リアリズムの正しい在り方を示す俳人
児 島 庸 晃
批判的リアリズム…この言葉はあまりにも聞きなれていないかもしれない。純粋文芸の一端である俳句にとってはなんの関わりもないと思われるかもしれない。短詩系のしかも十七音律の言語に果たしてこのようなものが必要であるのだろうか。また可能なのであろうかと、考えるのは至極あたりまえのことである。この研究実践が行われたのは昭和三十年の初めから四十年後期である。当時、この運動が始まりかけたころは、金子兜太の造形俳句論や社会性俳句、それに、赤尾兜子などの前衛俳句、大原テルカズのイメージ論が俳句総合誌で活発に飛び交っていた時期である。それに関西からは、八木三日女、歌人の塚本邦雄、などが論戦に加わり大変な評論合戦の最中であった。
このときひたすら当時の青年俳人を鼓舞し、現代俳句に向かってリアリズムの正しい在り方を説き、俳壇へ敢然と立ち向かった俳人がいた。伊丹三樹彦である。
昭和三十年ころから激しくなってきていた社会性俳句論と、それに伴って湧き上がってきたリアリズム論が、三十一年末に「社会性は態度である」と金子兜太が結論づけ、一応の社会性論が終止を迎え、秋元不死男などの「俳句もの説」による即物主義リアリズム、それから抜け出しての主体を表現の内部で回復させようとする表現主義リアリズムの論戦が俳句総合誌や詩誌などで賑やかに華やかになろうとするとき、「批判的リアリズム」こそが真のリアリズムであると主張発言して、当時の俳壇を激震させたのが伊丹三樹彦であった。
古仏から噴き出す千手 遠くでテロ 三樹彦
俳句結社「青玄」一三〇号、昭和三五年十一月号に発表された三樹彦の句が俳壇を激震させたのであった。
いま、私は「青玄」一八六号に発表された三樹彦の言葉を思い出していた。批判的リアリズムがどのような内容であったのかをもう一度思い出していた。発表以後の俳壇が「青玄」の思考に、注目し、多くの青年男女が入会、刺激を重ねてゆくのを繰り返すたびに、その考え方の未来には多大な期待が膨らむであろうことを知る。
当時、私は俳句の革命的出来事だとも思った。
その伊丹三樹彦の発言は次のように述べられていた。
「批判的リアリズムに依る生活俳句の実践」これは「俳句は諸人旦暮の詩である 草城」を前進解釈したものであります。既に小寺正三(後に俳句総合誌「俳句芸術」を発行)が「俳句と散文の間」で指摘しました通り、モロビトアケクレノウタが、そのまま日常卑近即興詩に堕することなく、より高次の人生詩にまで迫るためには、どうしても鋭い批判精神を必要とします。批判精神とは生活諸般の事物や現象に厳しく対決して、知的思考を加えてゆくことであります。そこには当然「こだわり」や「いぶかしみ」や「おどろき」など多種多様な心的要素が感じられるに違いありません。これらの要素を詩的エネルギーとして生活の歌を発してゆくときには、おのづから在来の抒情とは異なった質の抒情が生まれてくるでありましょう。現代俳句昨今の問題である「社会性」も「造形」も「無季俳句」も、出発点に遡れば、すべてこの新しい現実生活の凝視に基づく批判精神に絞られるものと私は考えています。また、表現方法としてリアリズムに執着するのは、俳句が広く知的大衆の詩であるとの認識から、これら読者の理解なり共感から遊離しないためにも当然守るべき大道と信ずるからであります。
沖で肌灼くぼくに 浮上の蟹の拍手 伊丹三樹彦
ショパン淀む 勤労者まだ来れない椅子 伊丹三樹彦
この子供臭さへ 聖夜劇開幕 伊丹三樹彦
外套が鉄となる肩 小市民 伊丹三樹彦
昭和三十六年当時の三樹彦作品である。これは三樹彦自身が「青玄」一八六号に発言した批判的リアリズムを作句の態度として実践を続け、ますますの充実に入ったころの作品であった。
