金子兜太は自らの心を込めて「本格」と言い「俳句前衛」と言った
児 島 庸 晃
青年の人体火照る蝉しぐれ 庸晃
駅の弧線橋を渡るとそこに海があり大きな歓声が沸き起こっていた。海水着姿の青年少女が闊歩する町…ここは須磨海水浴場である。JR須磨駅を下車、そのまま改札を出ると海水浴場である。この駅は朝から若者で賑わうのだが、その姿も殆どが着衣などのない水着姿があたりまえで極自然な振る舞いにびっくりすることしばしばである。考えてみれば脱衣所を借りるにも高額の料金が発生すのだ。この季節ここは歓声の坩堝であり日頃の憂さ晴らしをしているのかもしれない。また日常の画一化された社会での不満を忘れるためなのかも。青春万歳。青春万感。青春最高。私は彼等に万感の心を持って歓迎していた。たとえ通勤時の朝であってもこの光景を非常識だとは思いたくはない。こうしてこの若者は心の素直さを精一杯出して生きてゆこうとしていることを思えば、かたやここでしか発散できない青春の哀れを感じてしまう。青年…というより人体と思うほうが相応しい青年少女である。目一杯火照る人体の動きやリズムに生きているのだと思える生活感覚が漲る海辺の光景。逞しく生き抜いてゆくであろう人体のいまの海辺の光景であった。歩いてゆく足元に骸を転がす蝉一匹、そしてその向うには蝉しぐれがソプラノを降らしていた。明日までも命のない蝉かもしれないと思ったとき、若者の人体は火照り生きる勇気を奏でていた。だがふっと私が思ったもう一つの人体…ここにはもっと厳しく静まりかえった金子兜太の視界世界があった。
人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太
昭和46年のこの作品。私はこのときまでこれ程素朴に純粋に人間の心を捉えた金子兜太作品をみたことがなかった。当時社会性俳句のリーダー的存在の作品が多くてやや難解な作品ばかりを見てきた私には考えられなかったからであった。この頃より「平明」「本格」「新鮮」の三つの言葉が度々聴かれるようになった頃の作品である。やはり句は理解出来るもの、しかも重く意味を持たなければならないもの、そして新鮮でなければならないもの。だがこの社会性論は本格を打ち出す基本理論でもあった。その原点は「人間の心奥と天然の接触点を季節感だけに捉えることは狭くそれを含む物象感として捉えるべし」。これが当時の根本理論であった。当時社会性へ向いた多くの俳人は内面への道と外への道とにわかれ社会の中へ問題をほうりだしたままであった。そんな中から或る者は個人の問題へと沈んで行ったし、また或る者はかってのプロレタリアートなどへ。社会性は私感だが結局はスローガンを抜けきってはいなかったように思う。これらの思考を通り越し、金子兜太は自らの心を込めて「本格」と言い「俳句前衛」と言った頃の作品であった。この「東北」と言う一語の持つ背景には自然のきびしさそのものなのであった。「本格」は作者の心の問題であり、いつも純粋であり素直でありたいと思うことではなかったのか、といまもこの考えは変わらないと、心に残る。
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