観念語言葉では日々の生活は満たされない

         俳句はコピー感覚ではないのだと思う

              児 島 庸 晃

 最近、私が思うことの一つに俳句の散文化がある。五・七・五の定形を踏まえていれば、全て俳句なのだと思っている俳人が多くなっているのではないか。…こんなことを私が思うようになったのには理由がある。俳句を作すのに言葉が先行して、それ故に意味だけの俳句が通常のことのように進行しているのではと思うことが多くなったからである。俳句における散文的という言葉は一般的には味気なく、情趣が薄いという意味でそのような言葉が使われることでもあるのだ。これでは日々の生活の潤いを満たすのには何の役にもたたない。毎日の傷ついた心を救ってくれる温かさにはならない。

 俳句の現代化が、或は口語化が進むと当然のように日常的になり、心まで緩んでくるのだろうか。やはり俳句そのものは寄物陳思であり作者が物を見て、その物から受け取る心が大切だと私は思っている。この時に自己の確認が大切で作者自身の発想表現が可能になるのだろうとも思う。だが今の俳壇は俳句のコピー化現象を産んでいるのではないかとも思われる。コピーは言葉が機能することにのみその重点要素があり、意味がより素直に素早く伝わる事が出来るようにライターが仕掛けることで、その大きな目的は全てが意味のみでのその役目を果たすものである。コピーとして作られた一文には広告宣伝が目的であり、味気なく、情趣が薄い、というのは当然のことのように私は思う。今日の俳句がこのコピー感覚らしく、否、コピーそのものになってしまったのではないかというのが最近の私の感想である。 

   目をかるくつむりてゐたる風邪の神  今井杏太郎

今井杏太郎句集『海鳴り星』(2000)より。作者は1997年「魚座」創刊主宰。2000年『海鳴り星』で第40回俳人協会賞受賞。2006年「魚座」終刊。この「風邪の神」の句は作者の日頃からの主旨発言の中にある、俳句は…季語・時間或は場所・作者自身の思い…があれば作れるとの言葉にそったものである。だが、この句はすこし句の作りを誤ると散文になってしまうところを、そうはしないで寄物陳思にしたものである。言葉使いが平明であり、極めておとなしい。これといった特殊な表現もない。それでいてこの句を読む者には力強いインパクトを与えている。何故だろう、と私は思った。分かり易い言い方をすれば、何故この句を読んだ時に、心を奪われてしまうのかとも思った。全てはこの句の趣旨が寄物陳思の思考の中において作られたものであるからである。「風邪の神」は誰も見たことのない姿。つまり作者の想像する姿である。この架空の姿を観念の言葉にはしないで具象化して見せる言葉にして表現しているのである。…「目をかるくつむりてゐたる」と。この俳句言葉こそ物に託して見届ける心としての作者の趣旨のありかたなのである。つまり、「風邪の神」は優しい可愛い神様であり、病気の元になる怖い神様ではなかったのだ。所謂、寄物陳思なのである。

勘違い、もしくは考え間違いし易い物の表現に観念語と言われる俳句言葉がある。観念語は、その言葉自身が自らの意味を有しているものだが、この言葉を現実の生の感覚経験でのみ使用すると、それ自身が説明言葉になり、その言葉そのものが散文言葉になってしまうものである。それ故に俳人は観念語と言われる言葉そのものを俳句言葉にするのを避けてきた。多くの俳人は心して嫌がってきたのである。だが、観念語言葉は使い方をあやまらないで正しく補正すると、見事な緊張感をもたらす句になることが現代俳句の分野では理解されてきた。この観念語を作者自身の心境として表現することが従来の欠けてしまっていた危惧を取り払うことになり作者の心境を深めることが出来るとわかってきた。観念語の上手な使用が作者の心中の不安を防ぐことと知り、俳人は不安を避けるための観念語使用のいろんな工夫をしてきた。そして現代を表現するのに使い方をあやまらねば充分に心を表現すものであると理解されるに至った。次の句もその一つであるのではないかと私は思った。

   考えて水面をすべるあめんぼう   宮腰秀子

俳誌「歯車」378号より。この句には巧みな操作があり、観念言葉が散文化にならないよう試みているのではないかと私は思った。その観念言葉とは「考えて」である。この言葉は一般的に使用されると、日常の生活における慣習語である。したがってとても意味性の濃ゆい言語で説明語である。俳句言葉としては使用出来ないのである。…でも、ここでは俳句の言葉として大切な目的を果たしているのである。何故!、と私は考えてみた。やはり、ここには寄物陳思の心がしっかりと込められていたのだ。「水面をすべる」と言う俳句言葉が作者の見届けた寄物陳思なのである。「あめんぼう」が水面を行く時に見た姿を心へ呼び入れたそのものが寄物陳思なのである。「水面をすべる」の俳句言葉の配慮が俳句を散文へと流れてゆくのを避けた工夫であった。心深い俳句へと読者を導いた理由であった。

   草も木も緑奔放だが眠い    児島貞子

俳誌「歯車」377号より。この句も散文俳句と勘違いされ易い句である。一見そのように思える。しかしこれはれきっとしたしっかり作られた俳句なのだ。勘違いされ易い句と言うのは、一句の中に使われている喋り言葉があるためである。その言葉とは「だが眠い」。喋り言葉と言うのは日常生活言葉であり、意味性にそのポイントがある。よって感情の発露がそのまま直に出る。所謂意味性が強すぎるもの。…でも、ここでの使用はそのことを承知で俳句言葉にしているのだ。ここでの「だが眠い」は感情言葉にはなっていないようにも思われる。何故ならばこの言葉がもろ出しの感情としてではなく、情緒としての印象を強めているからである。その根拠は寄物陳思の俳句精神を理解しての考慮が働いているのである。「草も木も緑」の俳句言葉が考慮されるとき作者の目視の果てに得た光景を寄物陳思しているのである。口語表現の試みは散文化し易いのだが、大胆にめいっぱい表現すると味のある俳句になることを実証しているのかもしれない。

   白菜を割って緊張解いてあげた  諏訪洋子

俳誌「歯車」374号より。この句の句体は著しく従来の俳句の方法とは異なっているのだが、この句は散文化しているのではない。心の柔軟さが強調されての口語体の表現を産んだのである。その柔軟な表現を感じる俳句言葉とは「解いてあげた」である。何故!と問いただしてゆくと、そこには凄い作者の試みがなされているのではないだろうかと思う発見に辿りついた。「解いてあげた」の感情表現言葉は対象物を目視しただけではなかったのだ。目視した「白菜」を目に入れて見ただけではなかった。目視した時に「割って」と作者の意思が働き「白菜」の丸く固まっている塊に「緊張」感ゆえの苦しみがある、とまで見詰める心。…それそのものに作者自身を見ている思いがあったのであろう。これそのものは寄物陳思である。目視の果ての強い心の発露は寄物陳思そのものである。句体は口語体での表現形式ではあるが決して意味だけを強調したような俳句ではなかったのだ。ここでの句体で注目すべきは「解いてあげた」の使い方である。「緊張」と「解いてあげた」の接続に助詞を使わなかったことである。例えば「を」などの助詞を使っていれば説明語になり散文化してしまうのだが、使用がないので散文にはなっていない。「解いてあげた」は口語体の俳句であっても散文化になってはいないのだ。その俳句作品としての模範となる試みをしている一例として考察をした。

