三粒、母の瞳に涙が浮く。窓を通して入ってくる光線に一瞬の煌きを思う。母の心のうつろいを私は重く受け止めていた。母の瞳の奥、そこは私がいじめられていた頃のまま、未だに止まったままの時間があったのであろうか。実に長い年月を経た今も母の心は純粋に保たれていたのかもしれない。私への一言のために私を呼び迎え入れていたのだろう。人生の最晩年に、母は私に過去を残すまいと語りかけたかったのであろうか。正しく前へ向かって進むことを私に知らせているのかもしれない。母の瞳の奥でキラリと光る涙は私への贈り物であったのか。いつまでも輝く母の瞳。瞳の涙は実に美しい。私も母へ向かって頷いていた。

社会の中で私たちは自分を自己劇化して生きている 

           比喩は心表現の苦しみの中から生まれた

                 児 島 庸 晃  

 比喩表現がどうして俳句にとって必要なのだろうかと考え始めて、私の脳中は、ずーっと混乱の毎日である。俳句そのものが視覚からの発想によるものであれば、比喩の発想をする必要はないのではないかと思い、いろんな現実を思っていた。

 ところが、俳句作品を調べていて分かったこと。…それは俳句作品の殆んどが比喩表現による十七音表現であった。むしろそれは俳句そのものが比喩であるのかもしれないと思ったほどである。現実の生活で私たちは自分自身を自己劇化して生きている。それは自分自身の気持ち、或いは感情を自己劇化することにより耐えている。それそのものが文芸なのかもしれない。いま、私の机上には「現代俳句」平成二十六年九月号がある。この号は攝津幸彦に関する論考で第34回現代俳句評論賞受賞の竹岡一郎さんの文章が掲載されているのだが、ここで私が注目したのは攝津幸彦作品の多くが比喩作品であると言うことであった。これほどまでに比喩表現が駆使されているとは思ってはいなかったのである。

 かって私は幸彦が俳句結社「青玄」に入会してきた時から、彼を知っていて句会で同席もしていたので驚いてもいる。また、「日時計」時代の作品も、私は同人ではなかったが、作品掲載の雑誌はいただいていたので知っているのだが…。ともあれ比喩表現は幸彦の句にあっては命であったのではないかとも思った。戦争詠が作品を象徴するほど、幸彦の名前を俳壇へ示したのであるが、何故に比喩を使わなければならなかったが、いま、一つの疑問が湧くのである。幸彦は一九四七年生まれである。従って戦争体験がない。戦後生まれである。本当の苦しい戦の傷を知らない。比喩を象徴とすることで、その臨場感を出しきれるものと思ったのだろうか。戦争による心の痛みを疑似体験するために比喩が不可欠であったのだろうか。

 だが、私は、幸彦の作品に於ける比喩は本物ではないと思っている。何故?、と考えるところから、比喩表現のあり方を考えたいのである。

 比喩表現とは、どういうことを意味しているのかだが、国語辞典には次のように記載されていた。

   ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。たとえ。  

この理論らしい言葉の解説からは、すこしわかりにくいのだが、単純に述べると「物を例える」ことなのである。ある物と別の物を入れ替えても、何ら変わらなく同じである、ということなのである。

 では、何故、この比喩表現に多くの俳人が惹かれ虜になってしまうのであろうか。表現を変えるだけなのに…不思議である。随分と昔ではあるが、連想ゲームというのがあった。ひとつの言葉から連想するものを想像しては、言葉を連想させながらつないでゆく。そして、その最後に本来の回答であるべき「物」を当てるゲーム。これは一種の比喩表現なのである。これは遊びなのだが、これらは文芸の心表現なのである。この連想されてゆく過程で、その時その時に人間の心理でもある情感が生まれるのである。ある物から別の物に変わりながら感情も新しく生まれ変わるのである。この感情の変化の強弱や高低に、思いもよらぬ面白さを、表現者とは違う新しい面白さを鑑賞者は受けとるこになるのである。…ここに思ってもみなかった意外性が生じ心を癒したり、驚かせたり、慰めたり、人間の五感を刺激して定置させる。

