感覚には理屈はない……人の心にも理屈はない

           昭和三五年当時の若者俳句の現実

                児 島 庸 晃

 俳句表現は理屈にならないこと…理屈で表現しない事である。感覚には理屈はない。人の心にも理屈はない。理屈は人間が考え出した勝手な思考。だから表現された言葉に好き嫌いが起こる。これは表現言葉が純粋でなければならない理由でもある。その純粋性の表現を趣旨として表現していた若者集団がいた。その若者集団を生み出すことに必死に専念し指導していた俳人がいた。伊丹三樹彦である。既成俳壇とは異なる思考を基本として日々研鑽していたのが俳句結社「青玄」であった。

 主宰者伊丹三樹彦は、その純粋性の俳句の基本を、当時の既成俳壇の中では当然とされていたその俳人の経歴重視の姿勢についての純粋な批判言葉を「青玄」129号に述べている。

…例えば俳人間では「A誌で三年間いました」とか、「B誌に五年関係しました」とか、よく修業年期のことがやりとりされる。成程、俳句もまた年期を必要とする文学だ。しかし、年期を言挙げするからには、その年期の内容についてもまた十分の責任を持ち得るものでなければならない。

 このような俳壇のなかでは、若者が活躍する環境ではなかったのである。このとき本来の俳句の純粋性を語り、若者に呼びかけたのが伊丹三樹彦であった。ここで「青玄」以外の俳壇はどうであったのかを考えてみる。ずーっと私の頭中にあったのだが、昭和三五年の俳句総合誌「俳句」六月号での小田切秀雄氏の発言が私の俳句制作の思考を引っ張ってきていたことを思い出した。「喪われたものは何か」と言う題で、「現代俳句は面白くないということ」から話し出されている。「俳句専門以外の人間と、俳句を作っている人では相当のギャップがある」と小田切秀雄氏は述べているのだ。続いて「一個独立の作品として、広く読者の前に出される筈のものが単に俳句を作る人にしか読まれないというふうな状態」とも強く指摘していたことを私の頭は記憶している。

 これと同じ指摘を伊丹三樹彦も述べている。

…俳句雑誌の最も大きな特徴といえば読者が作者をかねていることだろう。俳句を作らない読者も一方では存在しているが、全体からすればやはり読者即作者というケースが圧倒的に多い筈だ。こうした現象を捉えて、俳句を仲間だけにしか通用しない文学であるという風に決めつけた局外からの冷笑批評は第二芸術以後跡を絶たない。が、読者即作者という関係については否定面より肯定面を有している。(「青玄」129号より)                   

 この三樹彦の思考は純粋に俳句に関わる俳人としての趣旨であった。このような俳壇の固定観念に既成俳人は、誰も立ち上がれなかったのである。このとき、読者即作者の在りようを当然のこととして立ち上がった俳句集団があった。それが若者たちの俳句印象派集団である。その俳句結社が「青玄」であったのだ。私はこの「青玄」には一〇二号より関わっているが、この運動が起こり始めたのは昭和三五年当時からであったように思う。特に私が注目したのは「青玄」125号、昭和三五年五月号であった。ここには若い俳人が突如として登場してくる。この号は旦暮賞作品発表号と新里純男追悼特集号で二つの特集であった。旦暮賞一席は当時二六歳の青年上野敬一であった。また追悼号となった新里純男も二六歳である。確かに「青玄」内部でも既成俳壇の外部に対しての遠慮からか旦暮賞一席の上野敬一を阻止する動きがあった。日野草城時代からの古参の無鑑査同人たちであった。だが、その三樹彦の趣旨は若者には受け入れられたのである。もう一人の新人は新里純男であるが、二六歳で結核により病死。私はこの二人の青年俳人により、俳句に対する思考を深く見つめ直すようになっていた。それは読者即作者という三樹彦の考えが若者に浸透し強く理解されていたこの純粋性に惹かれて私の思考は進められていたように思う。

 その青年二人の俳人の作品が当時の若者に共鳴してゆくのだがその作品がどのような内容であったのかを思い出す。

      旦暮賞一席作品「旅の断片」  上野敬一

   傷バナナ香る夜の土間 血族混む 

   濃霧の底に 動けぬ 痩せた国旗の村

   赤く涸れて 日本の外へ 川泡立つ

   くねる道 殖える赤子に 崖から海

 これらの俳句は当時の批判的リアリズムを基本としたものである。旦暮賞は二〇句を纏めてのものだが、当時、映画の一シーンを見るようなドキュメンタリーだった。その感動は多くの若者に刺激となった。伊丹三樹彦は選考評を次のように述べている。

 …恐らく旦暮賞始まって以来、最大の収穫ではないかと思う位で、私は読後しばらくは名伏し難い興奮に襲われた。文字通り「文化果つるところ」の奄美大島が眼前に現出、すぐれたドキュメンタリー映画に匹敵する感動を覚えた。しかも一篇二〇句はそれぞれ独立したカットやシーンの積み重ねの上にたって尚、貫流する叙事詩的なムードを存分に発散させている。戦前、竹中郁がシネ・ポエムを試みていたが、これは正しく俳句版シネ・ポエの新しい成果といえる。

 また新里純男追悼四〇句は、俳句の基本を根本より革新させるものであった。

      絶唱 三句    新里純男

   街は桜の季節で行方不明の僕

   誤診ではなかった胸裡の薔薇さわぐ

   ねむい春日の触手肺から腐る僕 

     (追悼遺作抄四〇句より抜粋)

   弾丸呑んだ地で麦育て日本育て

   肺に積もった商戦の塵 場末灯る

   見えぬ傷に堪えて冬越す林檎と僕

   冬日は父性の温さで白い孤児の家

   苔咲いて僕を黙らす川の蒼さ

   昏い雨季の日本を棄てた赤風船

 この時の新里純男に寄せる青年の気持ちは私おも含めて計り知れないリリシズムの極致だった。その期待の大きさについて三樹彦は語っている。

…一人の若者の死が、こんなにまで私たちを悲しませるとは、正直なところ考えられない位だった。とにも角にも、弔電を急がなくてはならない。近くの郵便局へ駆けつけ、頼信紙を手にすると悼句が口をついて出来上がった。

   春日に放たれた風船 詩の友消え

の一句だった。新里純男が一年前、青玄初登場した折の句に、

   昏い雨季の日本を棄てた赤風船

がある。何という不思議な暗号だ。彼は彼の、余りにも短すぎた俳句人生を、この句に見る赤い風船の昇天さながらに終幕を引いてしまったのだ。私は新里純男の死んだ日を「風船忌」と名付けよう。

 これらは全て読者即作者という純粋思考により作られていたのである。その読者即作者という思考は、つまるところは私性としての文体の確立であったのであろうと思う。新里純男の言葉でも述べているところの…

「僕は句の中に自分が入らなかったり、みつめて居る自分がなくては僕の句として満足できない。一つの句を完全に自分のものにする迄推敲し、追求してゆく」

 この言葉は読者即作者の思考だったのだ。

 印象派とは19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動である。既成俳壇の頑固な古典的思考の即物的リアリズムに反発して起こった運動が読者即作者という印象派としての目覚めでもあった。これら一連の動きを、私は俳句印象派と呼びたいのである。

 ここには若者の俳句に対する印象を鮮明に表現することだった。その表現は光と影のツインである。このことはこのことよりずーと後になっての三樹彦の写俳の純粋表現主義へと受け継がれてゆくことになる。その大きなテーマは光と影のツインであった。