三リ主義…とは如何なるものであったのか
児 島 庸 晃
批判的リアリズムの誕生が如何に苦難の末の思考であったかを考えるとき、この運動が、その後の俳句界にとってどれほど新鮮であったかを思うと伊丹三樹彦(「青玄」主宰)の先見の目と、このことの重要性を思わざるを得ないのである。そのことは当時の十代、二十代の青年男女の俳句を愛好する数が殊のほか増えていったことでもわかります。このころ同じように鈴木石夫(「歯車」代表)も若者の育成に必死でした。私たちは、鈴木石夫、伊丹三樹彦の二人の頑張りにより、現代俳句発展の今があることに感謝しなければなりません。
ここでは批判的リアリズムより生み出された、さらにその基本となる三本の柱を詳しく書いてゆくことにします。
三リ主義…とは。
感情のリリシズム
態度のリアリズム
形式のリゴリズム
の三本の柱です。
ここで当時話題になった作品を私なりに語りたいと思いますが俳壇で注目を集めた作品でもありました。
◎感情のリリシズム
街は桜の季節で行方不明の僕
誤診ではなかった胸裏の薔薇さわぐ
ねむい春日の触手肺から腐る僕
この俳句は新里純男の絶唱作品である。この俳人は二六歳の若さでの肺結核死。奥多摩の清瀬病院での療養中に楠本憲吉との触れ合いがあり、その感覚が芽生えてゆくのだが、まったく暗愁の句である。胸を病み国立清瀬病院の奥多摩の山中にあった昭和三十年より三十五年四月までの五年足らずの間で二百数句を残している。その俳歴は「馬酔木」に始まり「春嶺」「山河」「青玄」へ、と足跡を残す。
「僕は句のなかに自分が入らなかったり、みつめて居る自分がなくては僕の句として満足できない。一つの句を完全に自分のものにするまで推敲してゆく」
彼自身のことばである。観念としての心→風景としての事物→行動としての心→思想あるいは思考の中に出来る風景→具象化されたまったく新しい心の風景、の順に彼の体内をくるくる回って行く、この鋭敏な感性はイメージにリアリティをもたせるだけの抵抗感を己に植えつけずにはおかないのである。自己自身に向けての批判性はリアリズムを考えるとき新里純男独特のリリシズムによって支えられていた。即ち批判的リアリズムの極致である。
友の死や寒鯉徐々に沈む
合唱やここは風湧くげんげ世界
昭和三二年春嶺時代の作品である。伊丹三樹彦は「繊細なるが故に、純粋なるが故に傷つきやすい青年の暗愁に充ちた詩の世界に強く魅惑されてしまった」といっており、楠本憲吉は「青春固有の愛と、死と、ポエジー。まぎれもない過去の私がそこに二重像となって浮かんで来る」という。
赤錆びた冷雨主婦来て死魚を買う
夕餉ひとり魚に暗い穴をあげる
冬日は父性の温さで白い孤児の家
無思想の歯で噛む林檎鉄の硬さ
体外の心に体内の心を近づけようとするとき、ここには精神の疲労感はまったくといっていいほどない。この暗から明へ続く過程に新里純男自身の心がある。冷たい雨を「赤錆びた」と感受。魚に「暗い穴」をあけることに精神の安定を勝ちとり「冬日に父性の温さ」を感じ「孤児の家」に降らせるこの心の温情と優しさ。「林檎」に鉄の硬さを認知する。「無思想」なるが故に自分自身をむさしいと感じる。このむなしさこそ、本物の彼の抵抗であった。
見えぬ傷に耐えて冬越す林檎と僕
見えぬもの狙撃する萱風に鳴き
まぎれもない抵抗感…敵はいつも見えないところに存在する。存在してなお、個々の心をいたみつける。それが彼の場合は病魔であった。この病魔との闘いのなかに孤立化してゆく自分自身との闘いを見いだす。実はこの自分との闘いに強烈な自己確認の方法があった。
