俳句を面白くする心を動かす仕掛学

        その句を…読者に呼びかけても受け入れてくれない人へ         

                   児 島 庸 晃

 俳句は面白くなければ…と言ったのは俳人としての鈴木石夫であった。この言葉が私の脳中に、未だに残っていて、時々思考する日々の私である。いま俳句はいろんな思考が氾濫していて行き場を失っている。俳句の方向性が見えてはいない。それだけに俳句そのものが多様性を求めてきていたのかもしれない。その結果はわけのわからない方向へ流れて形式だけが残っているかにも思える。やはり、突き詰めると…俳句は面白くなければ…と思う私の毎日がある。人間の心の在りようは、日々を楽しく豊かに生きている実感が暮らしの中になければならないのではなかろうか。その生活実感の感じられる俳句が、如何に楽しく味のあるものであろうかとも思う。

 面白さと言っても人間の生活実感がなければ、それは単純に面白みのふくむものにはならないのであろう。人間であるからこそ感じられるところの心の在りようとしての大切さがいる。

 では、その面白さを俳句の中で引き出すのには、どのようにすればいいのだろうかというのが、今回の私の検証である。

   一つでいいのにぞろぞろと烏瓜   今瀬剛一

俳句総合誌「俳壇」2005年一月号より。その一句にはその句の仕掛けどころとなる俳句言葉が一つだけある。この句の場合は「…いいのに…」である。その一つの俳句言葉はその句を読むのに、その句を支える最も重要な言葉としてその役目を果たさなければならない存在なのである。ここに登場してくる言葉が、何の面白みの無いものであれば、読者は目をとめてはくれないであろうと私には思われる。所謂素通りされてしまうのである。ここに使われる言葉は人の心を擽る大切な心理が込められているのだが、面白くなければならない。ここでの「…いいのに…」には作者の思考としてのアイロニーが心理描写としてのこれから次へと展開してゆくときの謎解きであり、その興味へと繋ぐ言葉なのである。だがこの仕掛けにはわざとらしさがあっては作りものになってしまうのである。作者の実感が感じられるものである。「…いいのに…」はこの句のキーポイントなのである。このようにその一句のポイントとなる言葉を一句の何処かに施し読者の心を引き寄せる作法を…俳句を面白くする心を動かす仕掛学…と言う。

同じように一句への仕掛けが見事な句が次の句である。

   本名を持ってゐるのに草の花    田口 武

俳誌「歯車」337号より。一見すると句そのものが意味・説明語のように思われるが、これは作者の実感から湧き出た主張とも思われる。ここにはわざとらしさを感じることはできない。その仕掛け言葉とは「…ゐるのに…」である。何故と言う疑問をこの句を読む瞬間に発生させる仕掛けが、この「…ゐるのに…」の俳句言葉である。即ちこの句を心に強く呼びかける作用をさせているのである。一句の中には俳句言葉として必ず使わなければならない言葉への仕掛けがいるのである。この作法を…俳句を面白くする心を動かす仕掛学…と言う。

 仕掛学とはひとの心を擽る心理の面白さでもある。これには作者の思考が強く働くのであるが、ここにはアイロニーの心が込められているのである。

   裏山に名前がなくて裏の山    鈴木石夫

『鈴木石夫句集集成』より。この句集の題名にもなった一句なのだが、やっぱり面白い句である。鈴木石夫は何時の頃からか、俳句は面白くなければと、いろんな場所で語り始めていた。何処の部分が面白いのであろうか。この句を発見したとき私は素直になってゆく私自身の心を純粋に信じた。私の心を美しく磨いて貰っていたのだった。ここには「名前がなくて」の俳句言葉がある。あらゆる日常の日々の生活に疲れ果てている私の心を優しく素直にさせて貰っていた。何故、私を素直にさせて貰ったのかを考えていた。そうして理解できたのは「名前がなくて」には鈴木石夫ならでのアイロニーが働いているのではないかと思うようになっていた。現代社会は、名前がなければ、何一つとして物事を前へは運べない世界である。全ては名前で物事が動くデジタルの時代である。だが「名前がなくて」もしっかりと、その存在感を誇らしく示していることを発見した鈴木石夫の喜びが私にも伝わってくる。それは「裏の山」なのである。鈴木石夫の気持ちの落ち着く安らぎの場所が「裏の山」であった。ここにはこの句の底に流れ続けるアイロニーが含まれているようにも私には思える。この句には人の心を引き寄せる仕掛けがあったのだ。この心の動きを作動させる作法を…俳句を面白くする心を動かす仕掛学…と言う。

   多摩川のくびれで遊ぶ冬の鳥   栗田希代子

俳誌「歯車」337号より。この句もアイロニーの匂いの強く投入された句のようにも思える。この句のポイントは「くびれ」。括れ(くびれ)とは中ほどで細くせばまっていること。人の心を引き寄せるように心を擽り働かさせる俳句言葉なのである。作者は目視のときは極自然に「多摩川」を感覚、だが見ていると「くびれ」を見つけってしまったのであろう。その「くびれ」の部分で遊ぶ「冬の鳥」に一抹の寂しさを抱くことになってしまう。この矛盾に作者の心ではどうすることもできない心情を持ち続けていたのだろうと私は思ったのである。この部分が作者ならでのアイロニーなのである。このアイロニーは作者の強い思いがなければ生まれないだろう。この一連の心の連鎖が…俳句を面白くする心を動かす仕掛学…なのである。作者の心理的な仕掛が施されていなければこの句は生まれていなかったであっろうと私は思うのである。その一句には読者をその句に引き寄せる仕掛けの俳句言葉が一つだけある。そしてこの句はその仕掛けが作者のアイロニーによって生まれた発想なのだろうと思われる。この句に読者を引き寄せる俳句言葉が「くびれ」なのである。

