日常言葉俳句には緊張感・臨場感が感じられない
児 島 庸 晃
俳句作品と呼称されるものを見ていて、これは一行詩なのか短詩なのか、と考えてしまう場合がある。もっとも俳句は定型と言われる五・七・五の約束ごとはある。だが、現代俳句は非定型や多行形式もある。いろいろ幅広く自由な部分を含んでいて理解しにくく心を惑わす。
…これらを作っているのは人間の思考範囲のなかなので、虚の言葉ではない。真実の言葉なのだが、なんとなく緊張感のこもらない粗雑な言葉が多くなっているのではないだろうかと思うことがある。どうなっているのだろうか。基本的に、何かがおかしいのではないかと思う日々である。根本的相違は何か。
俳句が美しいのは、その限られた音数のもつ緊張感と、生誕時より定められてもちつづけている切り捨てられた部分の不安感のせいであろう。だから僕は、ただそれだけに賭けた。(郡山淳一「自由の砦」「俳句研究」昭和48・11)
この文章は「俳句研究」が募集した第一回五十句競作「半獣神」入選者、郡山淳一の言葉である。この主張のポイントを探っていて私が思ったこと。それは俳句言葉と日常言葉は違うのではないだろうかと思うようになった。
日常言葉は理屈で理解する。
俳句言葉は感覚で理解する。
郡山淳一の言う「切り捨てられた部分の不安感のせいであろう」の謎めいた発言を、いまは大切にしなければならない意味を思った。日常言葉は生活言葉なので、意味で考え、意味で行動をしなければ、とんでもない不都合が生まれる。所謂、理屈で判断をしなければ毎日を生きては行けないのである。一方、俳句言葉は生活に不都合があっても何の支障も出ない。むしろ不都合があり、支障がある方が良いのである。ここには割り切れない心の迷いが出てくるからなのだ。ここにはアイロニーが生まれ、心を苦しめて、その心を犯して心情の深みが広がるのである。郡山淳一の言う「切り捨てられた部分の不安感のせいであろう」の文言なのかも、と思う私の思考があった。このことが俳句の緊張感を生むのだろうと。では思考をどのようにして察知すのかと思うのだが、それは感覚である。人間には五感があるのだ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。そのうち俳句は視覚の部分が殆んどである。これらの部分より俳句は感覚で理解するのである。
青空に茫々と茫々とわが枯木 金子兜太
『現代俳句年鑑』二〇一七年版より。この句の俳句言葉の素晴らしさは「茫々と」。しかも二回使ってのリフレインである。日常でありながら、作者は日常の風景としては受け取ってはいない。日常の風景を作者自身の心象風景として感受。つまり、俳句言葉としての「茫々と」なのである。そこにはぼんやりとしてはっきりすっきり見えてはいない現実の景色なのだが、俳句言葉となると「茫々と」なのだ。このように感受することが俳句言葉なのである。ここには作者ならではの感覚があり、この身に迫ってくる厳しい寂しさは、どうにも出来ない緊張感を広げている。緊張感は俳句言葉の感受の強さの有り無しに、その全てがあり、表現されてはいない部分にまでも呼び起こされてくる。見えてはいない部分まで見ているように使用される言葉が俳句言葉なのである。見えている部分は日常で、これをそのままの言葉で表現しても、これは意味で理解する日常使用言葉に過ぎない理屈の現実である。俳句言葉にはならない。
いろんな俳句を数多く見てきたが、日常言葉の、なんと多いのには驚く。俳句は日常旦暮の詩であるので日常使用の言葉が多くなるのだろうが、作者は日常の生活の中にたっぷりと浸かっていたのでは、俳句にはならない。日常言葉になってしまう。俳句言葉にしなければならないのだが、視覚を通しての感覚を目視の中に見つけ出さねばならないのである。
目の端に橙があるあたたかさ 三浦文子
