人やものの機微はアナログでなければならない
児 島 庸 晃
俳句を作っている良さはなになのだろうと考えてみるときがある。そして多くある文芸のなかで何故句つくりをするのか、考えているときは私にとっては一番幸せな時間なのかもしれない。物を見て感じて何かを心に残すその瞬間の喜びは短詩系文芸以外にないからであるようにも思う。私はエッセイも小説も短歌もシナリオも書いてきたが、やはり究極は短詩系文芸ではないかと思えるようになった。そして純粋に見つめる心はデジタルではないようにも思えるようになった。即ち伝統のもつ心はアナログでなければならないようにも思える
そのきっかけは「十五夜にいったん帰京いたします」の句を俳句総合誌「俳句研究」で知ったときのことであった。人やものの機微はアナログでなければならないと思うきっかけを貰った句である。伝統の俳人がこんな句をと思い心ひかれたからである。この句は「篠(すず)」岡田史乃主宰の句である。その後稲畑汀子さんの「峡深し夕日は花にだけ届く」に及んでは、益々アナログの良さに接することになる。アナログ…時計で言えば針が見えていて刻々と進む姿が見える。デジタル…針はなくそのときの時刻が数字で表示される。いま世の中は全てデジタル化されてゆこうとしている。瞬間そしてまたの瞬間の感情は目に見えてはこない。結果だけを要求するデジタルへと移行しようとしている。いま俳壇は俳句が言葉先行優先の形だけのものへと進もうとしている現状。私はデジタル化への道と捉えたいのだ。
春曉の夢に置き去る ちちとはは 向山文子
現代俳句協会「データーベース」より。この句はアナログの良さをとことん魅せて読者を引き込む心の濃ゆい感情や表情を示した句のようにも私には思える。この句のどの部分かといえば「夢に置き去る」の俳句言葉である。この俳句言葉の使い方やこの言葉にたどりつくまでの心との葛藤が私には見えてくるのである。「夢に置き去る」と現在進行形にした言葉。このことがアナログなのである。「夢に置き去った」ではないことがアナログなのである。デジタルは物事の終結した部分を表示するデジタル時計と同じように、その部分が数字で表示されるだけのようにそこまでの過程はわからないのだ。この句は作者の心の中での「ちちとはは」との作者の葛藤が、それも「ちちとはは」の諸諸の事がらが作者の心の中で動く過程が私には見えてくる。それは作者の工夫とも言える「夢に置き去る」と現在進行形の表現を用いたからであるようにも私には思えた。このように俳句は言葉の表現方法でアナログにもデジタルにもなる。言葉そのものが先行してしまうと全てがデジタル化する。俳句はデジタルになってはいけないのだ。
人の日々の生活の機微はデジタル化されると表面には現れない。したがってデジタル語でなる俳句言葉は心の微妙な揺れは表現されることはないのだ。何故かと言えばデジタルは物事の結果、もしくは結論の表現言葉であるからだろう。作者がその句を作るのに、どれほど苦心苦労をしたかの表現工夫は見えてはこないのだ。故にその句に含まれている緊張感、緊迫感は読者には伝わらないし、その句の理解度は深まらない。だが俳句作品を見ているとデジタル化しようとの傾向が時々ではあるが、一句のどこかの部分に俳句言葉として出てくる、その傾向が当然のように配置されている。
浅草よわが故郷の十二月 石川正尚
俳誌「歯車」327号より。この句はアナログ発想を基本とする原点を思わせる俳句なのではと私は…。何気なく自然のままに登場した「浅草よ」の俳句言葉。ここにある「…よ」の間投助詞はアナログ語なのである。相手に呼びかけたり、訴えたりするときに発する語であり、この言語はデジタル化は出来ない。作者の思い出の諸々がこの「…よ」の俳句言葉で強調されてぐーっと深まり、これ以後の言葉へと繋ぐことが出来る。この俳句言葉「…よ」だが固有名詞にくっつくことにより、よりアナログの感情を強めるもの。これが単に「浅草」であれば地名を示すだけでデジタル語である。作者と固有名詞との思い出の多くある情感はデジタル語としてあり、作者の数々の思い出は深まらない。言葉そのものがデジタル化され俳句言葉そのものがデジタル語になる。そうなってはならないのである。
日常の生活様式がデジタルへと時代を進めてゆけばゆくほど文学・文芸は壊れる。物事の結果だけが求められ、人間の評価は結果が表に示されなければダメ人間とされる。物事の結果へとつながる苦心苦労はどうでもよい。これがデジタル時代の評価なのである。しかし文芸は作品となる過程が大切なのである。人間としての大切な心の暖かさや優しさは文芸の基本的思考なのである。俳句言葉までデジタルになってはならない。
次の句は人間自身が本来の人間そのものを取り戻し、より人間らしさを誇らしく表示している句である。
