私たちが普段見ている面や線には感情がある……俳句の心

         一句の背景にはどんな俳句にも面や線の姿がある

                 児 島 庸 晃

 世の中の目視できるもの全てを集約すれば面と線になるというのが、抽象表現の基本的考えである。面も線も、それぞれに表情を有しているというのが、抽象絵画の生みの親であるカンディンスキーの考え方であった。古代の頃には文字がなかったのであるがその頃の人たちは日常生活の感情はどのようにして受け取っていたのだろうかと思う。自然界のなかにある線や面を用いて心のうねりを表現していたのであろうか。このことはずーっと後になって象形文字を生むことになるのだが…。私たちは常日頃、いろんな現実に直面して面や線を見ているのだが、それほどに感情を込めて、物を見つめていることはない。私はそのような心をこめて見つめたこともなかった。いったい何処から微妙な表現のバージョンが生まれるのであろうか。そして、なるほどと思うのはカンディンスキー抽象絵画には情感がある。例えば黄金分割には素晴らしい調和のとれた三分割がある。古代エジプトのピラミッドなどの建造物に見られる美しい形を作る基本とされる姿である。…これらは俳句の形にも取り入れられていて俳句も三分割されているのである。上から導入部・展開部・終結部と言う五・七・五のリズムを作っているのである。即ち面の三分割なのである。三分割された一分割が、それぞれの面を作っているのである。その一面は情景が集約された面として受けとれるのである。俳句はその三分割のバランスに美しさが生まれるかどうかなのである。ここには抽象表現の美しい心の調和がとれた感情表現が生まれていることがわかる。これが俳句における品格なのである。見える物すべてを面と線として捉えた時に生まれる感情を言葉に置き換えるというのが抽象表現俳句なのである。

 では、その具体例を一つ一つの句より抽出しながら検証したいと思う。

   コーヒー店永遠に在り秋の雨   永田耕衣 

句集『殺佛』昭和53年刊より。この句は一見して抽象表現でないように思われるのが一般である。一般に考えられる抽象とは、具象に対しての区別としてであるからだ。だが、私は区別そのものを言っているのではなく、その心の有りどころとしての抽象表現なのである。まず考えなければならないのはすべての物を形に置き換えたとき心に生ずる情感である。「コーヒー店」を形にすると長方形か正方形として見え、それは立方体の一面である。どっしりとしていて微動すらもしない重い安定感がある。「秋の雨」は、その降る雨の状態から見えているのは無数の線である。この場面に遭遇した作者はその無数の線に痛みつけられている立方体に心を犯されている気持ちが理解できるのである。そしてこの気持ちのどうしようもない心から「永遠に在り」と言う言葉が生まれたものと考えられる。

私が何時も思ってるのは、言葉から俳句を作ってはならないと言う意味である。俳句は寄物陳思であると言う意味でもある。物をよく見てとは、面と線の置かれている情景から発生する関わりは感情の起伏おも表現出来るのだ。形独特の情緒そのものが抽象表現にはある。

   身をそらす虹の

   絶巓

   処刑台      高柳重信

句集『蕗子』昭和25年刊より。あまりにも有名な句ではあるが、この句こそ私が主張したい抽象表現の基本的内容の濃ゆい作品なのである。抽象的思考が何故生まれるのであろうかと言う疑問を解いてくれる鍵がこの句にはあるからなのだ。比喩の持つ特性を強く打ち出せるのが抽象の極みなのである。「身をそらす虹」と表現するこの手法はそれそのものを人体と見立ててのもがき苦しむ状態を虹の美しいやわらかな曲線にしてしまう。作者の暖かさとやわらかさがこの虹の線にはある。しかも七色の輝きで包む。これらはみんな線の集合よりなりたっている。これが線の持つ独自の感情なのである。しかも作者の連想は次へのステップ、「処刑台」へと展開。「処刑台」は立方体。冷たく光る面の全てを見せる。線と面の対比が心を擽る。面の上に置かれた線は七色の光彩をはなっている。ここに作者の気持ちが置かれていて最も主張したい心なのである。…面と線からなる抽象表現でなければこの擽りにはならないと思う理由である。

 ここでしてはならない手法として私の過去の作品を採り上げその事の程を考えたい。

   しーんとつーんと朝 ずーっと枕木の風景   児島庸晃(照夫)

この句は私の俳句誌「青玄」時代の句である。当時、十代、二十代の若手が六〇人ほどいた中で必死に作っていた時、二十三歳の時である。とにかく前進しなければ落ちこぼれる、そんななかで句に対す考慮が甘かったのである。この句には面の部分はあるけれども線の部分がないのである。面の部分とは「枕木の風景」である。枕木は長方体で、これは面の部分。枕木が並べられて遠くまで続く景色。「しーんとつーんと朝」はオノマトペで身体感覚だが線にはならない。面があって線がないのは意識が分離して難解俳句を生む。意思が統一していないのである。ではどうすればいいのか。線の部分を俳句にすればいいのである。そこで考えて添削したい部分が「しーんとつーんと朝」。ここを「つーんと朝くる」にすると線が生まれる。朝の光線が表現されるので、面の上にたっぷりと線が置かれるのである。線の情感と面の情感が混じり合って心を広げる。