   精神科の空を小鳥が歩きまわる    穴井 太

現代俳句協会「データーベース」より抽出。1956年、北九州市で益田清らと「未来派」を創刊。1963年金子兜太の「海程」同人。1973年第20回現代俳句協会賞受賞。この句も散文的俳句作品と間違いやすい句体である。何故だろう。「歩きまわる」と言う言葉の表現が口語発想であるからである。口語発想とは日常語に近い口調で親近感を受ける要素が強くて印象深く心に入ってくるもの。故に言葉が流れてしまうのであるが、この句には日常茶飯事の出来事のようには事が流れてはいないのだ。それは作者の心がしっかりとしていて、ただの意味的のみでの喋り言葉にはなっていないのである。「小鳥」をしっかりと目視しての寄物陳思がなされているのである。「精神科」の言葉はすこしばかり刺激のきつい名詞なのだが、実際の病院が目視の中に存在していて、その刺激の強さは作者自身の心へときつく感じるものであったのだろう。…この部分が意味だけにとどめておくわけにはいられない心の叫びへと繋がっている。しっかりした目視がなっての寄物陳思である。目視がしっかりできている状態のものは散文的俳句作品にはならない。  

 次の句も穴井太の俳句作品なのだが。観念語が使われたものである。この句の場合の観念語とは「苦しめり」である。

   一樹のみ黄落できず苦しめり   穴井 太 

句集『原郷樹林』1991年より。この句は散文的傾向の強い作品である。それは観念語が突出して使われているからである。その観念語とは…「苦しめり」。何故観念語と規定するかであるが、言語そのものには、そのもののもつ意味が、すぐに理解出来るやさしい分かり易いものから考えなければ理解しにくいものまであり、その理解しにくい部類にあるのが観念語と言われる言葉なのである。言葉としては、その言語だけでは独立した意味をなさないもの。常に別の物を介してでなければ意味を知ることが出来ないものを観念語と言う。その言葉自体では意味を充分に理解出来ないものなのである。…この句の場合が、そのような観念語の使用のため散文の句文になっているのである。詳しく述べると、「苦しめり」の一文では、しっかりとした意味が分かりにくいのである。説明がいるのである。そのために何か別の補助の言葉がいる。それが「一樹のみ」の言葉なのである。このことは意味を説明するのに、別の言葉を使って説明をしなければならないことになるのである。意味に説明を付帯すると、もうこれは散文の一文になってしまい感覚を納得させるにはいたらない。同じ作者の穴井太の句でも句体の認識の有り様で散文になったり俳句になったり変化するものなのであることの一例である。

 昨今の俳句作品を見ていて思うことは、この句はどの部分に俳句としての価値があるのだろうかと思うことが多くなってきた。思えば思うほどその思いは混迷しているのが私の俳句に対する思考である。日常の生活意識としてのものの価値基準が変遷してきたのであろうか。俳句の基準そのものがわからなくなってきた。やはり俳句そのものは散文的になってゆくのであろうか。基本としての寄物陳思は何処へ行ったのであろうか。寄物陳思は表現の方法こそ異なってゆくのであろう。でも目視の果てのその先に見つけ出すものには意味が存在はするのだが、その意味には根拠がある筈。その根拠には心が存在する。その心の必然には感覚が生まれる。その感覚は説明言葉であってはならない。その説明言葉はコピー感覚であってはならない。説明言葉は観念語になる。目視なしでも出来るもの、言い換えれば物を見ないで頭の中で言葉を創りだすことが出来るものにコピー文がある。俳句は目視がなされてこその感覚的発見なのである。感覚的発見、発想には緊張感や臨場感が強く出る。故に味気なく、情趣が薄いと言う俳句は生まれないのである。句会などでの一時的受けの良いコピー向きの俳句作品であってはならない。

眼で物を見るのではなく……心で物を見よう

          物を見て得られた感動には心が宿っている

                 児 島 庸 晃

私自身のことなのだが、私は俳句を作品と言えるレベルまで高めるのに意識そのものが高まらない時がある。何故だろうと思うことを、これまで何年も繰り返してきていた。…何時の頃からか私自身が試行錯誤を積み重ねてきていたようにも思う。ずーっと思いつめるほど苦しんできた。一体俳句って私にとって何だったんだろう。このことは私以外の俳句作品を見ても感動したりするほどのことはなかった。長い年月を経て理解出来たこと。…やっと私が納得出来たこと。それは私自身の思考に関わることだったと思うようになった。対象物を目視するとき私は私自身の両眼そのものだけで物を見ていたのかも。いま思うのだが、人間は感情と言う情感を豊かにすことが出来る頭脳をもっている。故に対象物を目視するときは、心で受け止め、心で感じる大切さがいるのであろうと思える今がある。私は目視の際に心をおろそかにしていた。心を大切に目視していなかった。つまり目視のとき心で物を視てはいなかったのかもしれないのだ。私をわからなくさせていたのは私自身が目視するときの心をおろそかにし両眼のみに託していることの問題であった。目視して「あ!」と思う瞬間には、その作者は作者自身の両眼だけで視ていたのではなかったのだ。そこには「あ!」と思わせた心が働き、つまりは心で物を見ていたのであろう。現代は情報社会である。知識だけがどんどん入っくる。この知識を求め、その知識を得ようと追っかける心だけが豊かになっていたのに、そのことをすこしも可笑しいことだとは思っていなかったのかもしれない。心の存在を忘れて目視していたようにも思う。目視は心で視なければならないと思えるようになった私の今がある。

   ぼくよりも遠くへ行ったかたつむり   前田 弘

俳誌「歯車」330号より。この句、「かたつむり」をじっくりと目視している作者の視線の先には、もっともっと遥かなる先まであるこれから進んで行くであろう道の存在が見えている。その俳句言葉とは「ぼくよりも遠くへ…」。この俳句言葉は作者にとっては作者自身の両眼だけでの目視ではなかったのだ。その根拠となる俳句言葉は「ぼくよりも遠くへ…かたつむり」。作者自身の心の存在が私には見えてくるのである。即ち、ここには目視の時にしっかりと作者の思考する方向性が埋め込まれているのである。読者がこの句に魅かれ気持ちが吸い込まれてしまうのには作者の心の重さが読者を動かせているのである。つまりは目視の際に「かたつむり」を心で視ていたのである。作者自身の心でひきつけひきよせている凄さを私は受け取ってしまった。目視は作者の両眼ではなく、作者の思考する方向性に沿った心の目とも言えるものであったのだ。

 目視が大切な事は、俳句だけの世界ではない。日常生活においても欠かせない大事なことなのである。だが私たちは、この目視がおろそかにされていて多くの事故を引き起こしている。常日頃使用している乗用車や営業車の日常点検整備や定期点検整備は目視による点検なのである。他でも建物や橋などの構造物も目視。この目視が基本とされているのである。何故目視なのか、と思った時、そこには人間としての心の有無が、この大切な部分の原点となっていて、これをおろそかにすると大変な事故の原因になっている。…このことは人の心を壊すことになる。俳句も人の心を壊してはならない。目視に両眼だけに託して物を視てはならないのである。常に心で物を視なければならないのである。作者の両眼だけで目視してはならない。心で物を視なければならない。いま俳句を表面だけで、つまり目視だけで見たままをそのまま表現しようとする俳人たちがいる。…これを表面主義表現俳句と言う。この表面主義表現俳句は、俳人の思考を自由に広げ、読者それぞれに合ったように受け取りが出来る事が良いことだとされるものである。かって映画表現において二十世紀の中頃フランスで流行した表現手法であった。ジャンリュック・ゴダール監督作品「勝手にしあがれ」。この映画におけるカメラを万年筆の様に使って事実画面だけを執拗に追い回す、つまり表面だけを実写する「カメラペン説」があった。この映画は多くの若者を虜にした。この映画を期に日本では松竹系の映画にヌーヴェルバーグと称する新しい動きが起こる。大島渚監督たちを始めとする一連の作品である。これら全てが表面主義表現なのである。いま私が、これらの表現方法を通じて注目している俳人がいる。それは表面主義表現に新しい魅力を付加して何かを心に訴え、何かを心に残そうとしているのではないかと思える俳人の存在を強く感じる新出朝子さんを私は思っていた。

