2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧
あんな血色のジュース立ち飲む 米兵いる 児島庸晃 戦後の責任…それはひたすら働くこと。働くことによってのみ幸福になれると信じて生き抜くことが国民に課せられた義務でもあると思った時代。食べるものも着る物もない時代。村人は挙って畑を耕し山へ入り資…
作ってはつぶす 机上の小さな革命旗 児島庸晃 終戦、それも敗戦という昭和20年8月15日。その日から始まった過酷な日々との闘いは飢えとの戦いでもあった。終戦前の6月私達は別府港より宇和島港へ、宇和島港より疎開先へ向かうバスの始発駅へ。そこでの…
- 黎明に至るひかりの森の初夏 児島庸晃 JR神戸線より見え須磨浦公園は緑の森に変身しようとしていた。この公園は海からの風を受けて日々色を変えようとした時期があり、それより一年が過ぎようとしていたのだ。塩害のため葉っぱを枯らせ木々の寿命を全うさ…
自分自身を俳人として維持することの難しさ 児 島 庸 晃 俳句の純粋性が俳句を長く作り続けてゆくことに如何に大切であるかを思わせてくれる。…だが自分自身を俳人の心として保持してゆくことの難しさは、作者本人が一番よく知っている。大変なことことなの…
どうして俳句には「何故」が「何故」を生むのか 児 島 庸 晃 それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある。 上記の言葉は「青玄」主宰、伊丹三樹彦が私に語った言葉である。この言葉は私が社会へ飛び出した20代前期の頃である。現実社会の中で…
作者個々人の思考を俳句ではっきりと示すことであった 児 島 庸 晃 私の少年時代の俳句の師匠、伊丹三樹彦は、私達に俳句を作ることの意義や目的を、克明に示し続けた俳人だった。その目的とは俳句で私を語る私の思いを詩情で奏でる純粋性を多くの若者に示す…
神戸は坂の街である。元町より下山手通り中山手通り山本通りを斜めに横切るとこのあたりより坂の道に出る。更に先へと坂を上ると北野町に出る。洋風建築のテラスがまぶしく輝く。風見鶏のある館が目に届く。かって私はここへ何回も鬱を棄てに来た。 はるかぜ…
若者たちの根底には個々人の若者の生き方の主張があった 児 島 庸 晃 俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての俳句結社「青玄」青春俳句が…そうであった。…
俳句することの意義や意味はいったい何なんだろうと思う 児 島 庸 晃 毎日の生活のなかで他人の言葉に傷つき、社会から疎外された時、私たちはどうして自分自身を復旧回復させているのだろうか。ときどき思うことがある。私たちの青春はフォークソングに身を…
昭和40年前後の若者俳句 児 島 庸 晃 俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての俳句結社「青玄」青春俳句が…そうであった。 昭和43年4月28日。全国から若…
昭和40年前後の若者俳句 児 島 庸 晃 俳句には思想が込められていて、そこには個々人の生き方が存在する。若者はその生き方の良い部分を個人に引き付けて取り入れるもの。かっての俳句結社「青玄」青春俳句が…そうであった。 昭和43年4月28日。全国から若…
作った句はどの俳人もその句がヒットするとは思っていなかった 児 島 庸 晃 昭和の句も、昭和後期に入ると、目視の心はより深く象徴的に物事を静かに鎮静させて、読者の想像を期待しているかの表現に変革する。 物音は一個にひとつ秋はじめ 藤田湘子 句集「…
俳句作品を生むことの心境は心花の美しさ 児 島 庸 晃 これは実例であるが先日俳句仲間との会話のなかでのこと。長年俳句を作り続けていると、だんだん句が悪くなってきたような感じがするとの会話が話題になっていたのを、私はいま思い出していた。そのとき…