   幾千代も散るは美し明日は三越   攝津幸彦

この句、「鳥子幻影」の中の句なのだが、「俳句研究」昭和四十九年十一月号に発表された作品である。「俳句研究」第二回五十句競作で佳作第一席となった一連の句の中の最も話題になった作品である。この句は全てが比喩の句である。「散るは美し」は散華の花からの連想による比喩。「明日は三越」は宣伝コピーの一部であり、当時の社会背景を踏まえているのであろうか。私が幸彦の作品を本物ではないというのは、幸彦自身の本来の言葉がどこにも感じられないこと。比喩表現は作者自身の肉体を通過した言葉でなければ、ただ単なる言葉のモノマネに過ぎないということ。「美し」とは一般通例語であり、ここには彼らしい言葉表現が見られず、観念語の範囲であるということ。この句が、どうして、ここまで話題になるのか疑問を残したままである。彼が戦争詠を踏まえての疑似体験をするにしては困る作品なのだろうと…。比喩は俳人即ちその人の体質が感じられるものでなければ何の面白みもなくなる。

 比喩とは、一般的「例え」の作品ばかりではないのである。比喩とは…このようなわかりやすい比喩句ばかりではない。次の句を見ていただきたい。

   林檎割くいきづく言葉噛み殺し

   妹に告げきて燃える海泳ぐ

   父となる思ひ断ち切り去年の雪 

   朝焼けに寝てセーターの胸うすし

上記の句は「俳句研究」第一回五十句競作の入選作である郡山淳一の「半獣神」の一連の作品である。これらの自己愛とも言える作品の底辺に流れる母体は比喩なのである。一見、比喩なんて、何処にと、疑問をもつのだろうが…。

 実は、あまり知られていず、一般的ではないのだが、比喩には二つの表現法がある。

  外面的目視比喩によるもの…目視による直感が主体。

  内面的感受比喩によるもの…主体は個人的で思想を含む。

では、一般に比喩と呼ばれている表現法とは・どのようなものがあるのだろうか。

 ①直喩(明喩とも言う)

「~みたいだ」や「~ようだ」の言葉に代表される用法。例えるものと、例えられるものを明示して表現する。

 ②隠喩(暗喩とも言う)

例えられるものを、それとなくわからせて「~みたい」、や「如く」などの言葉は使わない。隠喩の言葉の意味するものは隠す。隠していても暗示させる。

 ③擬人法 

人でないものを人間に見立てて表現する。

 ④諷喩 

例えだけを示し、その意味を間接的に考えさせる。(散文でのみ使用され俳句では殆ど未使用)

このように多面に渡る思考のなかに比喩の表現は振幅をなし広範囲にある。だが、私たちが、この用法を使いこなしているとは言えないのが現状。ここに作品紹介した郡山淳一の俳句などは誰も比喩の作品など思わないであろう。過去においてもこれまで誰も比喩表現など言ってきたものはいない。しかしこの自己愛を一つの基点として、「物」を凝視するとき、俳人の見ているそのものは全て比喩の対象となってくるのである。俳人その人は自分と比較して対象物を見る。自分の心表現の対象物になるのである。俳人その人の心象を対象物に託し、この自己愛を、その視線の先の「物」に見出す。そして自分の理想なり、思想を比喩にして表現しているのである。…これが内面的感受比喩なのである。一句目の「林檎割く」は林檎に向かった時の心を純粋に何時までも保持したい自己愛の比喩。人でないものを人間に見立てて表現する心。言わば擬人法なのである。