   ネクタイのただぶら下がるだけが秋   新出朝子

「かでる」第85号より。新出朝子さんの両眼は正常な視力を持たない状態での目視である。それだけに目視は心の目なのであろう。…目視とは物を視ると言うことではなく何かを感じる心なのかもしれない。この句は「ネクタイ」をしているだけのことなのに、何故心がひきこまれてしまうのだろうか。ここに漂う虚無感は「ただぶら下がるだけ」と表現されての心なのである。視ているのは「ネクタイ」ではなかった。「ただぶら下がるだけ」の虚無としての心の有り様であった。目視の心そのものは表面主義表現なのだが、新出朝子さんの眼はカメラのレンズなのである。この新出朝子さんの眼のレンズには心を灯す表現の厳しさと暖かさが持ち込まれ読者を誘い込む鋭い強さがある。この句における虚無こそが俳句言葉を従来の表面主義表現とは異なるところなのである。それは執拗に「ネクタイ」を見続けることではなく「秋」を意識してのアイロニーにしていることが、単なる表面主義表現ではないのである。従来の表面主義表現における…カメラペン説…ではなく、…カメラアイロニー説…なのである。目視の心にはアイロニーがとても多く含んでいることそのものが新しい表現の始まりのようにも私には感じられるのである。

 この表面主義表現俳句にアイロニーを感じさせてくれていた俳人は昭和40年代にもいた。桂信子である。この俳人は「死」へ向かう「生」の美学、それは滅びゆくものへの美しさをアイロニーを込めて表現することであったようにも私には思える。桂信子は昭和43年「草苑」創刊。この頃より思想的な深まりが顕著になり、アイロニー美学のピークを迎えるのである。根底にあるものは表面主義表現俳句である。この表現の特徴は誰にでも受け入れ易く、しかも受け取り易い思考の表現なのである。ただ言えることは目視には心で視ることであった。作者は自身の両眼だけでの目視ではなかったのだ。ここにはアイロニーの鋭い心がなければ滅びの美学は生まれてはいない。心で物を視ることだった。

   母の魂梅に遊んで夜は還る     桂 信子

俳誌「草苑」昭和45年のものである。作者の母容態悪化の時の作品である。もうすでに意識のままならない母はいろんなところを彷徨い歩いているのであろうか。魂だけが梅を見に行き楽しみ、やがては遊び疲れて還ってくる。この信子の心は優しく淋しく暖かい。梅も母も、全てのものが幽玄の中に置かれ美しい。だが、この時、信子は母の容態悪化へ向かって自身の心と凄まじい葛藤を繰り返しているのである。この葛藤における心は信子の滅びの美学なのである。私が「草苑」同人時代であった頃のことなのだが、この作品に驚愕する事になる当時をいま思いだしているのである。それはここでの俳句言葉…「遊んで」…。ここには目視のときに「梅に…」の言語を俳句言葉にしてはいるのだが、ただ単に「梅」を眺めていたのではなかった。母の心を視ていたものと思われる。この俳句言葉「梅に遊んで夜は還る」こそが滅びの美学としてのアイロニーなのである。アイロニーとは?と思考したとき、その発生を問い詰めるとき、どうしても自然に生まれてくるのが、物を視るそのことは心で見詰めなければ人間の本心は表現出来ないのである。両眼だけでの目視をしてはならない所以である。信子の場合は目視の眼のレンズの奥にある心の眼はアイロニーを生み出す思考を所有していたのであろう。

   小さい秋百円ショップにつけ睫毛    高橋悦子

俳誌「歯車」384号より、この句には作者ならでの新しい試みの表現がある。この句は表面主義表現の形式に近いもの。表面主義表現の基本的思考は誰にでも受け入れやすいことであるのだが、その根底に作者の思考が込められていることも珍しい。その表現とは「百円ショップにつけ睫毛」の俳句言葉である。しっかりと目視ができているから、心で物を視ていることが可能なのである。この句は表面だけを写実しているにも関わらず表面だけではない、目視の際には、両眼で見ているのであるが、眼だけでは視てはいない。作者の思考が…あ!…と驚く吃驚の声を出しそうな心を伴っている。アイロニーの心を発生させているのだ。ここに表現されている「百円ショップ」の俳句言葉は心で目視をしているのであろう。このシニカルなアイロニーは心で視なければ出てこない表現言葉である。執拗に物を視ている眼はレンズなのだが、レンズが万年筆となって記述してゆく…カメラペン説…ではない。…カメラアイロニー説…である。目視の際には心で視なければならないのである。

 写実なのに写実だけではない目視の素晴らしさが読者の心を捉えて離さないのが次の句である。

   毛糸編む有袋類のように母     秋尾  敏

現代俳句協会発行誌「現代俳句」平成31年一月号より。この句は一見しただけでは、ただ表面だけをとらえているようにも思えるのだが…そうではない。ここにある「有袋類」の俳句言葉には深い作者の思い入れがあるろようにも私には思える。この詩性にゆきつくまでの「母」へ対する目視は表面だけの写実だけではないように考えてしまってた私がいた。何故だろうと考え込んでしまってた私がいた。作者と作者の母とのつながりに惹きつけられていた私がいた。これって一体何なんだろうか。しばらくして理解できたこと。…それは目視をするときには作者は身体いっぱいに心を込め、満身の心の眼で対象物を視ていたのかもしれない。表面主義表現俳句は誰にでも受け入れやすい詩形なのだが、そこに作者全身の心が発露されると迫力のある緊張感を生む。この句の「有袋類」には暖かさや柔らかさがあり、「母」の俳句言葉とかさなり母体の温もりを感じさせてくれる。「有袋類」の新生児は未熟状態で生れ,生後一定の期間,母親の育児嚢中で育てられる。「毛糸編む」の目視はただ単なる眼で物を見るだけではなかった。目視には心で物を視ることが大切な所以である。この句にもカメラアイロニー説を思ってしまった私になっていた。

 物を目視するときの作者自身の心得、または心構えを私自身の実感を通して探ってきたのだが、作者の思考を単に表面だけで捉え表現してはならないことを記述した。俳句表現には目で捉えた現象だけを記述してはならないのである。そこには何時も、「あ!」と思う感情を感じることがあるもの。そのように思わせているのは心が働いているからである。物を目視するその時に得られた感動には心が宿っている。作者が受け取った感動を大切にしてゆきたい。目視には心を宿したカメラレンズになろう。句を作すとき眼だけで物を見てはならないのである。そこには必ず心が付帯する。

     

素直に感動出来る心をいつも保持しているのか?

