「死」へ向かう「生」の美学…俳人……桂 信子

                                        「滅び逝く美しさかもね」という俳人がいた 

                  児 島 庸 晃

 「滅び逝く美しさかもね」という俳人がいた これは桂信子の句集「新緑」を読んでの感想を私に語ったときのことである。私も、そう思えるものがいくつもあったと思い出していた。

   さしかかるひとつの橋の秋の暮   …桂 信子

昭和45年作。句集「月光抄」「女身」「晩春」、そして「新緑」へと渡りゆくなかで益々深みを増すのだが、この川にかかっている橋は人生における接点のようなもの。こちらの岸からあちらの岸へ渡す橋であり、そこにあるのは来し方であり行方である。その橋を秋の暮色が包む。信子は寡黙にその橋を見よ、と指し示す。つるべ落としの秋の陽は今にも暮れようとしている。橋にさしかかるのは信子自身であり、これから先の残された人生の滅びてゆくはかない美しさをここに示そうとしているのだ。

     ライターを借りてふりむく枯世界   …桂 信子

同じ年の作になるが、ふっと振り返ったとき信子自身の背景にあった枯れ色の薄墨の世界。ここには滅びからくるエネルギーの美学まで準備されていた。この年の3月俳誌「草苑」が創刊されている。

        寒の畳に死顔おがむ諸手つく   …桂 信子

そして昭和43年。「草苑」創刊の中心をなしたトーメン俳句会の幹事役の一人でもあった丸岡樹三子を亡くしたときの驚愕は死への構えのようなものまでもあり激情を抑えきれない美学にもなっている。           

      母の魂梅に遊んで夜は還る    …桂 信子

同年のもので、母容態悪化のときのもの。意識のない母はいろんなところをさ迷い歩いているのであろう。魂だけが梅を見にゆき楽しみ、やがて遊び疲れて還ってくる。この信子の淋しく優しく暖かい心。梅も母もすべてが幽玄の中に置かれ美しく奏でる。この心の中での自身との葛藤における滅びの思想は美しさなしにはかんがえられない。

…この句集における「死」へ向かう「生」の美学、それは滅びさるものへの美であり重要なテーマとして繰り返されている。          

俳句としてのアドリブ表現(再掲載)

             … 俳 句 の 臨 場 感 …

                 児 島 庸 晃

           (ご要望が多かったので再掲載します)

 毎日、毎日いろんな俳句の総合誌、それに同人誌や結社誌を読んでいて不思議に思うことがある。現代という社会生活のなかに生存していながら、社会感覚や生活感覚の薄い句のなんと多いことか。個人の生活を詠うにしてももっと心の底へつき刺してくるエスプリがあってもいいのではないか。不思議でならない現象なのである。短詩形をはじめとして、文化的な創造の遅れはなんとしてでもとりもどさねばならない。いまの生活が理性を先行させるために感覚的なことがらを考えるゆとりもないのかもしれない。自然に身についてしまった生きるための技術は文化的創造を遅らせてしまったのだ。いまや大メーカーのオフイスは理性先行族のあつまりだそうである。しかしその多くが無用の人間になりつつあるとか。びっくりするのだがこのような本があちらこちらで出回っている。商品販売競争のなかで勝ち抜くには理性だけではどうにもならないものがあるらしく、いまや感覚的人間の養成が急務だという。人間の生活感や社会感というものが必要なのである。わかりやすくいうと感性人間の誕生を望む声がいろんなところで聞かれるのである。このことはなにも産業界だけのことではない。俳壇でも同じことである。理性先行形の俳人が急増しているのである。理性が先行すればどういうことがおこるか。考えるまでもないことだが、理屈っぽくなり、無感情になり、コトバがギスギスして詩にならないのである。一方、感性は人の心を潤す。豊かにする。表情の喜びを広げてゆくのである。その感性とは五感のこと。つまり視覚、味覚、聴覚、触覚、嗅覚のことであって、このうち俳句は視覚が80%を占める。感性のほとんどなのである。よって俳句は生活に潤いをもたらし、生活力を強くする感情を育てる。俳句は最も生活に即した文学なのである。しかし、いま俳句はますます理性的であろうとしているかの動きなのだ。どこかおかしい。もっと感性を必要としなければならないのに理性先行形俳句の流行なのである。私たちの俳句集団「歯車」は…昭和三十三年より、鈴木石夫指導の下に、より感性的であろうとしてきた。もっと現代の感情を大切にしようとしてきた。現代の生活にそった文体たろうとしてきた。

 その頃の作品より、抜き出してみよう。

   空で撒かれ蝶となるビラ労働祭

   プ―ル光る汚職の街の一角に

   恋人たちへレモンのような街灯照り

   陳列窓へ個々のさびしさもち集まる

上記の句たちは荒池利治の十九歳の頃の作品である。当時はこのような現代文体の句は、何処の結社にも見受けられなかった。利治は伊丹三樹彦と鈴木石夫に師事し、当時の俳壇を牽引してゆくのだが、その後、句を作らなくなった。後年六十歳を過ぎて「青玄」に復帰、新人賞を受賞するも結社の解散終結。いまは目と心臓の疾患で苦しむ日々。だが、これらの句の功績は「歯車」の発展過程の貴重な資料として残っている。

   初刷りがプンプン匂う朝日が匂う

   みかん一房ふくみ「幸せ」かみしめる

上記は吉田文夫さんの句である。「歯車」の前身「風」の創始者。このみずみずしい新鮮さ。生きている実感を俳句でもって示した生活の美しさ楽しさは大切であった。

   アパートのノブの氷結 俺だよ俺だよ

   灯の色の耳遠くなる古都の秋

上記の句は現代の「歯車」前田弘代表の昭和四十六年の作品である。自己の存在をはっきりと示す句の主張。当時、自然詠の多かった中での自己主張はあまりにも少なかった。そのような中での私性の文体は鈴木石夫の指導主体でもあった。 

