短詩系……特に俳句が若者に流行してきたのには理由があった

      青年男女は日々の苦悩を語り始めた表現……俳句は

             児 島 庸 晃

この文章は昭和63年「青玄」412号3月号に掲載されたものを採録しました)        

 カワチポテト族ということばを聞いたのは昭和62年11月ごろであったか。ニューヨークの若者たちの現在のあり方をしめすことばだそうだが、なんとなく気力をなくした若者の出現になんともやるせない気持ちであった。カワチとはよこに長く寝そべって、と言う意味で、ポテトを食べながらダベッたり、テレビを見たりして思い思いの時間を過ごすことだそうである。ぼくはいまの若者たちの意欲喪出の裏にある社会のあり方までが見えてきてなんとも妙な気がする。かって1960年代にはビートゼレネーションが流行し、一時代を作った若者たちの行動は完全に姿を消して、そのころ活躍した詩人の姿すらない。ましてや日本の若者たちは短詩形への、特に俳句への興味すらも薄れて、その熱気さえもないのだ。

 だが、その一方で「サラダ記念日」が二百万部を突破し、「有夫恋」という川柳句集が数万部も売れ、「檸檬の町で」の俳句集が二万部も売れるという現象をどう考えればよいのかとまどってしまう。特に「檸檬の町で」の売れ行き現象はぼくの近くでも起っているのだ。アイビー書房という近くの本屋さんに五冊置かれていたものが一週もしないうちに売れきれてしまっているのにはびっくりするばかりである。考えれば考えるほど短詩形文学者たちのだらしなさを思う。現代の感覚を必要としながら、現代語での、あるいは現代との関わりの上での作家活動をしようとはしなかったこと。現代語でものを書いていなかったこと。若者たちの間にある短詩形軽視の動きを見るとき短詩形を現代人の眼でとらえていなかったこと、また現代語で語っていなかったことの責任のようなものを感じてしまうばかりだ。

 俳句誌「青玄」はいまふたたびの躍動期を迎えようとしている。1960年代からのビートの流れは、その伝統を踏まえつつよみがえろうとしている。「檸檬の町で」の松本恭子を見よ、新人賞受賞者の佐々木望月門(てると)を見ろ、また高知支部・南国支部の若者たちよ。この若者たちは必死になって現代を語ろうとしているのだ。しかしこの若者たちの出現までには長い文体改革に生命を賭けた伊丹三樹彦の姿があることをぼくたちは忘れてはなるまい。この事実こそ俳壇史に残るに値する仕事であった。

 ・既成俳壇への改革は必要であった

 俳句の伝統を正しく継承してゆくためにはいかにあるべきかを考えつづけた日々。その結果が現代語導入であり、季を超えることであった。このような伊丹三樹彦の考えに最初から誰もうなずこうとはしなかった。あまりにも現代的な考えが強烈であったからだ。そんな日々のなかで伊丹三樹彦は自らの考えを作品に、また前記にと盛り込んでゆく。すさまじいまでのエネルギーであふれた語気に、ぼくなどはうつむいたままであった。一時間も二時間も、ただじっと立って聞いている日々でもあった。

  青玄前記 48

  現代語を

   働かすのは

  俳句の詩形を

   今日的に

  愛すれば こそ

俳誌「青玄」201号に発表されたことばはまさに考えあぐねた末の結論であつたのだ。当時散文的な表現に俳壇からはかなりの手きびしい批判を受けていた。…このときこの前記のことばをもって俳壇に回答をだしたのである。もっともこれ以前、199号には前記として…俳句は日本の土着詩である、と考えを発表してはいたが、既成俳壇の人からすれば、異次元のことのように思われていたのかも知れなかった。詩形を変えられてゆくことの恐ろしさをもっともきらったのは、これらの既成俳壇であったのだ。しかし理解者もいる。「歯車」の鈴木石夫や「営」の門馬弘史は多くの文章を残している。ことに門馬の文章は多くの人に感動を与えた。門馬の文章とは「子規から三樹彦まで」というタイトルでもっとも現代に即した作家としての論文を、伝統をふまえた上で書いているものであった。昭和42年10月1日、名古屋で開かれた全国口語俳句大会の事務局長でもあった門馬は当時の青玄201号に次のように書いている。

 「伊丹三樹彦研究」を編纂されている最中、津根元潮の事務所で、その資料の山を見ておもわずうなってしまいました。そしてその資料のごく一部しか「伊丹三樹彦研究」には搭載できないと聞き今更ながら青玄の人たちが伊丹三樹彦に傾斜している心の量と重みを感じ、私の粗雑な文章をのせるために、幾つかの貴重な資料が省かれたのではないかと、うしろめたいような、気おくれのようなものが胸につかえて仕方ありませんでした。

この文章こそ熱意と信頼を再現するに充分なことなのだ。俳壇から異端視されていても、当時、青玄クラブの若者たちにとってはかえって刺激剤ともなってゆく。それは俳壇に対しての腹立たしい思いにかられる日々であった。いやそればかりではなく「俳句」や「俳句研究」の総合誌などへの抗議文まで書く者が現われ、やがては中年層との間の摩擦までひきおこすことにもなった。守田椰子夫氏が僕の青玄評論賞受賞に際して書いた青玄408号の「批判的な目で見ている世代論」というのはこのへんのことではないかとも察するのだが…。