             人心とは……俳句人生の全てに……
                 児 島 庸 晃
 最近になってのことだが人生の蓄積など何処へ行ってしまったのだろうと思うことがある。…殊に俳句においてはこの人生の蓄積が重要に思えるときがある。ただ何の変哲もない風景でも見事にその人独自の風景を描き出す。潜在意識を健在意識に高めて俳句鑑賞者の心をつかんでしまい虜にしてしまう。この心技は大変なことなのだがいとも簡単にしてしまう俳人もいるのだ。私の尊敬する俳句人の一人でもある故人の鈴木石夫先生は…そのような人であった。鈴木石夫先生の作品をひろってみよう。
    かまきりの孤高は午後の風の中     
   大寒や三途の河に橋はあるのか
   春の夜の手脚 静かに折りたたむ
   くわんのん様も臍出し秋の風起る
   場合によっては朝顔も木に上る
   鬼の子と言はれひたすらぶらさがる
   母の日は神も仏も暇でして
   風峠雲をちぎって捨てておく
   たましひの独り言 また雪が降る
   裏山に名前がなくて裏の山
人心とは人生の蓄積そのものなのかとも思う。作品の中にありながら私の存在を確認できるその姿こそ鈴木石夫先生であった。「これが私の俳句だ」と言えるまで俳句を続けなさいは弟子たちに残した言葉であった。昨今、私はいささか俳句職人臭くなっていて自責の念に悩まされているが、改めねばならない。特にネット俳句職人になってしまっている。本当の俳句は如何に人心を感じ取れるものなのかを感覚としなければならないのだろう
   遠くまで行く秋風とすこし行く   矢島渚男
現代俳句協会「データーベース」より。句心とは素直であること。物事に対して従順であること。人心は句心に現れる。この句は、有るがままに有るのを有るように句にしたものである。極めて素直な表現のままの句である。…だが、この句を目にとめた人は心を奪われてしまったかのように引き止められる。何故だろう、と私は思う。心が素直になれているからである。この素直な率直は、人生のいろんな蓄積の果てに訪れる試練を乗り越えた体験の心が込められているからだろう。ここでの俳句言葉「すこし行く」には作者の純粋な心の人生蓄積を感じるように思うのは私だけではないだろう。句心には人心がいろんな形をなして出てくるのである。その形と言うのは作者を象徴する目視物を見つけ出すことである。そしてその目視物を比喩として表現し、私の代わりをしてもらうことなのである。この句の「遠くまで行く秋風」は人生体験を果たした作者自身なのであろう。目視物から作者は作者自身の人生蓄積の私性を感じ受けとらなければならない事が句心…なのかもしれない。
 句心を問うてゆくとき、私の存在を大切にして目視していることが如何に大切であるのかが、それぞれの句の中に表現されていることが理解出来る。そのことが、しっかりと読みとれるのが、次の句であった。
   秋の暮大魚の骨を海が引く   西東三鬼
『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)より。三鬼は私の存在を最も大切にして、そのことを第一に思考しての句を多く作っているのだが、この「秋の暮」は代表的とも言える作品である。「大魚の骨を海が引く」の受け取りは無常観そのものである。ここにはどうしょうにもどうにもならない人生の哀れみがあり、三鬼のこれまで歩んできた人生の蓄積が込めれているようにも私は思ってしまう。三鬼が海岸に佇んでこの光景を眼に入れたとき、どれほどの悲しみを受けとったのであろうか。ここにはこれまでの体験した全ての感情をこめたものであろうと思われる。この感情は感動へと変革すのである。句心には作者の人生体験の実感が限りなく広がり、その心は満足で満たされる。謂わば「大魚の骨を海が引く」は比喩としての作者の象徴なのである。
 ここで、もう一句。比喩として作者を象徴する句を紹介。
   哭かむまで母の白髪時雨けり   小林康治
総合俳句誌「俳句」昭和36年2月号より。ここでの作者の象徴としての比喩言葉は「白髪時雨けり」である。「母」の人生体験経緯を感じさせるものとしての俳句言葉なのである。ここに使用されている「哭かむまで」の俳句言葉は些か過剰な表現言葉だが作者には考えがあってのこと。私はこの俳句言葉が人生の蓄積を感じとれるもののように思われる。ここには句心が人心として表現されているのである。また作者の心中にあるところの「白髪時雨けり」にも「母」の人生のこれまでの生きてきた実感を感じてしまう。この「時雨けり」は過去の母の日々を想起するものでもある。「白髪」の乱れる姿から「時雨」を連想したのであろう。私を象徴表現するのには比喩を用いての人心そのものが句心に現れるものなのである。
 この句心というものは人生全てにも大きな影響を与えることがある。あらゆることに失望した後の心に響くものでもある。不安や悲しみから解放してくれる優しい言葉にもなる。つまりは癒しのモーメントともなるのである。俳句することの意味や意義は句心から得られる癒しのモーメントなのである。
   白桃や力を抜いてもいい時間   宮澤雅子
2008年「歯車の集い」事前句会より。この句は18点を得た最高点の句であった。何故にこの句が、これほどまでに共感共鳴を受けのであろうか。ここには作者がこれまで辿って来た人生の実感がこの句の中に感じられ、しかも心が素直になれているひとときの安心が、選句者にコミニュケートされからである。人心は句心に表れる。人生における生きる力の真っ当な優しさや暖かさが必然的に句心に反映されて表現されるのである。即ち句心は人心の象徴なのである。では、その人心の象徴を句に取り入れるにはどうすればいいのか。俳句としての技巧ではなく、精神としての心の有り様を正すことに、その価値観を思う時がある。
 言霊学では心、言葉、行動が一致している状態を『三事』と言うのだが、この『三事』とは命が活々と躍動している状態なのである。句心にはこの『三事』が求められているのである。
   青林檎上向いてそっぽを向いて   松元峰子
句集『丸善檸檬』より。心、言葉、行動とは、突き詰めると自己主張の美しい安定した心を躍動させることである。句心には寂しいものや楽しい雰囲気も含んでいるのだが、この句に登場する『三事』とも思える「上向いてそっぽを向いて」はプラス思考なのである。作者自身の生き方が、この句には反映されていて句心を思わわせる。この「上向いてそっぽを向いて」は作者を象徴するものでもある。心と行動が一つのものになってこそのものが俳句言葉になる。ここでの行動とは作者自身の有しているプラス思考の意識のこと。「青林檎」を目視した時に動かされる心の響きがしっかりと見えているから、作者の人心が深く読者を頷かせる強さをも感じさせてくれている。人心が句心を象徴するものとなった。俳句言葉は心と、その作者の行動が常に伴った時に生まれる。山口誓子は物を直視した時に「あ!」と言葉が出る、と言う。この時点で俳句は出来ているのだと言った。これは『三事』のことだと私は思った。山口誓子の言っていることは心、言葉、行動、が一つになった時のことだと私は思う。作者が物を目視して何らかの感動を得た時には、そこには作者ならではの「あ!」と言葉に出してしまいそうな作者そのものの心情が宿っているものである。…これそのものが作者の心の中で行動を起こしているのである。俳句を作るときには物を目視した時に起こる「あ!」と言葉に出したくなる心の動きが大切なのである。即ち心、言葉、行動が一つになって『三事』を生む。この『三事』なるものは自己主張を句に込めるときには、どうしても欠かせぬ心理の彩ともなる。目視した時に飛び込んできた驚きと共感は心の中に宿っては消えないのだ。何時までもは目の中にだけあるものではなく、じわじわと心中に染み込んでくるもの。これが即ち残像イメージと言うものである。全ては「あ!」と言う発語なのだ。
   傷口に遠くの蝶が集まり来   対馬康子
「現代俳句」平成30年6月号。この「傷口」とは何の傷を指しているのだろうか。すこし戸惑う。だが、「蝶が集まり来」だから、白日のもとに光り輝いての目立った存在なのだろう。「蝶」にしてみれば興味津々なのだろう。でもここでの作者は「蝶」そのものを見ていたのでなく、ここで惹きつけられて、この光景を見ていたのは、「あ!」と思ったのは作者自身の姿を見ていたのだろう。私は作者の目を向けたのは作者を代弁して演じてくれている「蝶」の行動であったようにも思えるのである。人心は句心に表れるのである。虚しいまでに悲しいこの「蝶」の仕草に一抹の不安を抱くのは私だけではないだろう。俳句とは人心を如何なる形や姿で、どれほど強く、どれほど長く残像イメージを句心に残せるかではなかろうかと思う私の昨今がここにはある。
 
 俳句を作すとき、今作者自身が、何故句を日々なしているのかを自分自身に問い詰めなければならないことを個々が、真剣に考慮しなければならないのではないだろうか。多くの俳句作品は自分自身の身辺の日常を、単に報告すると言う範囲にとどまっていての内容でいいのであろうか。生き方の、或いは考え方の方向性が、そこに潜むものであってほしいものでありたい。人生の蓄積が重要に思えるときがある。その人の人柄が句心には出る。だから潜在意識を健在意識に高めて俳句鑑賞者の心をつかんでしまい虜にしてしまう。そのときの心とは「あ!」と言葉に出してしまいそうな作者、そのものの心情は素直の俳句心でもある。今でも私は思うのだが何時も目視の瞬間に「あ!」と思える心を大切に保持していたい。素直に感動出来る心をいつも保持していたいものである。句心とは人心の象徴なのかもしれない。  
 