   窓ガラス磨いて冬の景色となる

   反戦旗見て来て花の種を買う

日々「歯車」編集に全力で取り組む大久保史彦作品。日々の生活の中から、際立っては目立たぬ心理の彩を、現代感覚の感情で表現してゆく素晴らしさ。

 当時の俳壇は若者の思考が容易には受け入れられる雰囲気ではなかった。そのようななかで鈴木石夫は、石夫自身の心を、個々の俳人に押し付けるようなことはしなかった。多くの結社誌は、この若者の思考を認めようとはしなかったのだ。

…このような当時の情勢と必死に闘っていたのが、僅か十二ページほどの俳句集団「歯車」であった。ほとんどが十代、二十代前期の若人であった。指導者…石夫は主宰者ではなく助言者として、若人と同じ目線で、若人の心となり句への応援をしていた。その主体は現代の俳句文体としての指導であった。現代人の心としての感性を磨く感覚俳句であったように思う。

 生活の実感、そしてそこより生まれる感性は確実に若者の心を感覚に育てていた。私は当時の青春俳句を、俳壇は良しとはしなかったことに、今でも些かの反発を覚えるのである。写実主義の必然が、俳句の常道のように思われていて、情感の突出した言葉の表現に対しての心の操作は、あまりにも異質のもののように避けられていた。

 当時、この文体改革に着手し、その運動に積極的に乗り出したのは、伊丹三樹彦と鈴木石夫のふたりであった。そして多くの若手俳人を生み出している。三樹彦の門下からは、摂津幸彦、坪内稔典、鈴木明、諧弘子、伊丹啓子、松本恭子、澤好摩、味元昭次。鈴木石夫の門下からは、酒井弘司、永井陽子(後に短歌に転進)、夏石番矢、林桂、松下道臣、萩澤克子、それにいまも「歯車」で活躍の方々である。

 ここで当時問題を投げかけた句がある。私(児島庸晃)の句で全く申し訳ないのだが…。私の17歳〜22歳頃の句である。

  あなた確かめた炎の舌がある 暮色の町

  し―んとつ―んと朝 ず―つと枕木の風景  

  ビルの谷間で赤茶ける恋 ぼくのト―ン

  しびれだす正座 生きるを思案してる刻

  水禽の目に棲み冷える君の微笑

  例えば単純に 水面から笑って顔上げる

  作ってはつぶす机上の小さな革命旗

これらの句は既成俳壇では無視。これが当時の常識でもあった。全くの異質のものだったのだろう。何時の間にか異能俳人にされてしまっていた。もっとも破調であり十七音は越えている。だが、現代語を使うと従来の定型では収まり切れないものになってきてしまう。その疑問が私に…あった中での俳句作りであった。多くの俳人の反対する中で認めて頂いたのは、伊丹三樹彦と鈴木石夫であった。

 その後、二十年ほどして俳壇は一変する。俵万智の歌集や松本恭子の句集が世間を圧巻してゆくのだ。松本恭子の句集『檸檬の街で』は一般書店に並べられ一週間も経ていないのに三万部も売れるという状況を作る。購入したのは俳句を全く作ってはいない読者であった。世間が既成の俳句に対して、文句は言わないまでも不満を持っていたのが現実のこととして問われる事態になる。大変なことが起り始めていた。恭子は週刊誌の俳句欄の選者に迎えられ、テレビに俳句のコーナーが設けられ、一般からの俳句の募集が始まり、そこで俳句を語ることになってゆく。国語の資料集にまで作品がとりあげられるまでにも…。俳句が普段俳句を作っていない者にまでひろげられたのだ。恭子の何が一般読者の心をとらえたのであろうか。次の句を見て頂きたい。

   恋ふたつ レモンはうまく切れません  

   青いセロファンに巻かれて 月夜の鳥

   さか立ちしたら涙溢れる 六月は 

   檸檬シュパリ カリ わたしの敵はわたし

   無鉄砲なの 寒のれもんを下さいな 

   充血したハートでフラッペ崩してる

   踊って泣いて赤い毛布で眠ったわ

   わたくしの炎のしっぽ るりとかげ

日常の生活心情が俳句を作ることによって、心のどこかで救われてゆくことを、恭子は心得ていたのだろう。ずばりその場、その時の臨場感だったのだろう。長崎より出てきて京都で学生生活をする身であったが、入退院を繰り返す日々。その後、散文の方への転向。テレビ局からのシナリオ依頼があったそうだが…。私が大阪シナリオ学校の卒業生と知ってか、話をされたことがあった。

 こんな時代の変遷を支えていまも俳句集団「歯車」があるのは何であったのだろう。それは臨場感であった。アドリブとしての表現であった。アドリブ表現は純粋感動の現われであり、心の真実感でもある。鈴木石夫が、一貫して追ってきたものは感性俳句であったと思う。それそのものが臨場感であり、アドリブ表現であったのではないかと思う。それぞれの俳人の努力の程は、次の句を見ていただきたい。ここにはアドリブ表現での純粋感動がある。

   近江より京都へ山はよく眠る    前田  弘

   十八で捨てた村から桃が来る    栗田希代子

   コスモスをかきわけかきわけ再開す 藤 みどり

   怒鳴り込んで行く処なき猛暑なり  大久保史彦

   最終のバスは方舟寒北斗      門野ミキ子

   昼眠も特技のひとつ秋の午後    児島 貞子

それぞれが目的をもって一定方向へ進んでいながらもときとしてとまどうことがある。こういうとき心の内を 少しでも表現したいと思うのは人間にとってむなしい行為なのかもしれないのだが…。俳人は自分自身の心と、必死に毎日毎日闘っている。俳句にとって…この行為はアドリブ表現以外にない。感性表現をするとき、感動は、その場、そのとき、思ったままの表現をしなければ二度とそのものずばりの表現はない。生存してゆくための人間生活を続けているかぎり、今日の感動は明日の感動と同じものではないのだ。今日だけの感動である。明日は明日の感動があるのだろう。私は必死に思うのだが…。生きている喜びや悲しみをもっとも大切にしなければならないのは、この純粋感動を出来るだけ長く、出来るだけ強く持ち続けていたいからではなかろうか。 

