俳句言葉は作者自身の存在感を正面で受け止めた瞬間の純粋感である
児 島 庸 晃
普段の日常生活の慣らされた習慣の中で物事をよく見届けるのは、よほど心の中を純白していなけば見えてはこない。物事は心には飛び込んではこないもの。俳句の感情表現は心が無で白くなけれは、本心は表には出てきにくいもの。それらは直情表現になり、全ては説明言葉になる。俳人個々の信条は私言葉になり、真実感がない作り言葉になる。内心が無色透明だからこそ、すべてを目にする俳人の心に受け入れられるのである。俳句言葉は作者自身の存在感を正面で受け止めた瞬間の純粋感である。ここには感覚としての無色透明な気持ちを感じさせてもくれる。だが、疲れた心を真っ白の心へと変革する過程で心を磨き損ねると作者自身、自分自身を見失ってしまうこともある事を考えねばならない。自分自身が純白へと抜けきれないで命を絶った俳人もいることを私は思い出していた。俳人永井陽子である。世に知れ渡るのは歌人としてなのだが。1999年2月より40日間肺炎で入院しているが、2000年1月26日死去。文献によると自殺だった。彼女の文芸への出発点は高校生の頃俳誌「歯車」だった。
自らの影折りながら冬野行く 永井陽子
俳誌「歯車」94号より。俳句言葉「影折りながら」は発想の段階で相当傷ついている。普通人は「影折りながら」とは思いつかない。目視しているのは作者自身の地面に投影された身体なのだろうが、前進するのに「影折りながら」とは自虐の心をして見ているのだろうか。この心は無色ではない。従って無の心にはなっていないのである。この句を作った時、心は相当汚れていたのではなかろうか。自分を責めてはだめ。自分を追い込んではだめ。心を空っぽにしておかなければ俳句そのものが汚れてしまう。人々に共感を与えることはできないだろう。詩情としての俳句言葉にはならない。永井陽子は結果として純粋の心へと進む過程で、あまりにも純粋すぎていたのであろう。