 

個人が本を読もうと思う時とはどんなときなのだろう

            人間の心を感じる言葉…それが俳句

                 児 島 庸 晃

 そもそもわれわれ個人が本を読もうと思う時とはどんなときなのだろう。日常生活の中で、日々を満足に充たしている人はそのことだけで充分に毎日を過ごせるのだろうと私は思うのだが、だが暮らしの中で、ふあーっと一抹の空虚感を感じることはないだろうか。寂しさやつまらなさが心の何処かに留まってあることはないのだろうか。一個人では日々を満足には暮らせない時代にいまはある。他人との心のコミニュケーションが上手くなされなければ、日々の生き方に躓く。心を豊かにしていなければ寂しさや悲しみが発生。精神状態が壊れる。そこで生き方を変えなければならないのだが、その精神の安定を保つためには知恵がいる。その源を得るのが読書であり、正常なる日々の感情のコントロールを保っていることが出来るのが…人間の心を感じる言葉…なのだろう。

   そんな心の不安定感をすこしでもすくなくしようと、日々の生活の糧になるのが、心を満足させる言葉なのです。多くの文芸言葉の中で、最も身近で関わりやすい言葉が俳句言葉なのです。何故かと言えば一番短い言葉であるから。それには、…人間の心を感じる言葉…が表示されているから。嬉しいことも悲しいこも寂しいことも、人間ならでの感情表現である。その感情を細かく克明に、より具体的に目視表現可能なのが短詩形であり、単的に集約されて理解しやすいのが俳句なのです。難しく考えないで欲しい。より具体的に克明に事実を感覚で受け取ればいい。

    感覚で受け取るとは、終戦直後の句ほど具体的に克明に事実を目視で感じとることが出来ている句はないのではないかと思った。それは人間の心を感じる句でもあった。その句とは昭和20年時代の俳句である。終戦と言うとてつもない心の暗い時代である。人々の心が複雑に交叉し、それぞれに心が壊れている時代です。そのような中から、本来の人間の在り方を見つめ直そうと立ち上がる運動が起こる。

      カチカチと義足の歩幅八・一五   秋元不死男

    総合誌「俳壇」(平成17年8月号)特集…時代をとらえた俳句表現より。「八・一五」とは終戦日のこと。「カチカチと義足の歩幅」とは戦傷者のこと。これほど克明に情景のはっきりと理解出来る表現の句に巡り合えるのも珍しいのではなかろうか。ただ事実をありのままに受け取り、受けとった感覚を心のままに表現すると言う…人間の心を感じる言葉…が生まれている。ここには作者の独自の作り言葉はない。目視に臨み心を素直にして事実のみを表示することに徹したからではなかろうかとも。

    同じく昭和の句も、昭和後期に入ると、目視の心はより深く象徴的に物事を静かに鎮静させて、読者の想像を期待しているかの表現に変革する。

      物音は一個にひとつ秋はじめ    藤田湘子

 句集「一個」昭和59年より。「秋はじめ」の素直な心の在りようをそのまま俳句言葉にしているのであるが、ここには偽りのない寂しさが私には迫るように心を動かせて強く響いてくるのである。その具体的事実は「物音は一個にひとつ」の言葉より理解出来た。作者は「物音」に耳を傾けて聞いているのだが、ここにも作者の真剣な心の動作の本物感がある。それは俳句言葉「一個にひとつ」なのである。つまり一個一個の動くときに発生する音を克明に心で記述しているのであろう。これから到来する秋の一抹の寂しさを物音より感じ受け取っているのです。この表現に…人間の心を感じる言葉…が強く存在。その俳句言葉が「物音は一個」なのです。具体的に物事を目視することにより…人間の心を感じる言葉…は表示されるのです。ここには作者の作為はない。真実の強い存在感そのもの。この句を読者は素直に受け取り、心が綺麗になってゆく句心の一句であるようにも私は受けとっていた。

    この象徴的表現の具体性は作者の内心と結びつき、もっと心の奥へ…人間の心を感じる言葉…を示すことにもなる。 

     晩年の全景ならむ裸の木    倉橋羊村

 句集『有時』(平成13年)より。この句には作者の歴史ともいえる時間の存在感の心を感じる言葉として強く表示されている。その俳句言葉は「晩年の全景ならむ」。ここには作者のこれまで生きてきた時間の懸命な一途な心の有様が克明に刻み込まれているようにも私には感じられた。その俳句言葉が「晩年の全景」であるのだろう。また同時に私が思うのには現実の在りのままの「晩年の全景」なのではないか、ふとそんな気持ちがする。「晩年の全景」は…人間の心を感じる言葉…でもあるのではないか。この句の目視は「裸の木」なのだが、ここに作者自身の人生を見つけてしまったのだろう。読者は句の中に人間の匂いを感じなければ、心への受けとりは出来ないものである。作者は表面には表示されてはいないけれど、もう一人の作者自身を見てしまっのだろう。この句は…人間の心を感じる言葉…が中心にクローズアップされた俳句言葉になっているようにも私は思った。 

    俳句表現を充分に充たすには何が必要なのかが、終日私の思考から離れない日々が続いていた。いろんなことがとめどなくて止めようがないほど浮かんでは消えてゆく。全く纏まらないのだ。その多くの思考の中で、やはり、より具象性を必要とするのが俳句なのだろうとの考えが私の脳中に残った。それはより単純な具象性のものがベストなのでは、と一応の結論を得た。何故かと言えば人の心を感じる言葉は具象性がなければ出せないようにも私は思った。それは細かい具象の部分がきめ細かく表示された俳句言葉を読者は望むからです。こころ表現の心理は細かい言葉の表示がなければ理解されにくいことによるものであろう。

   東京に信濃町あり春一番    飛永百合子

  俳誌「歯車」339号より。この句は第5回東京多摩地区現代俳句協会賞受賞作品の中の一句である。何よりも私の気持ちを惹きつけた受賞時の作者の言葉がある。

    …仏像を作る人を仏師といいますが、「仏様はすでに木の中にいらっしゃる、ちよっとお手伝いをしてそこからお出ましいただくのが仕事」と聞いたことがあります。自分の目指す俳句ももう未来に出来ているのでしょうか。

 この作者自身の言葉の中にも人間を感じる言葉が溢れています。俳句は作る依然の心構えが大切。そこで俳句言葉としての「東京」は概念としての、或いは地名としての東京」ではないように私は思いました。この作者にとっては「東京」は単なる地名ではなくて、日々生活の場所であり作者自身の心のなかの場所なのです。常に故郷の生地が籠り続けていて、いまもその気持ちは消えてはいないのでしょう。心を表現するには、よりきめの細かい具象性が見える表現であること。この句ではその俳句言葉が「信濃町あり」なのです。「信濃町あり」は作者の心を感じる言葉になっているのが私には理解出来ました。「信濃町」は都心の中に在りながらも、緑豊かな犯罪のない地域です。「信濃町あり」は…人間の心を感じる言葉…なのです。寒い季節から春への移り変わりを感じる「春一番」が町中の緑を揺らせて心を豊かにする時間の中に作者が放心している姿が私の目の中にありました。

    多くの人間は普段の生活においては感情を表には出しません。だがその内心に籠もる感情を俳句言葉として表示することは出来ます。それが日々の癒しになってその日を過ごせるのです。戦後の俳人たちは己との闘いに向かい日々を勝ち抜いてきました。その支えとなっていたのが…人間の心を感じる言葉…だった。私は今その検証に及びとんでもない大変な一句に遭遇してしまいました。それは目視における具象性の必要性でした。

