2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧

俳句における自己主張とは…何なのか

その歴史と展開 言葉は人に自分を理解してもらためにある 児 島 庸 晃 この見出しの一文は書物の一部分の抜き書きではない。ある日だった。テレビを見ていてのこと。多くの大学生が会場に入りきれないでいる日の出来事だった。何ゆえにこれほどの大学生がこ…

俳 句 屋 さ ん は……ご め ん だ(再掲載)

我が思い出の記より この文章は昭和59年俳誌「激流」65号 第11巻第6号に 掲載されたものを 採録いたしました。 児 島 照 夫 (庸晃) 俳句屋さんがふえました。俳句を書くのではないのです。俳句を仕立てるのです。俳句はレディーメードの既製服です…

ヒロシマに原爆が投下された記録より(俳人……上野敬一)

絵ではなく八月六日原子雲 児 島 庸 晃 1945年8月6日午前8時15分…ヒロシマに原子爆弾が投下された時刻である。毎年のようにめぐってくるこの事実を世界は忘却の彼方へと棄てようとして時が過ぎる。平和国家のように見える日本の隅々にまで原爆症患…

俳句は連想言葉の集合体である(再掲載)

一句の成否を決める連想言葉とは何なのか 児 島 庸 晃 俳句は連想言葉の集合体である。またパーツ言語の集合体でもある。それぞれのパーツがいくつか組み合わさって完成されているもの。それぞれのパーツを組み合わせるには、それぞれの言葉と言葉のパーツを…

人の心は不可視の中にこそ潜むもの

心表現の基本とは何なのか 児 島 庸 晃 そこにあるのだけれど見ようとしなければ見えてはこないもの…それを不可視という。人の心は不可視の中にこそ潜むもの。日常の出来事だけが五・七・五の定形であってはならない。 …つぼみの中を表現したいんやけど、ま…

俳句にとっての言葉の機能を考える

俳句言葉はその機能を果たしていなかれば……言葉でしかない 児 島 庸 晃 先日のことであるが夢の中でのこと。私は必死で句を作っていた。作っていたといっても正常な私の思考ではない。戸惑いながらの心の続く時間であった。何に戸惑っていたのかといえばその…

神戸新聞読者文芸小説部門入選作品⦅2017年12月)

予 想 屋 … 哲 ち ゃ ん (2017年12月4日朝刊掲載) 児 島 庸 晃 哲ちゃんの目から一粒二粒と大粒の涙が落ちる。落とすまいと顔をあげて哲ちゃんは涙を堪えた。 春の青空は何処までも澄みきっている。天を仰いでいた哲ちゃんは俯いてしまったのだ。俯…

俳句言葉を思考していて……私なりに思ったことは

言葉のコマ重ね・コマ割り…について 児 島 庸 晃 文明とは、文化とはいったい何なのか。…そう思って俳句の事を考えていた。俳句も立派な文明や文化のひとつではないかと思えるようになったのは最近である。長い間、俳句は文芸の一部で趣味的な私的なものに過…

「物」俳句と「事」俳句‥‥俳句には二つの形 (再掲載)

それぞれの句会における選句の違い 児 島 庸 晃 俳句を作っている人の殆どが、自作の句をどのようにみなさんは評価していただけるのかとの思いに日々苦心を重ねているのが、いま一つの大きな悩みになっているのではないだろうかとも私は思うようになってきた…

俳句の言葉たち……「物を例える」とは

…比喩を考える…と言ってもただ単なる思考では終わらない 児 島 庸 晃 比喩表現がどうして俳句にとって必要なのだろうかと考え始めて、私の脳中は、ずーっと混乱の毎日である。俳句そのものが視覚からの発想によるものであれば、比喩の発想をする必要はないの…

俳句の良否を決める俳句の文法

俳句における助詞の使い方 児 島 庸 晃 最近になってのことだが私には私自身の思考がばらばらになって何をしていようとしていたのかが理解出来ないときがある。晩年になってくると物事がなかなか前へ向かっては進展しなくなっているのかもしれない。よく考え…

感動を知らない日々を過ごしている私になっていた

街角やのっぽもちびも夏の草 児島庸晃 感動するって…どんなことなのか? 日々の生活や日常の出来事にどれだけの感動を覚えることがあるのだろうか。考えてみれば…ほとんど感動を知らない日々を過ごしている私になっていた。 「感動が先立たねばならぬ。感動…

第39回 青 玄 賞 受 賞 作品と感想(再掲載)

私の俳句作品の内容を知りたいと言う人が多くいましたので……、私は、 いま80代の最晩年期ですが、伊丹三樹彦主宰結社誌「青玄」の最高賞を 頂いた時の40代の俳句作品を再度掲載させて頂きます。 児 島 庸 晃 ● ● この文章は昭和64年俳誌「青玄」420号 12・…

俳句がコピー感覚らしくコピーそのものになってしまったのではないかというのが最近の私の感想

俳句の価値基準とは何だったのだろう 児 島 庸 晃 最近、私が思うことの一つに俳句の散文化がある。五・七・五の定形を踏まえていれば、全て俳句なのだと思っている俳人が多くなっているのではないか。…こんなことを私が思うようになったのには理由がある。…