空気銃とお化けの記憶森黄ばむ
昏い旅愁 枯野で光る不思議な石
灯が凍結して 誰か泣くガラスの街
昇給待つ日々屑籠で死んだ薔薇
蝌蚪見るため泉へ棄てた白い顔
昏い雨季の日本を捨てた赤風船
自己確認しつつ、どうしようもない自分を発見して、西へも東へも、その方向を見つけ出せないぎりぎりのとまどいを、私は見逃せないもののようにも思う。彼の方法をつきつめて考えてゆくとき、このとまどいを自己確認の文体にひきいれていた敏感さ、それらはつまるところ短詩系における、リリシズムの情感という自己完結の方法であった。ここに三樹彦の提唱する批判的リアリズムの世界があった。
◎態度のリアリズム
このころ俳壇に話題を放った関西の俳人がいた。室生幸太郎である。
母の骨のブローチを売る廃墟の少年
昭和三七年「青玄」誌上に「廃墟」と題して発表した一五句の中の一句である。この句の発表を誌上で見た私は驚きでいっぱいであった。なにしろ当時は有季・定型で伝統俳句の全盛期であったのだ。沢木欣一や原子公平、そして金子兜太のグループ「風」による社会性俳句がようやく発表され始めたころではあったが激動する時代の流れの中に生きてゆく人々を充分に描ききれてはいなかったのだ。このとき弱いもの、惨めなものへ向かいヒューマニズムの眼を向けて自己主張を放ってゆくのだ。そこにはしっかりとした現実を見るリアリズムが基調をなしている。それらを自己の態度として定着させるリアリズムでもあった。
レンガに溶けた恋人なでる 灰降る晩
ベル押した掌が咲きなびく 被爆の寺
かすかな明日が藻の中流れ 銃声止む
デスクで消える 火色のネクタイ吊り
いななく馬を生贄 ビルの白い秘境
愛の奴隷か ひかりの渚を来る素足
日を運ぶ鳥たち 枯木の異人館
室生幸太郎は日野草城の弟子である。昭和二七年当時の国鉄大阪駅構内の専門大店で「青玄」を手にする。その後大阪経済大学社会学科へ入学下宿するのだが、その近くに病む身を横たえている「日光草舎」があり、頻繁に訪れ師事するのだ。草城逝去後「青玄」は伊丹三樹彦に引き継がれるのだが社会的リアリティを俳句という短詩系に如何にこめるのか、その実験的作品の実践に挑戦してゆく。その答えが批判的リアリズムの実践ではなかったのかと私には思えた。その先陣をきって走ってゆくのが室生幸太郎であった。人間存在の不安定感を心象風景にしてゆくのだ。その試みはやがて批判的リアリズムと言う「青玄」の主張へと発展してゆく。
二個のミイラと永遠の鐘 砂ばかり咲き
蔦がうめる地下室 少年の日の死と愛
寒い海流 ビルを解かれた便器みがく
ながい受胎のかなしみ 首なし聖者ら灼け
もだえのこる唇空に 遺跡生え
世紀末とも思われる光景を想像の視野に入れて、強烈な批判精神にして表現する句想こそのリアリズム。…まさに室生幸太郎の主張であり、態度でもあったのだろうと私には思われる。その後「暁」の代表者となるがこの原点なくしては室生幸太郎の存在はないだろう。
◎形式のリゴリズム
三樹彦の主張を定義づけたのは、たむらちせい(「青玄」無鑑査同人)であった。批判的リアリズムを打ち出す基調が三リ主義であり、リアリズム、リリシリズム、リゴリズム、の中における句の発想を、俳句の三味として俳壇に提示したのでした。
即ち、三味とは、
アイロニーと
ユーモアと
ペーソスと
ここに書かれた三つの味は、それぞれ独立したものであって、人間生活のなかで欠かすことのできない絶対条件であった。伊丹三樹彦は現実の中にあって、視点は人間の生活にあった。自然ではなかった。ときに怒る。かなしむ。考える。悩む。普通の人間の生活であった。自然に眼を向けていても、それを見ている人間の感情なり思想が批評精神となって今のあり方を示していたのであった。