その発言と言うのは「隠れているものまで見えたように書く」というものだった。批判精神との関わり合いのなかで自分自身の存在を句のなかに見えるように置き据えるというものだった。見えているものを見えたままに書く、という、素朴リアリズムを止揚した結果のことでした。この批判精神という問題は作品に結晶されるべき批判性が作家の主体的内部意識としてどこまで表出しているかによって評価が異なるのである。
「隠れているものまで見えたように書く」とは表現方法上のこととして、リアリティの追求ということ。文学におけるリアリズムは単なる事実の再現で満足出来るものではなく、事実や素材の生々しい迫力でもなく、作家の内在から発し読者の内在に伝える静かな迫力を意味する…としたもであった。
三樹彦はいろんな人からのインタビューに多忙な日々であった。草城亡きあと、血の出る思いで継承、発展させるに大変な努力を続けておられた。日常の行動一つをとっても三樹彦の神経の使い方はなみなみならぬもの。伊丹文庫の家業についやす時間の何倍も、何十倍も労を惜しまなかった。だから通信等の一つ一つにまでも目を通し、きちんと返信を書いておられた。決していい加減な返事ではなく、何時も本心が伝えられていたのである。それは昨日や今日の新会員に至るまでの気の使いようであった。こんな多忙な中でいろんな俳人からの反論が発せられる。そのたびに答えてゆかなければならない。実に大変なことであった。いやがらせらしきものもあり、総合誌などに実名入りで書かれ、迷惑この上ない時期である。受け継ぎはしたものの、草城死後の二代目としての皮肉っぽい文章がたびたび俳句の総合誌にもでる。このようなときである。批判的リアリズム俳句の必要性とその存在感を説いての日々であった。
ところで批判的リアリズムを提唱したこの時代はまだ子規以後のホトトギス俳句の客観写生という、素朴リアリズムの全盛期。当然のように三樹彦の思考には反対論が多くありました。…でも青年俳人は三樹彦の主張に賛同しどんどん増えてゆきました。最盛期には青年俳人が五十人はいたと思う。この考えに諸手を上げて最初に賛同したのは鈴木石夫であった。まだ「暖流」の同人でした。その頃の句に次の句がある。
東京時雨おろおろ歩く母をかばひ 鈴木石夫
風さびし季節の傾斜いよよ急 鈴木石夫
串柿の種背信の味がする 鈴木石夫
しばらくしてこの単純素朴の客観至上の考え方に対して主観の尊重を掲げ、主観の回復を主張する立場の運動が起こってきます。そのひとつが構成主義リアリズムというものでした。この代表俳人は山口誓子です。
客観的なものを見るのに主観を働かせて見るという考え方。この作句姿勢ですが、対象となる現実は客観的現実でしかなかったのです。この方法は素朴リアリズムと同じで、客観的現実を切り取り構成したに過ぎないもののように思われたのです。このとき「青玄」の内部より、この誓子の考えに反発が起こり。大変な論戦が起こります。当時の「青玄」大阪支部のメンバー、佐々木砂登志、寺田もとお、三宅三穂、松本円平、それにオブザーバーとして門田泰彦、児島照夫(庸晃)が加わっての合同研究でした。
この構成主義リアリズムというのは、イデオロギーが観念的で知的で図式的で、覚醒された意識としての主観ともいえる感情としての情感が希薄なままの表現に終始するというもの。これは従来の素朴リアリズムとなんら変わらぬもので現実を客観的に冷静に主観しているに過ぎないではないかと…の合同研究の結論であった。
そこで発展的な展開での苦悩が続くのですが、リアリズムの基本に帰趨して何かが欠如しているのではないかとの討論が一年半ほどに渡り論議されました。このとき三樹彦からの提案があり、三リ主義なるものへと展開してゆくのです。
三リ主義…とは。
感情のリリシズム
態度のリアリズム
形式のリゴリズム
この三本の柱を批判的リアリズムの価値基準と考えるようになったのです。
以上が批判的リアリズムが紆余曲折を経ての誕生、そして展開のあらましである。私が、ここでこの思考を改めて採りあげるのもいまの現代俳句の矛盾点が、既に昭和三十年代に研究されていたからであって、もう一度基本点に考えを戻したいからであった。