      落日の獣身を寄せ嘆き会ふ    三谷 昭

「現代俳句データベース」より。この句のポイントは作者の心の中にある戦後まもない頃の庶民の嘆きのようにも思え、私の目には涙がありました。この切羽詰まった個々の悲しみをまともに受けとっていました。その俳句言葉とは「獣身を寄せ嘆き会ふ」。なんと言う作者の苦しみでしょうか。戦後二年を経た時期のこの句、これほどまでに…人間の心を感じる言葉…を発せなければならない世相を、当時の俳人達はどのように受けとっていたのでしょうか。この句を印象づけている起因はと考えたとき、やはり俳句言葉の中に目視に際しての事物の具象化が強く表示されていることでした。その俳句表現が「獣身を寄せ嘆き会ふ」と言う言葉を生むことになったのだろうと私は思いました。それにはしっかりとした目視ができていなければその具象性は得られないのでしょう。その根拠は偽りではない事実を目視のなかで確認していることでした。

    数多くの俳人は一体何のために俳句を作っているのでしょうか。作者自身、自分を示し、世に名前を知らしめることなのでしょうか。いま検証を試みるに及び、世にデビューしている俳人を見ると、誰もその句がヒットするとは思っていなかったことでした。その句を良しと認めるのは読者でした。そのそれぞれの一句一句は読者の心で受けとめられた句ばかりでした。そして私の検証で見えてきたのはその一句には…人間の心を感じる言葉…でした。一句の象徴とも言える俳句言葉の裏側には、或いはその底には人間の匂いが籠り得た感情が深く強く含まれていることでした。

 

思考の方向が純粋……そのため自死した俳人赤尾兜子を思う

     春や春坂の上には精神科  庸晃(2007年4月14日記述)

 神戸電鉄大村駅兵庫県三木市大村…ここは妻の生まれ故郷である。金物の町として全国でもそのことの程は知られている町でもある。まだその田舎らしさをすこし残しているここへ夫婦で墓参に帰った。駅は無人である。切符は運転手が受け取る。駅の周りには櫻が咲き誇り静かな中にもまだ汚れきっていないその純白に私は酔った。駅より墓地への道には春の草花が春風に揺れては私たちを迎えてくれるのだ。何年かぶりの夫婦ふたりでの墓参である。墓石の並ぶ周りには土筆がゆったりと立ちその存在のほどを主張。私たちはしばらく見とれていた。花を墓石に飾り合掌すると鶯が鳴いた。…嗚呼と私は声を出した。だがその方向へ目を向けたときだった。春の日差しの真っ只中に坂がありその登りきったところに白い建物がある。日差しの中で日向ぼっこをしている数人の人が見える。誰もだんまり俯いているのだ。そこは精神病棟だった。一瞬の間に鶯の谷渡りは脳裏から消えていた。自死した俳人赤尾兜子…を思っていたからであった。

   大雷雨鬱王と会うあさの夢    赤尾兜子(昭和49年)

俳誌「渦」誌上でこの句を知ったとき私は兜子が鬱病になっているとは思ってもみなかった。日常の行動においても話の様子にもそんな仕草や姿は思えなかった。必死で俳句と取り組み闘っている姿の兜子しか見えてこなかった。当時、西川徹郎や坪内稔典や私たち青年に第三イメージ論を説き聞かせることに必死だっただけに私には鬱に悩まされているなどとは思えなかった。この句のもつ幻想的イメージは決して暗いものではないと思う。困難に向かって立ち向かう姿勢には計り知れないエネルギーか感じられる。これこそ第三イメージのもつ基本的教唆であると思われる。兜子はソシュールの「言語論」を借りた言葉を度々口にしていた。「ことばは語られるが対者に訴え、指示する力がなくなってしまった」と兜子は語る。ことばの復権である。ことばは二つの意味をもつ、つまり表示されるものと表示するもの。表示するものはより具体的な概念であり、表示されるものは隠されたもの(非物質)である。この二つの意味を背負った一つの言葉こそ詩のことばと規程してみせたのだ。精神の在り処としての兜子自身の存在感をエネルギーに変えて語りかける詩型はその姿の証を鬱王にしてしまった。人によってその方法を俳人は作ってきた。自然と現実の沢木欣一、石原八束の素朴な実在感、超自然⇔超現実の高柳重信。日常的現実をいろんな方法、態度を用いて人々は作ってきた。だがこの日常に退屈させないエネルギーを与え、句そのものを語らせることばとしてのエネルギーは兜子ほど感じさせてくれる俳人はいないだろう。「鬱王」の句は兜子自身自死した今尚私にはそのことの意味が脳裏にこびりつきはなれない。

短詩系……特に俳句が若者に流行してきたのには理由があった

      青年男女は日々の苦悩を語り始めた表現……俳句は

             児 島 庸 晃

この文章は昭和63年「青玄」412号3月号に掲載されたものを採録しました)        

 カワチポテト族ということばを聞いたのは昭和62年11月ごろであったか。ニューヨークの若者たちの現在のあり方をしめすことばだそうだが、なんとなく気力をなくした若者の出現になんともやるせない気持ちであった。カワチとはよこに長く寝そべって、と言う意味で、ポテトを食べながらダベッたり、テレビを見たりして思い思いの時間を過ごすことだそうである。ぼくはいまの若者たちの意欲喪出の裏にある社会のあり方までが見えてきてなんとも妙な気がする。かって1960年代にはビートゼレネーションが流行し、一時代を作った若者たちの行動は完全に姿を消して、そのころ活躍した詩人の姿すらない。ましてや日本の若者たちは短詩形への、特に俳句への興味すらも薄れて、その熱気さえもないのだ。

 だが、その一方で「サラダ記念日」が二百万部を突破し、「有夫恋」という川柳句集が数万部も売れ、「檸檬の町で」の俳句集が二万部も売れるという現象をどう考えればよいのかとまどってしまう。特に「檸檬の町で」の売れ行き現象はぼくの近くでも起っているのだ。アイビー書房という近くの本屋さんに五冊置かれていたものが一週もしないうちに売れきれてしまっているのにはびっくりするばかりである。考えれば考えるほど短詩形文学者たちのだらしなさを思う。現代の感覚を必要としながら、現代語での、あるいは現代との関わりの上での作家活動をしようとはしなかったこと。現代語でものを書いていなかったこと。若者たちの間にある短詩形軽視の動きを見るとき短詩形を現代人の眼でとらえていなかったこと、また現代語で語っていなかったことの責任のようなものを感じてしまうばかりだ。

 俳句誌「青玄」はいまふたたびの躍動期を迎えようとしている。1960年代からのビートの流れは、その伝統を踏まえつつよみがえろうとしている。「檸檬の町で」の松本恭子を見よ、新人賞受賞者の佐々木望月門(てると)を見ろ、また高知支部・南国支部の若者たちよ。この若者たちは必死になって現代を語ろうとしているのだ。しかしこの若者たちの出現までには長い文体改革に生命を賭けた伊丹三樹彦の姿があることをぼくたちは忘れてはなるまい。この事実こそ俳壇史に残るに値する仕事であった。

 ・既成俳壇への改革は必要であった

 俳句の伝統を正しく継承してゆくためにはいかにあるべきかを考えつづけた日々。その結果が現代語導入であり、季を超えることであった。このような伊丹三樹彦の考えに最初から誰もうなずこうとはしなかった。あまりにも現代的な考えが強烈であったからだ。そんな日々のなかで伊丹三樹彦は自らの考えを作品に、また前記にと盛り込んでゆく。すさまじいまでのエネルギーであふれた語気に、ぼくなどはうつむいたままであった。一時間も二時間も、ただじっと立って聞いている日々でもあった。