 

アナログ俳人のリアリズム考

                                 …合 同 句 集 『 白 浪 』 の 啓 泰 さ ん …

                        児 島 庸 晃

 青木啓泰さん…この人の作品に触れるたびに何時も思うことがある。その人にはその人にしか作れない俳句があるのだということを…。

 日々の生活や日常の出来事に感動するってどんなことなのか、改めて思うことがある。毎日の生活の中にとっぷりと浸かり、また触れてどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えてみれば、ほとんど感動を知らない日々を過ごしている私になっていた。このあたりまえのような生活を不思議ともしないで生きていたのだ。一冊の句集を手に取って読むまでは…そうなんです。だが、いま私は心の中にゆっくりと湧き出る泉のような現実が感動に変化するのを知りました。この度の『白浪』の啓泰さんの一連の句のなかにおける日常へ向ける俳人の姿勢の大切さを知りました。

     百日紅地上からから町はがらがら

俳句は現実から逃避してはならない。敬泰さんの瞳の奥に灯した夏の光景は作り物ではない実景である。日常の実感である。はっきりと目に見える抒情なのである。正にそれそのものがアナログである。決してデジタルではない。アナログ時計のように針そのものの動きがわかるように捉え、針のないデジタル時計の数字のみの結果を問うような姿勢を啓泰さんはしなかった。「百日紅」から「地上」へ「町へ」と視線の目をアナログ時計の針のように移し心を高めている。現実提示→心の終止とはしない。現実提示→抒情の提示→心情の変化→心中の終止、とアナログ時計の針を目玉に視線にして表現しているのではないかとも思う。だから言語のみを見せつけるようなことはしなかった。この真面目で純粋な正直さは最もアナログ人には相応しい。

      水打って適当にがんばっている

この句のこの人間の不細工な仕草や姿は実に悲しいまでに啓泰さんである。決して壊れてはいないが、いつ壊れるかもしれない、頑張りはアナログの姿勢でこそ貴重。ひとつひとつの言葉を大切に思考してこその俳人啓泰さんがいる。この表現はアナログ思考でなければ出来ない所以である。

      よい位置にとるも一人の日向ぼこ

この場所こそ、この位置こそ、この社会の一番住み心地のよい場所なのかも。ただ単に一般人を示してのものではない。啓泰さんは言う。「一人の」と。アナログ人が求める自分一人だけの過ごしやすい場所なのである。俳句に何を込めて何を表現するかではなくて何を求めるべきなのかを明確に示し尽くしての「一人の」なのだと思う。この姿勢は現代俳句に活力と言うエネルギーを与えることなのかもしれない。いまの俳句が最も失っている部分でもあるのではないか。昭和三十年代の後半よりの社会性俳句も、前衛俳句も、俳句に活力を与えること、いまだに見たこともないエネルギーを産むことへ向かっての、挑戦をしてゆこうという、精神的な運動であった。

      精神をこころと読んで初詣

この句、説明文のようにも思えるが、そうではないのが、この句のポイント。おそらく何回も何遍も脳裏で繰り返しては表現と思考を定着させようとしたであろうと思う。それが表現として納得出来たのは、私の考えるところでは、たった一語の接続詞にゆきついたときであったと思う。その言語は「を」であったのだ。ここにもアナログ思考が込められているように思える。「精神」→「こころ」、とアナログの眼を時計の針のように移動させて情緒を呼び込む。心の動きを克明に表示して早急な結果だけを追っかけようとはしなかった。この「を」は最も重要な表現なのであった。啓泰さんは日常の現実にしっかりと姿勢を向けて立っている。

      燕来る八分音符の服を着て

啓泰さんは派手な言葉は使わないが、気の利いた言語で表現する。「おれの俳句は泥ニズム」と標榜する啓泰さんは十代の頃からの俳句友達であったが、前衛俳句全盛の頃、表には登場しなかった。俳誌「暖流」にあっては暖流賞まで受賞しながらも黙々と「俺流俳句」を書いてきた。その頃の前衛俳句の浮ついた言葉先行の傾向を嫌ったからであった。言語そものの情緒のなさを憂いたからであったのだろう。アナログ人の情緒である。「燕」の表情から「八分音符」へと展開させる気の利いたリズムは心を弾ませる。そしていまの俳句には何かが欠けていると、日常の生活姿勢へ向かって真剣に向きなおそうとするかにも私には見える。俳句にはエネルギーの展開が強く込められねばならないと思うのは私だけではないだろう。俳句には緊張感や臨場感がいるのだ。それにはアナログ思考がいるのではないかとも…。啓泰さん頑張って…。   

俳句の比喩表現あれこれ

         比喩表現がどうして俳句にとって必要なのだろう

                  児 島 庸 晃

 比喩表現がどうして俳句にとって必要なのだろうかと考え始めて、私の脳中は、ずーっと混乱の毎日である。俳句そのものが視覚からの発想によるものであれば、比喩の発想をする必要はないのではないかと思い、いろんな現実を思っていた。

 ところが、俳句作品を調べていて分かったこと。…それは俳句作品の殆んどが比喩表現による十七音表現であった。むしろそれは俳句そのものが比喩であるのかもしれないと思ったほどである。いま、私の机上には「現代俳句」平成二十六年九月号がある。この号は攝津幸彦に関する論考で第34回現代俳句評論賞受賞の竹岡一郎さんの文章が掲載されているのだが、ここで、私が注目したのは攝津幸彦作品の多くが比喩作品であると言うこであった。これほどまでに比喩表現が駆使されているとは思ってはいなかったのである。