 一句を成すのに俳人は、形式に拘り、どうしても一つの約束のように形を誇示しがちだが、そのようにすると本当の真実の良さは生まれなくなるものである。この仕掛学では、形ではなく、その句には真実が含まれるものでなければ、人の心を引き寄せる俳句言葉は生まれないのである。

   車椅子押す手やさしき黄落期    政成一行

合同句集『東西心景』より。この句におけるポイントは「やさしき」の何気ない目立たない俳句言葉に真実の重みが、作者の発想の根底にある仕掛けなのである。誠におとなしい言葉であり、普段によく使われる会話の中にもたびたび出てくる言葉である。だが、作者はこの句では人の心を取り込む手引きを仕掛けの術へと引っ張っているのである。仕掛けは目立つ言葉を殊更強調しなくても自然になされても充分に出来得ることを示した句ではないかと私には思われる。俳句の仕掛けとは、そんなに難しいものではなく、その一句の中に溶け込んでゆくには人の心を掴み引き込む術なのである。だから面白いと思える句には、そのように思える俳句言葉が一つだけある。

日常の生活におけるありのままの姿の中にも俳句の仕掛け言葉はある。次の句は見慣れた光景ながらも、俳句への仕掛けがしっかりと確実になされた一句である。

   イージス艦白いごはんに卵かけ    前田 弘

俳誌「歯車」322号より。ここでの作者の仕掛けは「白い」の俳句言葉。殊更仕掛けられてはいないようにも思われるのだが、この部分が作者の非凡を思わせる才能なのかもしれないと私には思われる。「白い」の言葉は目視より発想されたものだが、作者の心も「白い」のである。この「白い」は作者の心の清潔感をも象徴していて、純粋さをも示しているようにも思える。この作者の「白い」への拘りの強さが人の心を刺激してこの句へと読者は引き込まれるのである。「イージス艦」の言葉より戦争への批判を含めての日常生活の日々あることへの心の平安は「白いごはん」を食べていられる安心なのだろうとも思える。この「白い」は作者の心の象徴としての仕掛けなのである。その一句には俳句言葉となる仕掛け言葉が一つだけ存在する。

 実感とは如何なるものかと思考しているとき、その仕掛けに吃驚した句を私は思い出していた。次の句である。

   白桃に人刺すごとく刃を入れて   鈴木真砂女

総合誌「俳句」平成15年5月号より。この5月号と言うのは鈴木真砂女追悼号なのだが、生前の俳句にこのような句があつたのだとは、改めてその言葉の仕掛けに私は吃驚したのを、今も覚えてている。何故驚いたのかと言えば、この句が非情なものではなく、実に美しい心からの発想であることである。その美しい発想の原点になっているのは仕掛け言葉にあるのだが、心そのものが真っ白の純粋さがこもっていなければ、この句そのものが非情なものになっていたのだろうとも思う私。だが、その非情を感じさせないのが仕掛けるときの心の在りようなのだろうと私は思った。その俳句言葉とは句の上五に置かれた「白桃」の一語なのである。句の頭の部分である上五に「白桃」の詩情あふれる情感の濃ゆい詩語を施しているからこそ、非情なものとはならなかったように私には思われる。故に作者の仕掛けに読者はのせられ、心のすべてが引き込まれてしまうのだろうと今も思っている。その一句には仕掛けとなる俳句言葉が一つだけある。

 いろんな句をもう何十年も作り、私以外の俳句作品も見てきたがそれぞれの俳句には数多くの作り方があり、作者の主張も限りなく存在する昨今である。いま俳壇は進むべき方向を失っているかにも思えるのである。思考しなければならないのは、俳句そのもののキーポイントが一句の中で不安定にあり、その句の中でのポイントがどの部分に置かれているのかがはっきりせず、曖昧なのであろうかとも思う。いまこそ読者の心を引き付け引き込む作法がいるのではないかと、私なりに思い検証を試みた。その検証とは、作者そのものの仕掛け言葉の安定があってこそと思うようになった。その一句には仕掛け言葉となる俳句言葉が一つだけ存在していた。これら一連の作法を…俳句を面白くする心を動かす仕掛学…と言う。その句へ読者を呼び込むには、やはり人の心を擽る俳句言葉がなければならないのだろうと、いろんな句を検証してみて思うに至った。そのためのその句への仕掛けがいるのであろう。その句は面白くなければならないが、その句への仕掛け言葉がいるようにも思う。その一句にはその句への興味を引き込む仕掛けの俳句言葉が一つだけある。その俳句言葉は面白くなければならない。それにはポイントとなる言葉が何なのかをはっきりさせて曖昧な言葉の施しをしてはならないのである。それそのものは仕掛けとなる俳句言葉の存在を確かなものにすることであろう。