伊丹三樹彦がリゴリズムの在り方を最初に示したのは…
妻を託す産婆は夏も肥大なる
この作品は第一次青玄のころのものである。まだ日野草城主幹のころであった。アイロニーにしろ、ユーモアにしろ、ペーソスにしろ、味わい方は異なっていても、いずれの場合にも、そこには笑いの形をとっている。この句の場合においても、ただ単に産婆が肥大なだけをとらえているのであれば笑いだけになってしまって意味をなさないことになる。…そんな産婆に妻を託す安心感、たのもしさといったものが感じられるからこの句は人間的なあたたかさがあるのである。ここには批判的、批評的要素が感じられてリアリズムの原点をなしている。
このことは第二次青玄に至ってより一層はっきと現われ、ペーソスやユーモアやアイロニーはひとつの思想となってくる。
ぼくの墓ですか はい 去来の墓ほどな
摘むは防風 あれは墓だか 石ころだか
幸福温泉 開業 赤子の泣声で
恋猫に根負けのペン 徹夜詩人
土偶まがいの首や手足や 踊る農夫
これらの句の根底には俳人の主張でもある態度としてのリゴリズムの三味がふくまれていた。
一方、三樹彦の三リ主義における三味を最も理解しての批判的リアリズムの実践者は門田泰彦であった。
あめんぼ寂と「ほかにどんな姿勢がある」
チュウ太と名付け その鼠穴に罠仕掛ける
いっそ強風となれば 辛酸やわらぐ葦
この呟き。この句に至るまでの門田泰彦を思えば私にも泪が出る思いである。門田泰彦は批判的リアリズムを打ち出した母体である青玄大阪支部の厳しい試練の中で育った俳人である。激しい議論のあまり、私は何度か目をつぶることがあった。それでも伊丹三樹彦は容赦なかった。ものすごい議論の応酬であった。…こんな環境の中で門田泰彦は育ってゆくのだ。
門田泰彦は昭和6年生まれ、大阪市西成区梅通六丁目、ここより南へ15分も歩けばあいりん地区の浮浪者と日雇い者の貧民街がある。一般に言われている釜ヶ崎地区である。ここで青年時代を暮らす。隣接するこの町の中で毎日の光景の人間とも思えない仕草を目に焼き付け、批評とも批判とも思える思想のリアリズムを身につけてゆくのである。
舐めてもなめても生活の渦 夜の綿菓子
ひたすら駈け 暗夜のどこかで翔つ少年
折れたルージュから氷結音を聴き給え
猫背に去る若者 前方を射ちつくし
労働祭 自転車泥棒逃げきるらし
水洗便所快調 失うものなくて
昭和37年の作品である。しっかりとした事物を見尽くす眼は「隠れているものまで見えるように書く」と言う、三樹彦の批判的リアリズムを熟知しての句作りであった。
革新とは何か。無数の俳句結社があり、同人誌があり、仲間誌がある。それぞれの所属誌の中で、それぞれの主張が大きく羽ばたく。それぞれの所属誌ごとに良い悪いの判断基準が異なる。この俳句の現実に向かった時、句を作るという感覚に何が求められるのかを反省しなければならないのが、昨今の問題でもあろう。
…このような課題を抱え、いまや俳句は混迷を深めている。私たちが現実に対して、どのように向かって対処するのかを避けて通れないのがリアリズムへの思考の深さではないかと思う。良い句、良くない句の判断基準の差を縮めるとすれば、それはリアリズムの取り扱いの問題でもあるように思うのだが。これはどの俳句集団も同じであろう。そのなかでもこの批判的リアリズムへの再考はもっとも切実な取り組みであるようにも思われる。