私の戦後とその頃の俳句②

      あんな血色のジュース立ち飲む 米兵いる  児島庸晃

 戦後の責任…それはひたすら働くこと。働くことによってのみ幸福になれると信じて生き抜くことが国民に課せられた義務でもあると思った時代。食べるものも着る物もない時代。村人は挙って畑を耕し山へ入り資材の大木を売ることに懸命であった。そんな敗戦の村にGIと呼ばれるアメリカ兵はやって来る。ジープに何人ものパンパンと呼称する女性を乗せ村中を走る。そしてガムを投げてみせる。「へーゆう」と言葉をはき棄てる。幼い私は無性に腹が立ち何回も睨み返していた。誇らしげにトマトジュースを飲むのだ。そのトマトジュースはやたらと血の色に見えていた。上記冒頭の句である。

 戦争に至る過程はいろいろあるにしても昭和5年ごろよりのプロレタりアートの作家たちはひたすら抵抗し続け階級闘争の武器になろうとしていた。ために俳句らしからぬものへと驀進してゆく。そのへんのことを名古屋から出ている「営」の同人、門馬弘司は「私考現代俳句考」の中で、定型、非定型を含め多種多様の主義と作風をもつ作家たちにとって反伝統、反ホトトギスは情勢論として結集の契機とはなっても、文学運動としての統合された理念に欠けていた、と結論をだしている。

 いま私はこの歴史的事実を追いながら、いろんなことを考えてみた。定型の問題、非定型の問題、象徴の問題、暗示の問題、そしてこれらの作家がもっとも大切にした労働者自身の民衆の生活の問題、どれひとつとってみても欠かすことの出来ない大切な問題なのに、これらの作家たちは比較的気楽に自己のイラストレーションをおこなっていたような気がする。労働者自身の危機感を俳句という定型詩のもつ感覚と、言葉そのもののもつリアリズムとしてのもろもろをうまく合致させなかったところに、ぎらぎらとした言葉のもつ浮つきがあったのかもしれない。単にプロレタリア的といったにすぎない。文学としての価値観まで読み込んでゆけないものたりなさを覚えてしまう。そんな私感をどうすることも出来ないでいるのである。この思考は現在なおも変わってはいない。