三句目の「去年の雪」の心の状態は、「雪」の純白に触発された心理を自己愛へと昇華させ、比喩へと変身を試みている。ここにも人でないものを人間に見立てる、と言う擬人法の表現がなされている。これらの郡山淳一の俳句は内面的感受比喩の抒情の質を強く保持しての作品であった。当時、このような抒情の内面的感受比喩はなかった、ということで、大変新鮮であった。それまでは殆どが外面的目視比喩の作品で目視による直感が主体であったのだ。次の句も、その一つである。

   萩の野は集つてゆき山となる   藤後左右

この句、昭和六年当時の「ホトトギス」投句時代の作品である。当時の俳壇にあって多くの俳人たちを驚かせた一句。目視による写生のゆき届いた句で、この句は帰納法による抒情の濃ゆい描写である。この句も比喩の作品なのである。「萩の野」は斜面にあり、傾斜面を登って、いっぱい「萩」が集まり群生している。そしてそれらが私の目視の中では「山となる」、のだろうと…思う感覚。この表現が帰納法を使っての描写であったことに俳壇は吃驚したのである。帰納法は、先に結論を述べて、後からそれを裏付けて説明をする方法。      

 萩の野→山となる。この目視は「萩の野」から「山となる」に連想がなされたのである。この「山」は本来は「萩の野」。これは比喩の目視により生まれたものである。帰納法を使っての比喩表現であった。藤後左右は、明治四十一年の生れ、二十二歳で、「ホトトギス」の巻頭作家になっている。当時の俳壇にあっては、この句が発表されるまで帰納法を使った外面的目視比喩の俳句はなかった。

 この帰納法平成27年の今はどうなっているのだろうか。ここで考えながら、次なる展開を待ちたい。

   干草の地平線まで少年期   杉本青三郎

俳誌「歯車」359号より、この句は何れも外面的目視比喩帰納法の句なのだが、内面的感受比喩の方向へと心表現の兆しが見えていて、成功するか、しないか、の微妙な提示を私たちへと問いかけている。

 この句、作者その人の少年期まで回想される時間の巻き戻しがある。場面設定された背景に「干草」が眼前に登場する。目視の中に地平線が広がり、ここより過去ではあるがまだ少年だった作者の多感な時代へと、思い出が蘇り、現代の作者本人と重なりあってくる。…これらは内面的感受比喩なのである。何が比喩されているかなのだが、「少年期」と「作者本人」とが、「…まで…」の言葉を介在して比喩されているのである。

   寒中の僕の前にはぼくがいる    児島庸晃   

この句も内面的感受比喩の句なのである。阪神・淡路大震災当時に出来た私の句で当時よりずーっと発表しないで持っていたものである。どの部分が内面的感受比喩なのかと思うだろうが、比喩対象は「僕」と「ぼく」なのである。この句も「…前に…」の言葉を介在して比喩しているのである。僕が「僕」と「ぼく」の二人いるのである。寒中で「僕」を見つめている「ぼく」。お互いを共に牽制、牽引しながら生きているのである。お互いに優劣はないのである。お互いを切磋琢磨しているのである。

 比喩という表現は、作者個人の心表現であり、作者の視野の中に何時も存在しているものである。だが、私たちは、その現実を余りにも意識してはいない。毎日の暮らしにおいて見過ごしてはいまいか。このことは俳人が比喩を意識したときから始まる。そして目視の状態から、感受の状態へと、より深みのあるものへと変革をきたしてきた。世の中が複雑になるに従いもっともっと、より内面へ向かうであろう。その心表現は比喩の形を変化させて、私がここで採り上げたものではないポエジーを求めてゆくかもしれない。比喩の基本的見解は、その人の肉体を通過させての受け取りである。表現されたものとそれを求める比喩の価値観は、詩情の深い洞察へと進むことであろう。日々の生活において人はあらゆることを比喩することで毎日の苦しみに耐えているのだ。そして比喩することの起点を通じて新しい自分自身を見つけ、また明日からの一歩にして生きてゆく。文芸は心の回復をもたらすものでなくてはならない。