 かって私は攝津幸彦が「青玄」に入会してきた時から、彼を知っていて句会で同席もしていたので驚いてもいる。また、「日時計」時代の作品も、私は同人ではなかったが、作品掲載の雑誌はいただいていたので知っているのだが…。ともあれ比喩表現は幸彦の句にあっては命であったのではないかとも思った。戦争詠が作品を象徴するほど、攝津幸彦の名前を俳壇へ示したのであるが、何故に比喩を使わなければならなかったが、いま、一つの疑問が湧くのである。攝津幸彦は一九四七年生まれである。従って戦争体験がない。戦後生まれである。本当の苦しい戦の傷を知らない。比喩を象徴とすることで、その臨場感を出しきれるものと思ったのだろうか。戦争による心の痛みを疑似体験すために比喩が不可欠であったのだろうか。

 だが、私は、幸彦の作品に於ける比喩は本物ではないと思っている。何故?、と考えるところから、比喩表現のあり方を考えたいのである。

 比喩表現とは、どういうことを指示しているのかだが、国語辞典には次のように記載されていた。

 ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。たとえ。  

 この理論らしい言葉の解説からは、すこしわかりにくいのだが、単純に述べると「物を例える」ことなのである。ある物と別の物を入れ替えても、何ら変わらなく同じである、ということなのである。

 では、何故、この比喩表現に多くの俳人が惹かれ虜になってしまうのであろうか。表現を変えるだけなのに…不思議である。随分と昔ではあるが、連想ゲームというのがあった。ひとつの言葉から連想するものを想像しては、言葉を連想させながらつないでゆく。そして、その最後に本来の回答であるべき「物」を当てるゲーム。これは一種の比喩表現なのである。これは遊びなのだが、これらは文芸の心表現なのである。この連想されてゆく過程で、その時その時に人間の心理でもある情感が生まれるのである。ある物から別の物に変わりながら感情も新しく生まれ変わるのである。この感情の変化の強弱や高低に、思いもよらぬ面白さを、表現者とは違う新しい面白さを鑑賞者は受けとるこになるのである。…ここに思ってもみなかった意外性が生じ心を癒したり、驚かせたり、慰めたり、人間の五感を刺激して定置させる。

   幾千代も散るは美し明日は三越   攝津幸彦

この句、「鳥子幻影」は「俳句研究」昭和四十九年十一月号に発表された作品である。「俳句研究」第二回五十句競作で佳作第一席となった一連の句の中の最も話題になった作品である。この句は全てが比喩の句である。「散るは美し」は散華の花からの連想による比喩。「明日は三越」は宣伝コピーの一部であり、当時の社会背景を踏まえているのであろうか。私が攝津幸彦の作品を本物ではないというのは、攝津幸彦自身の本来の言葉がどこにも感じられないこと。比喩表現は作者自身の肉体を通過した言葉でなければ、ただ単なる言葉のモノマネに過ぎないということ。「美し」とは一般通例語であり、ここには彼らしい言葉表現が見られず、観念語の範囲であるということ。この句が、どうして、ここまで話題になるのか疑問を残したままである。彼が戦争詠を踏まえての疑似体験をするにしては困る作品なのだろうと…。比喩は俳人即ちその人の体質が感じられるものでなければ何の面白みもなくなる。

 比喩とは、ただの「例え」だけでの作品ばかりではないのである。比喩とは…このような単純な句ばかりではない。次の句を見ていただきたい。

    林檎割くいきづく言葉噛み殺し

    白葡萄食ひ机上の航海術 

    妹に告げきて燃える海泳ぐ

    父となる思ひ断ち切り去年の雪

    朝焼けに寝てセーターの胸うすし

上の句は第一回五十句競作の入選作である郡山淳一の「半獣神」の一連の作品である。これらの自己愛とも言える作品の底辺に流れる母体は比喩なのである。一見、比喩なんて、何処にと、疑問をもつのだろうが…。

 実は、あまり知られていず、一般的ではないのだが比喩には二つの表現法がある。

 外面的目視比喩によるもの…目視による直感が主体。

 内面的感受比喩によるもの…主体は個人的で思想を含む。

では、一般に比喩と呼ばれている表現法とは・どのようなものがあるのだろうか。

 ①直喩(明喩とも言う)

「~みたいだ」や「~ようだ」の言葉に代表される用法。例えるものと、例えられるものを明示して表現する。

 ②隠喩(暗喩とも言う)

例えられるものを、それとなくわからせて「~みたい」、や「如く」などの言葉は使わない。隠喩の言葉の意味するものは隠す。隠していても暗示させる。

 ③擬人法 

人でないものを人間に見立てて表現する。

 ④諷喩 

例えだけを示し、その意味を間接的に考えさせる。(散文でのみ使用され俳句では殆ど未使用)

 このように多面に渡る思考のなかに比喩の表現は振幅をなし広範囲にある。だが、私たちが、この用法を使いこなしているとは言えないのが現状。ここに作品紹介した郡山淳一の俳句などは誰も比喩の作品など思わないであろう。過去においてもこれまで誰も比喩表現など言ってきたものはいない。しかし、この自己愛を一つの基点として、「物」を凝視するとき、俳人の見ているそのものは全て比喩の対象となってくるのである。俳人その人は自分と比較して対象物を見る。自分の心表現の対象物になるのである。俳人その人の心象を対象物に託し、この自己愛を、その視線の先の「物」に見出す。そして自分の理想なり、思想を比喩にして表現しているのである。…これが内面的感受比喩なのである。

 一句目の「林檎割く」は林檎に向かった時の心を純粋に何時までも保持したい自己愛の比喩。人でないものを人間に見立てて表現する心。言わば擬人法なのである。

 四句目の「去年の雪」の心の状態は、「雪」の純白に触発された心理を自己愛へと昇華させ、比喩へと変身を試みている。ここにも人でないものを人間に見立てる、と言う擬人法の表現がなされている。これらの郡山淳一の俳句は内面的感受比喩の抒情の質を強く保持しての作品であった。当時、このような抒情の内面的感受比喩はなかった、ということで、大変新鮮であった。それまでは殆どが外面的目視比喩の作品で目視による直感が主体であったのだ。次の句も、その一つである。