  青玄前記 48

  現代語を

   働かすのは

  俳句の詩形を

   今日的に

  愛すれば こそ

俳誌「青玄」201号に発表されたことばはまさに考えあぐねた末の結論であつたのだ。当時散文的な表現に俳壇からはかなりの手きびしい批判を受けていた。…このときこの前記のことばをもって俳壇に回答をだしたのである。もっともこれ以前、199号には前記として…俳句は日本の土着詩である、と考えを発表してはいたが、既成俳壇の人からすれば、異次元のことのように思われていたのかも知れなかった。詩形を変えられてゆくことの恐ろしさをもっともきらったのは、これらの既成俳壇であったのだ。しかし理解者もいる。「歯車」の鈴木石夫や「営」の門馬弘史は多くの文章を残している。ことに門馬の文章は多くの人に感動を与えた。門馬の文章とは「子規から三樹彦まで」というタイトルでもっとも現代に即した作家としての論文を、伝統をふまえた上で書いているものであった。昭和42年10月1日、名古屋で開かれた全国口語俳句大会の事務局長でもあった門馬は当時の青玄201号に次のように書いている。

 「伊丹三樹彦研究」を編纂されている最中、津根元潮の事務所で、その資料の山を見ておもわずうなってしまいました。そしてその資料のごく一部しか「伊丹三樹彦研究」には搭載できないと聞き今更ながら青玄の人たちが伊丹三樹彦に傾斜している心の量と重みを感じ、私の粗雑な文章をのせるために、幾つかの貴重な資料が省かれたのではないかと、うしろめたいような、気おくれのようなものが胸につかえて仕方ありませんでした。

この文章こそ熱意と信頼を再現するに充分なことなのだ。俳壇から異端視されていても、当時、青玄クラブの若者たちにとってはかえって刺激剤ともなってゆく。それは俳壇に対しての腹立たしい思いにかられる日々であった。いやそればかりではなく「俳句」や「俳句研究」の総合誌などへの抗議文まで書く者が現われ、やがては中年層との間の摩擦までひきおこすことにもなった。守田椰子夫氏が僕の青玄評論賞受賞に際して書いた青玄408号の「批判的な目で見ている世代論」というのはこのへんのことではないかとも察するのだが…。

 しかし俳句結社「青玄」の会員は増えてゆき、伊丹三樹彦もますます自信と確信を得ていったのである。やがては昭和43年度の尼崎市民芸術賞を受けることになる。そして氷見の子供たちの俳句がNHKから全国放送されることになり、総合誌では「俳句研究」が伊丹三樹彦特集号を編むことになってゆくのである。

・俳句は…こうでなければならない、という固定観念などない筈である

 そのむかし小田切秀雄は俳句実作者と俳壇外の人との関係について述べ、俳壇の興味がうすれてゆくことについての理由らしきものを次のように書いている。

 自由律の俳句あたりまでは喜んで読んでいたけれどもその後の俳句には興味がなくなって、俳句に対する関心がほとんど薄れていたときに犀星がそんなにほめているのならというので、 草城を読んだ。

実作者以外の人間にも興味をもたせた事実である。小田切秀雄のいうところの完成さた作品として発表されたものが、読者の前に出されるとき、単に俳句実作者のみにしか読まれていないというような状態、その良さが実作者たち意外には理解されないということ。実作者だけが読者であるという考え方。これは現代語感覚の重要さを認識、把握していなっかったゆえの現象である。全くおかしいのである。ぼくたちは俳句の価値感を改めて問うてみなければならいのだ。

・ワカチガキの発生

 昭和34年ごろ当時、リズムと意味上の切れ目がはっきりしない句が俳壇ではかなりたくさんの数をもって現われはじめていた。青玄でも例外ではなく句会の席上で解釈の違いをめぐって、一句だけでも一時間を越えるような議論がなされ、全くどうしていいのか解決をみないことがつづいた。発行所句会での席上で河谷章夫の句をめぐっての論争から端を発した議論はついにこの一句だけの句会となってしまった。その結論としての伊丹三樹彦の発言がワカチガキの誕生のきっかけとなったのである。昭和34年9月の青玄118号の後記に次のように書いた。

  現代の俳句は、現代の読者を対象としなくては発表の意義も価値もない。ならばその表現媒体としての現代語を自覚し、かつ導入することこそ緊急の課題である。そう信じて現代語俳句の実践に踏切り、かな使いもまた新かなを採用するに至った。私とて、永年文語表現の俳句に親しんだ者である。この切り替えに相当な決心を要したが、やってみると現代語表現のものには予期した程の困難は覚えなった。現実に日常生活の場で生きている言葉を基とする強味であろうか。ただ<や・かな>といった代表的切字との決別もあり名詞を切字に用いる場合が多くなった。ために先号の<摩滅した空(・)抽斗(・・)に夕焼溜め 章夫>のような句で傍点箇所を<空>と読むか<空抽斗>と読むか、で苦しみもする。作者は<空>の意であった。それなら<空>と<抽斗>の間を一字空ければいいではないか。元来俳句の組み方には鉄則などのない筈だから読者への伝達を正確にするための一行書式に縦の分かち書きを施せばいい…という次第だ。

現代語を導入することによる表現形式の矛盾は当時の俳壇の中での必要課題であった。この章夫の句というのは作者の意図とは違うところで選をされ、高点句になってしまった。ところが作者にとっては不満なのである。当時、河谷章夫は新人グループの指導的役割りをもっていた。佐々木砂登志や石川日出子、それに樋口喜代子といったメンバーの先導者でもあった。この河谷と三樹彦との意味のやりとりからワカチガキは生まれたのである。ここでいうところの意味としての切れ目は<摩滅した空>であり、リズム上の切れ目としての<空抽斗>とは、あきらかに異なるのである。どの俳壇の結社も、積極的にリズムと意味の問題を検討しはじめてはいたが、ワカチガキという勇気ある決断はしなかった。それはある意味においては大方の俳人は長く続いてきた伝統をこわすものだという考えが強かったのではないかと思う。しかし時代の変遷とともに人間の生活様式が変わってきたときに、短詩形文学の意義も変わってくるのは当然のことなのだ。このワカチガキの登場は俳壇にとっては刺激的なことだった。口の悪い俳人からは穴ぼこ俳句ともいわれた。また形式をメチャメチャにするものだともいわれた。でも賛同者からは革命的なことだとも賛美された。いろんないわれ方があるにしろ、ぼくは思うのだ…いまもつづいているという現実と、つづけてきたという実績はまぎれもなく必要性の証なのである。そのことの意義を問うてゆくとき、ワカチガキでなければできない表現方法が生まれてきたという確証である。オノマトペ、リフレイン、間投詞、話しことば、モノローグ、語尾に強調語といった新しい形式の表現は、従来の方法からは使い切るに充分なものを兼ねそなえていたとはいえなかった。この事実を考え、革命的方法論ではなかったと思うのである。

 ワカチガキは、人それぞれに使い方は異なり区別することのできるものではないにしろ、仮に区別することして考え、大きくふたつの使われ方がなされているようである。ひとつは句読点的使用であり、もうひとつが切字的使用である。それにしても現代語の導入は、俳句の文体まで変えてしまう画期的なことだったのである。いやむしろ画期的なことばかりではなく、実作者以外の人たちにまでその良さを理解してもらう、受け入れてもらう、あるいは広められてゆくことの価値をもっていたのだ。俵万智が一般の読者層に読まれ、また松本恭子が俳句とは無縁の人たちにまで愛読され、週刊読売の投稿者欄の選者として迎えられるなど、現代語感覚による短詩形、そのひとつでもある俳句、なかんずく俳句現代派の価値はますます高くなってゆくようである。    

 

「虚」を「真実」へと誘引して現実感を表現するとは……

     俳句が全く面白くない……生きていることの実感がないと言う人に

               児 島 庸 晃          

 何処の句会に出ても一様に聞く言葉がある。最近の俳句作品を見ていても面白くないという。そしてどの句を見ていてもどれも同じに見えてくるというのだ。何故なんだろうと思う。句会では作者名をわからないようにして出句も選句もしている筈なのだが…。それでも同じ作者なのかとも思うことがあるそうである。結社誌であれば主義主張が似てくることはあり得るが、同人誌や仲間誌の中でもそのように思えることがあるのだと。最早これは没個性の俳句になってゆくのではないかと、危惧されるのだが。