 この線に動く動作が生じると視線の先に方向性が働きプラスの強い情感が発生する。

   田に水が入り千枚の水鏡    鈴木石夫 

句集『風峠』平成4年より。この句は「水」の流れが「田」へと動くのだ。この躍動感が作者の心を動かせたものと思われる。農家の人にとっては生活の基盤となる日常に嬉しさが最大になる。作者にとってはこの喜びを共有した一瞬でもあろう。「水」より生まれた流水の線は固定したものではない。心の喜びも一緒になって躍動する。「千枚の水鏡」へ向かって…。この千枚は面であり流れてくる水を待つ場所。微妙にマッチングする瞬間こそ、面の部分へ入りこむ線の触れ合い場所。これが抽象表現の特徴的絵画となる俳句の味なのである。

 これまで私が述べてきたのは形だけでは具象とか抽象とかの区別は出来ず、また呼称も判別出来ない部分における抽象表現俳句の基本的考え方であった。 

 もう一つ吟味しなければならないのが、言葉だけに見られる抽象表現俳句である。

   すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる  阿部完市

句集『にもつは絵馬』昭和49年より。この句は抽象俳句と思われがちだが、言葉だけが抽象なのである。その言葉とは「すきとおる」。言葉が観念語である。しかも詳細な部分は作者にしか見えていない。抽象言葉にすべてを委ね、その抽象に全体を匂わせる文体を構成してゆく俳句の方法なのである。従ってこの抽象の部分言葉が理解出来なければ、句そのものが成立しないのである。果たして読者は? 

 同句集『にもつは絵馬』の中の句も同じように言葉だけが抽象の句なのである。

   兎ら妹らしずかに想像している乱   阿部完市

難解な句ではない。しかし実感が掴みにくい。何故なのか。抽象言葉が思考を曖昧な方向へと引っ張っているからである。その言葉「想像している乱」は観念語が二つも使われ主情のポイントがずれるように作為されている。これが抽象俳句の常套的作り方であった。常套的というのは現代俳句の世界が、この作り方を許してきてからである。何時の頃からか、俳人は物を見ないで句を作るようになった。言葉から俳句を作ってはならないのである。実感を伴わない句が生まれる原因である。抽象俳句言葉は一般に誰もが同じ意味になる観念語を使うようになった。このことの結末は自分以外の句に興味が移り、その句の一部分の言語に感動し、その言葉を流用するという雰囲気まで生まれてきた。つまり抽象の類似句である。

 いろいろ書いてきたが、最も理想的な抽象表現のあり方はどうあるべきなのか。結論から言えば抽象俳句の形をしない抽象表現はないものかと思うのである。一般に抽象は理解しにくいという話をよく聞く。それは理解しにくいのではなく、理解しやすい表現の句が出来ていないことだと思う。どのようにすれば理解しやすくなるかということに誰も注目しなかったことである。抽象表現だがわかりやすい句もある。 

   じゃあと言い点線となり卒業する   前田 弘  

俳誌「歯車」339号より。この句のポイントがどこにあるのかだが。この句は正しい抽象表現の基本がここに示されていることである。それは「点線」である。この世のすべての物が面と線の形に集約されると、そこより生まれる情感が人の心を擽るのである。「点線」の点は円い小さい面である。点線は線を表現するために一定間隔で点を表示したもの。この句が新鮮な表現をもたらしていると思えるのは「点線となり」である。卒業生があちらこちらと点在してそれぞれに離別してゆく様子を比喩したもの。この「点線」は線なのだが点(小さい円い面)を並べたもの。点線は点と点の二つ両方をくっつけたり離したり出来るかもしれない関係を保って存在する。卒業して離別してゆく姿の心をこの点線は象徴しているのである。…これらの状況イメージの象徴表現である。抽象俳句ではないが抽象表現俳句である。俳句で言うところの抽象とは面と線の組み合わせにより生まれる情感である。

   春がくるくる一輪車二輪車三輪車    桐山芽ぐ

「歯車」339号より。この句も抽象俳句ではない抽象表現俳句である。「春がくるくる」とは、ここでは車輪が回転していること。つまり回っている車輪は円なのだがよく見ると一本の線のつながりとなり見える。本来は円なのだが、回転し始めると線のつながりに見える。この回転を見ている作者まで春を感じ楽しく思えてくる。一本の線の作る情感が作者の心を楽しくさせる。そしてその場の状況を作り出しているのは「一輪車二輪車三輪車」。どれも平面の部分の存在である。この単なる平面の存在部分から凄く愉快な心を生み出す。面と線の接点に生ずる心象現象に作者と共に読者も誘い込まれる。心象は面と線の織り成す不思議な心を生む。…これが抽象表現俳句だ。故に抽象と言われる分野での俳句は俳句としては成立しないのである。しかし抽象表現俳句は、現代俳句に於いては大切である。今まで心象を心の奥深く宿す表現に私は、それほど出会っていない。俳句そのものが心を大切に保ち、特に私性の表現へ向かうのならば、もっと深く掘り下げなければならない課題の一つに抽象俳句表現の姿はあって当然である。何故ならば、形あるものは全て面と線で構成されているからである。そこにもたらされる現象は面と線の接点にあり、そこより発生する情感は真実である。嘘のない姿には緊張感が込められている。