   萩の野は集つてゆき山となる   藤後左右

この句、昭和六年当時の「ホトトギス」投句時代の作品である。当時の俳壇にあって多くの俳人たちを驚かせた一句。目視による写生のゆき届いた句で、この句は帰納法による抒情の濃ゆい描写である。この句も比喩の作品なのである。「萩の野」は斜面にあり、傾斜面を登って、いっぱい「萩」が集まり群生している。そしてそれらが私の目視の中では「山となる」、のだろうと…思う感覚。この表現が帰納法を使っての描写であったことに俳壇は吃驚したのである。帰納法は、先に結論を述べて、後からそれを裏付けて説明をする方法。      

 萩の野→山となる。この目視は「萩の野」から「山となる」に連想がなされたのである。この「山」は本来は「萩の野」。これは比喩の目視により生まれたものである。帰納法を使っての比喩表現であった。藤後左右は、明治四十一年の生れ、二十二歳で、「ホトトギス」の巻頭作家になっている。当時の俳壇にあっては、この句が発表されるまで帰納法を使った外面的目視比喩の俳句はなかった。

 この帰納法平成26年の今はどうなっているのだろうか。ここで考えながら、次なる展開を待ちたい。

   干草の地平線まで少年期   杉本青三郎

俳誌「歯車」359号より、この句は何れも外面的目視比喩帰納法の句なのだが、内面的感受比喩の方向へと心表現の兆しが見えていて、成功するか、しないか、の微妙な提示を私たちへと問いかけている。

 この句、作者その人の少年期まで回想される時間の巻き戻しがある。場面設定がされた背景に「干草」が眼前に登場する。目視の中に地平線が広がり、ここより、過去ではあるがまだ少年だった作者の多感な時代へと、思い出が蘇り、現代の作者本人と重なりあってくる。…これらは内面的感受比喩なのである。何が比喩されるかなのだが、「少年期」と「作者本人」とが、「…まで…」の言葉を介在して比喩されているのである。

 比喩という表現は、作者個人の心表現であり、作者の視野の中に何時も存在しているものである。だが、私たちは、その現実を余りにも意識してはいない。毎日の暮らしにおいて見過ごしてはいまいか。このことは俳人が意識したときから始まる。そして目視の状態から、感受の状態へと、より深みのあるものへと変革をきたしてきた。世の中が複雑になるにしたがって、もっともっとより内面への心表現は比喩の形を変化させて、私がここで採り上げたものではないポエジーを求めてゆくであろう。比喩の基本的見解はその人の肉体を通過させての受け取りである。表現されたものの求める比喩の価値観は、詩情の深い洞察へと進むことであろう。

エスプリ俳句のこの真剣さを見よ! 

                                          柿 畑 文 生 句 集『 亜 流 』 俳 句 考      

                                                             児 島 庸 晃

    短詩形文学の魅力は何なのだろうとずーっと思考してもう五十年が過ぎる。その私の俳句人生よりも更に長年の含蓄を積み重ねてきたのが柿畑文生さんである。そんな柿畑さんから届いたのが句集『亜流』であった。そこには生きていること否生きてゆくことの大切さが俳句の味としてあった。存分に私を暖かくして全てを包み込んでいた。心を豊かにするのに俳句に勝るものはないのではないかと思えるようになっている私の時間があった。句集上梓、心よりおめでとう。よくここまで頑張ってこられましたね。

    思えば柿畑さんも私も俳句を始めたのは高校生であった。何に魅かれ俳句を始めたのだろうと思う。ひとことで言ってしまえば鈴木石夫先生の俳句人としての、或いは指導者としての魅力であったように思う。若者を一つの形にはめこまない心が、当時、形式に捉われる風習の中にあってはとても新鮮であったのだ。…面白い俳句でなければ俳句でない。自分の俳句が作れるようになるまで俳句を続けなさい、であった。そして柿畑さんは石夫先生の指導を素直に理解した句を力強く作ってこられたのだ。

    そして五十年も掛けての自分の俳句を見つけ出し、磨きをかけてきた。その自分にしか作れない句を、いまの真の自分の句として纏めた。それが『亜流』である。

    その自分だけしか作れないものとしての句とは何なのだろうと思う。『亜流』を丁寧に紐解いていて分かったことは。…一貫して貫く棒のごとき強靭な心に包まれていたのだ。その俳句集を『亜流』と思う心こそ、柿畑さんしか作れない句なのである。

句集より抜き出してみる。 

           真剣に花火があがりヨ―イヤサー

        まいまいの昭和元禄物語

        穀象虫浪花節だよ人生は

           六月のバージンロードで転ぶかな

           うっとりとあの世の雪が降ってくる 

柿畑さん独特のエスプリの溢れる心の句であった。ここには真面目に生きてゆこうとする生活者の叫びが、天晴なまでにある。でも、この叫びはとても悲しいではないか。それそのものが柿畑さんの心の中にある、自分自身を騙しきれない矛盾で満ち溢れている姿のようにも私には思われる。このどうしようもないじわじわと働きかけてくる心が機知であった。エスプリそのものであったのだ。生きて生活をしている限りは遁れないものとしてのエスプリ精神であった。 

    人生の機微。そして生活の機微。いずれも俳句を詠むことの本来の意味は何なのであろうかそう思って一つ一つの句にのめり込んでいたその時、次の句が飛び込んできた。

         千代田区一丁目でで虫の角をふる

この句は単なる風景句ではない。都会のど真ん中、それも首都のど真ん中。終日を厳しく激しい人々の闘いの中に自ら嵌りこんでゆく生活者たち、即ち柿畑さん自身の目に焼き付ける正述心緒であった。「でで虫の角」こそ柿畑さんそのものであろうか。この心の叫びに私は涙する。決して己を投げ出してしまわない「でで虫」の如く生きる力と、それをしっかりと目で受け止めている柿畑さんがいる。その現実の光景と必死で格闘する俳人の心が私には哀れにも思える。即ちエスプリの心を保持していなければ…このように見事な把握は出来てはいなかっただろう。