 では、この現象は何に起因しているのかと私は戸惑ってしまう。ずーっと以前からの私の考え事のひとつであった。最近になってその要因がすこしばかり解ってきた。どう考えてみてもそこには、芭蕉の教えの中にあるように思えるのだ。いろいろ探っていた或る日、私なりに理解できる言葉を知ることが出来た。次の森澄雄さんの言葉である。ここには句を作る私たちへの啓蒙にも思える言葉である。

 俳人は神仏を信じなくてもいいが、「虚」を信じなければ駄目だ。でないと巨きな世界が詠めない。今の俳人は最も大事な「虚」が詠めなくなった。

「虚にゐて実を行ふべし」の名言を芭蕉は残したが、詩の真実としては、「実」よりも「虚」のほうが巨きい。

 芭蕉の多くの句は、空想句つまり「虚」である。子規、虚子の言う写実ではない。しかし、虚でありながら実以上の「詩の真実」を見出したのだ。

 この言葉は澄雄さんが角川春樹さんに語った言葉である。森澄雄さんが語った内容は『詩の真実 俳句実作作法』(角川選書)という対談の中でのもの。一九八七年に出版された対談形式の中での言葉であった。果たしてこの発言を素直に受け止めなければならいほど写実がオンリーワンになっていたのであろうか。もっともこの写実至上主義であったのは昭和六十年代であったが、この言葉が当時話題をなした俳句界ではあった。

 そう言えば私にとってどうしても忘れられない森澄雄さんの句があった。いまも鮮明に脳中に残っている。

   炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島   森澄雄

私がこの作品を見た時の印象は映画を観て感動して暫く動けなかった時の状況と一緒だった。映像が鮮明であるというよりも、一瞬の幻想の世界へ迷い込んでいるのかと思うほど、現実ではあるが、そのことが目の前で起こっているとは思えないほどの一瞬の幻を見ているような臨場感に引き込まれていた。つまり、一瞬の「虚」であったのだ。私は澄雄さんの仕掛けた「虚」に引き込まれていたのである。この句が従来からの写実で作られていたら吃驚はしない。何が新鮮で面白いのか。写実表現であれば「炎天来て…」「炎天や…」と上五音表現になる。「炎天より…」とはしないのだ。作者自身が日常から非日常へと変革した心を映した目になっていることがわかる。つまり、澄雄さんの言うところの…虚でありながら実以上の「詩の真実」を見出していたのである。これはまさしく芭蕉の俳句世界である。

 芭蕉にはあの有名な句がある。芭蕉の「閑さや岩にしみいる蝉の声」も現実には蝉の声が岩にしみいるわけがないのだ。こうであったらいいがという空想の世界で本当は「虚」の世界。虚景である。だが普通私たちは現実の世界と思って受け入れているのだと思う。

 この森澄雄さんのこの幻想句も虚景の句である。でも私たちは虚景とは思わないで幻の原風景に引き込まれてゆくのだ。写実では得られない心の風景であった。 

 ところで私には、「虚」を「真実」へと誘引して、私を空想の世界へと遊ばせていただいた二人の俳人がいる。

   少年のたてがみそよぐ銀河の橇   寺山修司

寺山さんは多彩な方で俳人というよりも短歌人としての名声が一般には流布されている。また演劇人としても著名な方。だが、私が一番影響を受けたのは俳人としての「氷海」に投句されていて秋元不死男選を受けていた頃である。まだ高校生から大学生へと進み変身を遂げている頃。従来からの句からでは得られない感動をもらっていたのだ。どのように発想を工夫しても、当時の俳壇は日常の次元からのもので日々の生活の延長のように思える句が多かったものである。どの句を見ていても退屈してばかりであったのだ。このころ句へ向かってゆくときの不満を充分に満たしてくれていたのが寺山修司さんだった。その句、「少年の…」のここに表現されている句には空想が籠められている。目に映った光景を見たままには表現しなかったのだ。すなわち写実ではなかった。視線の先には、こうでありたいと言う理想を持って現実を見ていて、ここには日常より非日常へと空想が籠められているのである。これは本当は嘘の事。つまり「虚」である。しかし「「虚にゐて実を行ふべし」の名言の芭蕉の思考を試みていたことになるのだろう。当時の私はそれが「虚」の中にいて日常から非日常の世界へと誘引されているものだとは思ってもいなかった。けっして「虚」だと思ってこの「少年の…」句を受け入れてはいなかったのだ。只今の現実の光景として受け取っていた。いま、森澄雄さんの…詩の真実としては「実」よりも「虚」のほうが巨きい…という真実感が、俳句を何倍にも面白くしているのではないかと思える昨今である。「虚」は真実を引き出す魔法のような現象や現実を呼び起こすのかもしれない。

 もう一人の酒井弘司さんは、私が「歯車」復刊2号に入会して最初に感動を受けた人でした。昭和32年のことである。そのころの「歯車」は12ページほどの筆耕によるガリ版刷りの印刷であった。鈴木石夫先生の熱心な鑑賞と指導文がいまでも目に浮かぶ。その石夫先生の指導を受けていたのが弘司さんであった。後に「海程」創刊に同人参加、編集人となるのだが、現在は「朱夏」の主宰者である。私が最初に受けた印象は俳人というよりも詩人としてのイメージが強かった。昭和37年句集「蝶の森」を上梓。私はこの句集で改めて写実オンリーでない俳句の魅力に魅かれてゆくのだが、ここには芭蕉の言う「虚」の世界があることに思いを馳せるのである。

   秋の蝶星に雫をもらいけり   酒井弘司

ここには空想の面白さがたっぷりとある。現実であっても現実だけの光景ではない。何故人の興味を引くのか。どのように面白いのか。この句の光景は現実にはありえないことである。虚景である。「星に雫をもらいけり」などはありえないのだ。だのに何故興味が湧いてくるのか。ここには空想があるからだ。酒井弘司さん独特の、酒井弘司さんでなければならない想いがこめられている。その空想は現実の世界に生活する人々を退屈させたりはしない。楽しませて愉快に心を温かく豊かに励まして非日常の世界へと誘うことだったのかもしれない。非日常を描き、現実を忘れさせる夢の空想に遊ぶ時間を作ることなど写実オンリー表現では大変なことではなかろうかとも思う。「虚」を表現することにより現実が浮かび上がることなど、私の思考のなかにはなかったのだ。この「秋の蝶…」の句は現実より「虚」を引き出し、虚景のなかにおける私の思いを発見することだったのであろう。このことが句を面白くさせて興味を起こさせる酒井弘司さんの個性でもあったのだろうと思う。

 さて、虚景を表現するとはいったい何を如何に表現すのだろうと思うのだが、それは眼前の現実の光景を引き出すものでなければならない。この「虚」を表現することは現実の本物の光景よりもより多く強くイメージを広げることが出来なければならない。イメージの範囲の限界をより広げる方が臨場感や緊張感をより強くできるのである。

 俳句を面白くし想像の幅を広げるためには、写実オンリーに拘っていたのでは限界があるように思う。虚景は表現出来ないからだ。虚景の中にこそ空想や想像を籠めることが出来る。虚景の中には自由にイメージ出来る映像を作ることが出来る。現実にはないものを理想の、或いは空想の映像へと転換して表現出来ることを、私は実例を提示してみなさんに示したのである。真実の心を持って現実の生活へ目を向けていれば、虚景は嘘の現実にはならないのだ。否、寧ろそれらはより強い真心となって緊張感や臨場感を生むことになるのではないか。虚景は嘘を描くことではない。それは理想化された現実の実景を生むことである。虚と真実の境界線が本来の俳句を面白くする原点であるのかもしれない。また本物の心を伝えることなのかもしれない。