耕せば土ふふふふと笑いけり 福島靖子
句集『青胡桃』より。この俳句言葉「ふふふふと笑いけり」はアナログの発想なのである。作者そのものが擬人化してのもの。「耕せば土」と作者が土の気持ちを代弁しての俳句言葉なのだが、この言葉にたどり着く過程の緊張感を私は受け取ることになる。その作者の心はアナログなのである。だが、その気持ちは純粋でなければアナログの思考は生まれない。心がデジタル化されていればこの純真な思考にはなれてはいないのだ。俳句言葉「ふふふふと笑いけり」は日常生活では汲み取ることの出来ない心の中にある僅かな温かみのプラス思考への温存なのである。物事の結果のみが評価される社会の中にあって心にはまだアナログの情感が残っていた。作者自身のアナログ思考を賞賛したい。私たちは社会の中にあっての日々はデジタル化された生活様式を保たなければならない現状で心は壊れてゆく。このような現実に直面しての詩性は俳句言葉にも出る。「ふふふふと笑いけり」の俳句言葉は作者の現実へ向かっての、もうこれ以上は壊れまいとする純粋な心の保全のようにも私には思える。…詩形がアナログでなければならない理由である。
デジタル化と言えば、こんなにまでもデジタル化されてしまうとは…私を吃驚させたのが次の句である。
・(ト)・(ト)・(ト)ー(ツー)ー(ツー)ー(ツー)・(ト)・(ト)・(ト)ピカドン・(ト)
市川春蘭
「現代俳句」平成三十年6月号より。作者のこの句を作ることになった状況がよくわからないので良否の事は私にはわからない。この句はモールス信号の一部分を思わせる雰囲気でもあるのだが、明らかにデジタル発想である。この句の受取りを読者それぞれがどのように思うのかは私にはわからないが、心の程はどのようなものなのかは、この句には感じられなかった。所謂無機質の心情のようにも思う。この句の「ピカドン」とは広島・長崎原爆に対する批判的な思いがあってなのか、いずれにしても無機質のものの感覚である。この句からは作者の心情は読みとれないのだ。何故なのだと、私は考えたのだが、やっぱり文字そのものが記号のようにしか思えなかった。社会がデジタルしてしまうと人間の感覚感情は麻痺して無機質になってしまうのだろうか。この句はデジタル社会の典型のようにも思われる。デジタル語俳句は心が壊れてゆくのだろうか。…このような俳句言葉が俳句雑誌に並べられると、心そのものの汚れが顕著になる。文字が記号のように見えてきてしまうのかもしれない。文芸は壊れてしまうかもしれない。私にとっては受け入れられない句であり、デジタル時代における俳句のあり方を思考するにアナログ思考を強めることとなるのである。
デジタル語発想の俳句は俳句そのものが俳句言葉になったその時点で、既に発想そのものが過去の言葉の句になってしまうのではないかと私自身は思ってしまうことがある。デジタル語発想の句は平成時代後期のようにも思われるのだが、既に明治時代にもあった。次の句である。
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
この句は明治三十三年作品である。この句はデジタル語発想を基本とする言葉の使用がある。その俳句言葉とは「ありぬべし」。有りぬべしの意味。あるはずだ。きっとあるだろうの意味。俳句言葉「ありぬべし」は作者の心の内面は物事の結果としてあり、これはデジタル時代に求められている結果のみを良しとする思考なのである。この結果に至る作者は目視の時の作者自身の内面での心理的な心の葛藤は描かれてはいず、この句に至る心の働きはどうでもいいこととなってしまっているのであろうか。この時代はまだすべてがデジタル化されてはいない頃である。私たち現代の俳人にはものたりなくて句に対する緊張感、緊迫感と言う必死な俳句への取り組みはみられなくなってしまう。目視の時の結果だけの報告レポートになってしまうのである。つまりこの句へ至る苦心苦労は見えてこない。ここにあるのは観念語としての俳句言葉である。この句を吟味するに句そのものに観念的考慮が優先して、この句を充分に読み込む途中で読者の心を遮断してしまい弾き出されてしまう。既に俳句言葉は作品制作以前に過去の俳句言葉になっている。デジタル語発想は過去の言葉となっているのである。これは現代のデジタル社会の中にありて心を壊すことになりはしまいかと私は思うのである。故に私たちは人間の心の有り様を問うことになる。…アナログ詩形を欲する所以である。
デジタル発想・アナログ発想。それぞれどちらの形でも俳句にはなる。作者の内面を深くしてゆくのには、アナログ特有の暖かさや優しさの感じられるアナログ語が必要とも思ういまの私。それは何よりもいまがデジタル時代であるからである。俳句はアナログ詩形でなければならない理由でもある。