    でも、俳人としての私は毀れてはいなかったのだ。それは、より俳人になりきろうとする些かな抵抗の心があったからなのかもしれない。

         毀れゆく私の中の桜咲く

日常として毎日の暮らしについてゆけない私を感じても俳人としての精神は蓄蔵されていたのだ。毎日の出来事の始終に押しつぶされて毀れてゆくであろう私と私の心。俳人・柿畑文生はその日常の中でしっかりとモノを見据える瞳だけは毀れてはいなかった。その瞳の奥に見定めているものがあった。ちゃんと「桜の咲く」光景を信じ願う気持ちを忘れてはいなかった。これぞ生活の機微である。句の中に流れるエスプリの思想は失ってはいなかったことになろう。

    私が特に共感し、そのことに心を奪われたのは母の句に思いを深めている柿畑さんの姿を冷静に考えることが出来たときだった。

        東雲の横に木綿の母を置く

        お降りや五体投地の母の骨

        せりなずな母よもう一度笑いなさい

        非母という薄くれないの寒椿

        母という後姿の胡麻の花

これらの句を実感描写だけの句とは、私は思わなかった。何故なのか。視線の先に思想を感じることが出来たからである。この母の存在は重い。その重さの中で母を意識するときの重さが大切な暖かさへと変革する、その心こそが柿畑さんだけの言葉の表現なのである。たとえば「木綿の母」であったり、「薄くれないの寒椿」であったり、実に暖かい眼差しで捉えられている。これらは日常語で解りやすく素直に感覚することが出来る。この日常感覚のエスプリが俳人としての柿畑さんなのである。柿畑文生俳句なのであろう。

    ずーっと考え込んでしまっていた私を励ますように惹きつけられた句に出会うことが出来てほっとする数日であった。それは俳人としての影を探していた私に胸襟に能えする句と出会うことが出来た時であった。

        泣いている薄羽蜉蝣東京へ

        極楽はいま茜さす寒卵

        後の夜の乗換駅の後の月

        叱られてげんげの海へいったきり

        まっすぐに白梅を見て帰る

        八月六日わたしに影がある

これらの句は人間の本能とでも言える部分を多く含んだ句である。生活の日常における悲喜が表現されている。それそのものが柿畑さんの影の部分である。その影を描くには思想がなければ句にならない。しっかりとモノを視なければできない。モノを見てその物を描写するだけであれば、すこし俳句を知っていれば出来る。だが、詠む者の心を動かす術を自分独特のものにするまでには、大変な年月の修練の是非が問われる。人人を感動させる何かがいる。泣かせるか。笑わせるか。納得させるか。…こう考えると簡単なように思うが、俳句は十七音という短詩形ゆえ説明が出来ない。柿畑さんは、この短詩形ゆえの、或いは短詩形でこその表現を心得ているように、私は思った。その精神の根本になっているのは何か。その系譜を遡れば柿畑さんが啓蒙を受けた鈴木石夫先生であったように思われる。

       …面白い俳句でなければ俳句でない。

この言葉こそが、柿畑文生俳句なのである。つまり、泣かせたり、笑わせたり、納得させたり、であった。生活してゆくにかかせないエスプリの精神であったように思う。現実の光景と格闘するときのエスプリの真剣な態度そのもであったように思う。                 

 

見えているものを使って見えてはいないものを表現

                                        批 判 的 リ ア リ ズ ム 理論とは…

               児 島 庸 晃

 

  ‥つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳句で表現出来るかね。

 上記の言葉は伊丹三樹彦からの私への問いかけの言葉である。この語りかけを思い出すたびに私は、作者自身そのものにおいて俳句を作り続けてゆくことへの自己矛盾が燻り、日夜の自己への苦しさを内へと閉じ込めていたのだろうとの思いに私も閉じ込められていた。そして私なりに自問の解けた句を知る日がくるのだが。それはまだ写俳運動を創始する以前の句に、その原点があるのではないかと思った瞬間だった。  

   古仏から噴き出す千手 遠くでテロ   伊丹三樹彦

この句は後に句集『樹冠』に収録されることになるのだが、伊丹三樹彦にとっては自己変心への糸口になった句ではないかと私の心の中に残る句となるのである。私がこの句を見たのは、俳誌「青玄」130号(昭和35年11月号)誌上だった。私がこの句を見て驚愕したのは、見えてはいないものまでも見えるように表現すると言う批判的リアリズムの思考であった。目視しても全く見えてはいないものまで俳句言葉に出来るのだと思った。限りない心表現の可能性に一瞬、緊張し手が震えた想いがいまもよみがえるのである。その俳句言葉とは「噴き出す」。千手観音と向き合っての目視状態の「古仏」からは「噴き出す」と言う感じではないのだ。千手観音とは固有名詞の名のごとく観音様の御神体から千本の手が出ていると言う姿そのものなのだが、この句の表現は、そうではないのである。「噴き出す」…なのだ。この感受は目で見えてるままではなかった。つまり見えているそのものではない、見ようとしなければ見えてはこないもので不可視のもの。そして人の心の在りようは不可視の中にこそ潜むものだろうと私は思った。全ては日常の出来事・姿だけが五・七・五の定形であってはならないのである。やはり俳句は目視に始まり、目視に終わるのでは、と思う私の日々が続いている。だが、最初の目視と最後の目視は全く違うのではないかと思うようになった。物を最初に見た時点では見えたままの姿・形なのだがしばらくじっと見ているといままで見えてはいなかったものまでも見えてくるのである。これは見ようと強く意識して見るからであろう。これまで見えてはいないものまでも見えているように表現することなのである。ここには作者、その作者ならでの見えてくるものがあり、それらがその作者の感性でもある。これが寄物陳思の基本的思考なのである。その理論の現実感を批判的リアリズムと呼称してきたのであった。いまあらためて思考するにおいて、「古仏から噴き出す千手」の句が、後に写俳へとの思いを引き継いでゆく原点であったのだろうと思う私のいまがある。当時は社会性俳句の真っ最中であった。金子兜太の句に俳壇が注目、集中する時である。三樹彦は本来の句のあるべき姿へ向かって、孤立の中にあっても句の真を求めていた。