 しかし俳句結社「青玄」の会員は増えてゆき、伊丹三樹彦もますます自信と確信を得ていったのである。やがては昭和43年度の尼崎市民芸術賞を受けることになる。そして氷見の子供たちの俳句がNHKから全国放送されることになり、総合誌では「俳句研究」が伊丹三樹彦特集号を編むことになってゆくのである。

・俳句は…こうでなければならない、という固定観念などない筈である

 そのむかし小田切秀雄は俳句実作者と俳壇外の人との関係について述べ、俳壇の興味がうすれてゆくことについての理由らしきものを次のように書いている。

 自由律の俳句あたりまでは喜んで読んでいたけれどもその後の俳句には興味がなくなって、俳句に対する関心がほとんど薄れていたときに犀星がそんなにほめているのならというので、 草城を読んだ。

実作者以外の人間にも興味をもたせた事実である。小田切秀雄のいうところの完成さた作品として発表されたものが、読者の前に出されるとき、単に俳句実作者のみにしか読まれていないというような状態、その良さが実作者たち意外には理解されないということ。実作者だけが読者であるという考え方。これは現代語感覚の重要さを認識、把握していなっかったゆえの現象である。全くおかしいのである。ぼくたちは俳句の価値感を改めて問うてみなければならいのだ。

・ワカチガキの発生

 昭和34年ごろ当時、リズムと意味上の切れ目がはっきりしない句が俳壇ではかなりたくさんの数をもって現われはじめていた。青玄でも例外ではなく句会の席上で解釈の違いをめぐって、一句だけでも一時間を越えるような議論がなされ、全くどうしていいのか解決をみないことがつづいた。発行所句会での席上で河谷章夫の句をめぐっての論争から端を発した議論はついにこの一句だけの句会となってしまった。その結論としての伊丹三樹彦の発言がワカチガキの誕生のきっかけとなったのである。昭和34年9月の青玄118号の後記に次のように書いた。

  現代の俳句は、現代の読者を対象としなくては発表の意義も価値もない。ならばその表現媒体としての現代語を自覚し、かつ導入することこそ緊急の課題である。そう信じて現代語俳句の実践に踏切り、かな使いもまた新かなを採用するに至った。私とて、永年文語表現の俳句に親しんだ者である。この切り替えに相当な決心を要したが、やってみると現代語表現のものには予期した程の困難は覚えなった。現実に日常生活の場で生きている言葉を基とする強味であろうか。ただ<や・かな>といった代表的切字との決別もあり名詞を切字に用いる場合が多くなった。ために先号の<摩滅した空(・)抽斗(・・)に夕焼溜め 章夫>のような句で傍点箇所を<空>と読むか<空抽斗>と読むか、で苦しみもする。作者は<空>の意であった。それなら<空>と<抽斗>の間を一字空ければいいではないか。元来俳句の組み方には鉄則などのない筈だから読者への伝達を正確にするための一行書式に縦の分かち書きを施せばいい…という次第だ。

現代語を導入することによる表現形式の矛盾は当時の俳壇の中での必要課題であった。この章夫の句というのは作者の意図とは違うところで選をされ、高点句になってしまった。ところが作者にとっては不満なのである。当時、河谷章夫は新人グループの指導的役割りをもっていた。佐々木砂登志や石川日出子、それに樋口喜代子といったメンバーの先導者でもあった。この河谷と三樹彦との意味のやりとりからワカチガキは生まれたのである。ここでいうところの意味としての切れ目は<摩滅した空>であり、リズム上の切れ目としての<空抽斗>とは、あきらかに異なるのである。どの俳壇の結社も、積極的にリズムと意味の問題を検討しはじめてはいたが、ワカチガキという勇気ある決断はしなかった。それはある意味においては大方の俳人は長く続いてきた伝統をこわすものだという考えが強かったのではないかと思う。しかし時代の変遷とともに人間の生活様式が変わってきたときに、短詩形文学の意義も変わってくるのは当然のことなのだ。このワカチガキの登場は俳壇にとっては刺激的なことだった。口の悪い俳人からは穴ぼこ俳句ともいわれた。また形式をメチャメチャにするものだともいわれた。でも賛同者からは革命的なことだとも賛美された。いろんないわれ方があるにしろ、ぼくは思うのだ…いまもつづいているという現実と、つづけてきたという実績はまぎれもなく必要性の証なのである。そのことの意義を問うてゆくとき、ワカチガキでなければできない表現方法が生まれてきたという確証である。オノマトペ、リフレイン、間投詞、話しことば、モノローグ、語尾に強調語といった新しい形式の表現は、従来の方法からは使い切るに充分なものを兼ねそなえていたとはいえなかった。この事実を考え、革命的方法論ではなかったと思うのである。

 ワカチガキは、人それぞれに使い方は異なり区別することのできるものではないにしろ、仮に区別することして考え、大きくふたつの使われ方がなされているようである。ひとつは句読点的使用であり、もうひとつが切字的使用である。それにしても現代語の導入は、俳句の文体まで変えてしまう画期的なことだったのである。いやむしろ画期的なことばかりではなく、実作者以外の人たちにまでその良さを理解してもらう、受け入れてもらう、あるいは広められてゆくことの価値をもっていたのだ。俵万智が一般の読者層に読まれ、また松本恭子が俳句とは無縁の人たちにまで愛読され、週刊読売の投稿者欄の選者として迎えられるなど、現代語感覚による短詩形、そのひとつでもある俳句、なかんずく俳句現代派の価値はますます高くなってゆくようである。