 伊丹三樹彦の写真の師匠は岩宮武二である。岩宮武二は大阪芸術大学の教授でもあったが、俳人でもある。かっては岡本圭岳創刊「火星」の同人でもあった。このような状況の中にあって俳句のあるべき姿を岩宮武二とも、たびたび話し合ったのだとも私は三樹彦から伺ったことがある。そしてこれまでの俳句の抜け落ちている部分を批判的リアリズム理論へと結びつけたものだろうと私はいまでも思う。そして当時の「青玄」大阪支部のメンバー、佐々木砂登志・寺田もとお、三宅三穂へと、その研究を依頼しているのである。私と門田泰彦の二人がオブザーバーとしてその研究グループに参加していた。そこで研究されていたのが…見えているものを使って見えてはいないものを表現…するだったのである。これは批判的リアリズム理論の基本的思考なのであった。

 伊丹三樹は99歳で彼の世へと旅立たれた。大きな多くの業績を残して…。いま私は考える。分かち書き俳句と写俳運動と。写俳については、その基本的思考は何であったのかを述べた。俳句を成していることの自己矛盾の解決が写俳への挑戦であったのではないか。そしてその基本と言えるものが、…見えているものを使って見えてはいないものを表現…するの批判的リアリズム理論であったのだろうと私は思う。

         

俳句にとっての緊張感・臨場感とは…

          緊張感・臨場感とは何を指して言うのだろう

                 児 島 庸 晃

 俳句黙読に関し、その緊張感・臨場感の持続時間は一分間以内である。この間に俳句そのものが理解・もしくは心に受け止めるだけのもの…緊張感・臨場感が得られなければ、その句は選句から除外されるのでは、と最近になって私は思うようになった。このように思考するに至った理由だが、時代に於ける環境の急速な変化がある。時代の流れに沿ってわれわれが順応してゆくのに大変な心配りが考慮されなければならない生活の毎日であるからである。

 翻って、いまここで伝統俳句より現代俳句へと、俳人の心変わりが増えている原因も、この緊張感・臨場感を思うと理解出来る私になっていた。ここには人間關係への配慮がなされなければ生きてはゆけない心理の彩がある。句の表現においても顕著なまでに心の動きが見えていなければならないのである。心が浄化されていなければ受け入れられないのである。所謂、俳句のポイントが人間本体中心になってきたからである。伝統俳句に於ける季語中心という考えが、人々から遠ざかろうとしてゆく現実社会の厳しさを私は思った。最もその季語は、その原点は自然の中における人間の生活に基づいて生まれたものであり、大切に扱わねばならないのだが、季語が全てとはいいきれなくなっているのである。

 緊張感・臨場感は混沌とした時代だからこそ、われわれ俳人個々に対して求められているものでもある。何時も思うことだがテレビを見ていても、なんの面白みも湧いてはこない現実がある。何故だろう。昔は映画館に行きじっとスクリーンを見ては何度も感動を貰っていたのに…。テレビと言う場面では喋っている会話の言葉と画面が結びつかないのであろうか。言葉というものは、その言葉からそれぞれのイメージを連想するものである。ところが言葉と画面が分離してとけあわないのがテレビである。その点、ラジオは言葉だけで、イメージがいろいろと広がり、想像をひろげてくれる。…俳句も言葉とイメージが結びつかなければ、面白くはないものになるのである。緊張感・臨場感が湧いてこないからであろう。

   両の手で子の顔包む夜の秋    春田千歳

この句のポイントが如何に緊張感・臨場感をもたらしているのかは作者に聞かなくてもわかるほど明白である。この「顔包む」は作者の心が一点に集中して注がれていることが、この句を読むものには凄い愛情として伝わる。…これが緊張感・臨場感である。言葉とイメージに対する作者の姿勢は句を作すときの心の動きに依存する。句に対する作者の真剣さは精神の緊張を伴うものである。娯楽俳句には緊張感・臨場感はない。では、緊張感・臨場感とは何を指していうのだろうかとも思うのである。

 実用日本語表現辞典によれば、緊張感とは張り詰めた心、注意深くなり気持ちが高ぶっているさま…と書かれている。

   被爆後の広島駅の闇に降りる    清水哲男 

ブログ「増殖する俳句歳時記」2016・8より、この句を作した時の心境…心の痛みがどれほど作者を苦しめていたのかを思うと、私は私の心中においても張りつめた心を押さえきることは出来なかった。事ほどにこの句を知った時の気持ちの高ぶりを抑えきれなかったのだ。ここには歴然とした緊張感を呼び起こす必然性があったからである。何故ならば、作者の記述文の中に私を感銘させた心があった。

 …戦後半年を経た夜の広島駅を列車で通ったときの記憶では、なんという深い闇のありようだろうと、いまでも思い出すたびに一種の戦慄を覚えることがあります。あの深い闇の中を歩いてきたのだと、民主主義の子供世代にあたる我が身を振り返り歴史に翻弄される人間という存在に思いを深くしてきた人生だったような気もしております。

 作者の、当時の、この事実体験は心中に突き刺さっては心を高ぶらせていたのだろうと、私は思った。これこそ緊張感・臨場感である。それは「広島駅の闇」と限定した固有名詞の表現言葉の確かさにあった。「広島駅の闇」と言う、その作者の心の有り様に緊張感・臨場感が表現出来たのであろう。

   冬の日の一本道を影連れて    鳴戸奈菜

『現代俳句年鑑』平成29年度版より、この句は寡黙なある日の作者が自分自身との対話をしながら「冬の日の一本道」を歩いているのである。それはそこに作者自身の「影」を見つけた時に始まる。宿命のように「影」を引き連れているその厳しさを解き放つことが出来ないでいる時の虚しさを持ち続けているようにも私は思った。この文章を書いている私自身も感じるところの虚無感を作者も引き連れて生きてゆくのだろうと。…そんなように思えるほど言葉とイメージはぴったり溶け合っている表現なのである。言葉から広がるイメージの連想は緊張感・臨場感を伴うものである。ここに登場する「冬の日の一本道」は人生の「一本道」なのかもしれない。日常のある日ある時のごく普通の生活の中にも、作者にしてみれば、何時ものように緊張感はある。これは本物の緊張感である。言葉からの連想イメージが浪漫へとひろがり心との葛藤が必死に切迫詰まってくると、次の句のような緊張感・臨場感が生まれる。これはもうどうすることも出来ない悲しい緊張である。

   一枚の落葉となりて昏睡す    野見山朱鳥 

現代俳句協会「データーベース」より抽出。この句、溢れんばかりの真面目さが、人間としての味になり、「一枚の落葉」に注がれている。この時の作者の一途な暖かさが、この句を受け取る私の目を通して心へずしりと重い緊張感で乗っかけてくるのである。この句の緊張感や臨場感を強めているのは「一枚の落葉」と作者が一対になって溶け込んでいる仕草であろうと思う。この擬人化の手法は緊張感や臨場感を表現するに最も効果のある方法であるように私は思った。その擬人化だが、作者が目視する際に作者に最も近い部分を興味の対象に選ぶことが多いことから、非常に親近感が盛り上がるのである。その時の心は目視の対象物との間に葛藤や摩擦が生じている。この心理は複雑に揺れるもの。この状態を臨場感と言う。故に臨場感は大切にしなければならない。

   秋雨やプラトンのごと歩く猫    玉井 豊  

俳誌「歯車」375号より。この句だが説得力の凄さを感じる。句を受け入れる時に、不思議と心に残り、その心にへばりついて離れなくなる句である。…そのような時の多くは説得力の凄さを感じるものである。説得力の強くある句は臨場感を感じさせてくれる。この句に登場する目視は「猫」。なんとなくいろんな仕草をしてくれる臨場感なのだが、作者には哲学者の「プラトン」のように思えたという、その「歩く」姿勢が。「猫」に託した擬人化表現である。ここには些かな作者の人生おも感じさせることに、何時しか親近感を覚えたのだろう。もははやこれは本物の臨場感である。だが、作者の捉えた「猫」は寂しい「猫」であった。そこには「秋雨」が降っていたのだ。私が句を作す時に何時も思考するのは背景をどうするかを工夫する。背景の中で登場物体を動かすのである。これは緊張感や臨場感を引き出し強めることが出来るからである。ドラマや小説の創作の基本姿勢でもある。…この句は緊張感や臨場感を表現するのに「秋雨」という背景を上手く考慮した本物の人間の味が感じられるものであった。

 その緊張感や臨場感だが、より効果を強めるには工夫がいるのではと思い出して、ふと思ったことがある。強調される部分がより際立つように目視の対象物を呼び込まねば、そこには何の変化も生じないことになるのだろうと思うようになった私である。緊張感を出すには緩和する部分があってはじめて緊張感が生まれるということであるのかとも考えるようにもなった。緩和とはいったい何なんだろうかと一層深く思うようにもなった。強調される部分と緩和の部分が調和されて繋がり重ねられての伝達がいるのだろうと考えるようになった。

   ぶらんこやあの世を行ったり来たり 鍬守裕子

俳誌「歯車」376号より。この句は作者の心の中での緩和が目視の「ぶらんこ」を通して伝達されている。目には見えてはいないが心理的な緩和が行われている。表現面では言葉としては書かれてはいないが、…この世…に位置している自分、作者自身の存在がある。でも表現面では俳句言葉としては…この世…とは書き込まれてはいない。何故なんだろう。自分の立ち位置をはっきりさせたかったのであろう、と私は思った。即ちこの言葉…この世…と言う言葉を言葉として書き込まなかったことが緩和なのである。表現すべきものを言葉として句の中に書き込まないで省略することに、よりイマージュネーションを深くするのだろうと私は思った。緩和とは作者自身の目視しているその場、つまり、何処に作者が居て、何に向かって目視物体を見ているのかをはっきりさせる時、その場所をイマージュネーションの中において想像させる部分である。ここが緩和の部分なのである。即ち俳句言葉としては表現されてはいない部分である。イマージュネーションを呼び起こす部分なのだろうと私は思うようになったのだ。

 もう一つ考えなければならないことに、俳句リズムがある。俳句には法則の五・七・五のリズムがベストだが、句によっては律動を大切にしなければならない時もある。所謂、リズムによる強弱である。分かり易い説明をすれば二段切れの俳句である。普通は導入部・展開部・終結部の構成が基本だが、上段と下段の二部構成の作品である。

   ハンモックだんだん私になっていく  西本明未

俳誌「歯車」377号より。この句は「ハンモックだんだん」と「私になっていく」の二部構成であるのであろうと私は解釈した。この句は俳句の基本構造ではないのではないかと。この句を基本構造でリズムにのせるとどうになるのだろうか。「ハンモック」・「だんだん私に」・「なっていく」とすると、この句には緊張感や臨場感がなくなる。ここには俳句の切れの部分の解釈をどう受け取るのかであろう。…このような句文の切れる位置によっても緊張感や臨場感が失われる危惧が、俳句の構造の思考次第ではある。ここで一考したくなることもある。俳句そのもの律動の在り方次第では緊張感や臨場感を弱めることもあるのだろうと認識した私であった。

 これまで俳句での緊張感や臨場感についての纏まった解釈の説明を、私はあまり読んだことがなかった。そこでいろんな資料を探し出し私なりの考えを書いてみた。それは何故この句が面白くないのだろうと思ったのがきっかけであった。俳句を読んだ時に作者の心が素直に読み手に入ってこなければならないのだろうと思った。その根本になるものが緊張感や臨場感なのではないかと思い思考を深める事として書いたものである。