俳誌「歯車」368号より抜粋。この句の目視の状態は「目の端に橙がある」と橙を見ているだけのことなのだが、作者は、単なる情景・風景にはしなかったのだ。この作者ならでの俳句言葉を作りだしている努力がある。…「あたたかさ」の感覚把握は俳句言葉なのである。作者独特の感覚感受なので、この作者の俳句言葉である。日常的な日々の暮らしの生活用語にはしたくなかったのであろう。日々の日常言葉からは句の中に流れる真実感、即ち緊迫感、緊張感は生まれないのである。ここにある緊張感は作者のとても嬉しい楽しさとなって迫ってくる。…これが俳句言葉なのである。
日常生活言葉では俳句に相応しい言葉とは言えないと思うことがある。日常目視の状況より作者自身の言葉を産みださなければ俳句言葉にはならないのではないだろうか。その言葉とは作者が見つけ出す発見言葉なのである。日常生活言葉と俳句言葉は違うのである。ところが俳句人の多くが生活言葉そのものが俳句言葉と思っているのである。生活意識そのものを俳句へと持ち込んでも、何の緊張感も臨場感も出てこないのである。作者本人の発見言葉がなければ俳句言葉にはならない。
スーパームーン我が家は少しずつ歪む 大久保史彦
俳誌「歯車」373号より。一見して生活用語のように思われがちな句であるが、この句には作者独自の俳句言葉がある。目視の鋭さの言葉がきらりと冴えて緊迫する言葉。…「少しずつ歪む」はアイロニーとして人の心へと飛び込んでくる作者発見の俳句言葉である。視覚より感覚が生まれた瞬間の緊張感は生活言葉ではなかった。生活言葉とは程遠い作者の私言葉になっていた。日常用語で俳句を書いても、何も感動したり納得も得られない理由である。全ては作者本人でのみの感覚語により俳句言葉になる。日常用語より作者の俳句言葉を作らねばならないのである。多くの俳句人は自分自身の生活周辺を目視し、そのままをその通りを俳句にする。生活の延長では現実がだぶって見えるのみ。何の臨場感も湧いてこないのである。作者ならでの俳句言葉がいる。「少しずつ歪む」は視覚を感覚で受け取り緊張感をもたらせたものである。日常生活より俳句言葉を作り出した立派な現代を表現した句であった。
日常生活にあって、最も日常的である筈のものが、すこし思考を変革させて発想するものに 口語発想の俳句がある。従来の俳句とは雰囲気が異なっていて散文扱いされることが多いのだが、作者独自の俳句言葉を引き出すと、凄く力のある言語感覚の感性になって力強い迫力を伴った姿に変身する。
あいづちを打つひと欲しい寒いわと 紺谷睡花
俳誌「歯車」374号より。この句は…このような口語発想でなければ、この実感の強い迫りくる緊張感は出せていないだろうと思われる。その言葉「寒いわと」は日常語である。しかしこの句を見て日常語と思わせない扱いに、この句を素晴らしいものへとした作者の努力がある。作者でしか感受することの出来ない「寒いわと」なのである。日常語は、その扱いに作者の心がどれほど強く感情移入出来るかによって、詩語になる。口語の使用は、特に扱いにくいのは日常語そのものが、そのままに現実化するからなのだが、作者の意識変身により、見事な俳句言葉へと昇華する。口語発想だが不思議な魅力を秘めた句のようにも思われる。
やさしさのすり減つてゆく夏帽子 野木桃花
「現代俳句協会データーベース」より抜粋。野木桃花さんは「あすか」主宰。作者は十代の頃より俳句を作り続けた俳人である。この句は代表句の一つである。句集『君は海を見たか』の中に記載されている句。俳句をしていることの重要な示唆がこの句にはある。それは作者自身の俳句言葉が存分に発揮されているからである。日常の生活をしながらも生活の中に埋没しない心をもって、作者自身の希望を心の支えとしいる句であるからである。日常の生活言葉で俳句を表現していないことである。作者自身の俳句言葉を心の中にもつことができているのである。言葉を巧みに工夫しての俳句言葉である。だがここには日常における生活言葉はない。その日々の暮らしは絶え間なく過ごしているのに…。俳句言葉は心を支え、心を癒すことも出来る。日常の出来事を、いくら克明に巧みに記録しても生活言葉の範囲を抜け出すことは出来ない。俳句言葉にはならないのである。俳句に限ってはドキュメントは通用しないし、ドラマ化して短編小説のように心を盛り上げても日常からは抜け切れてはいない。この句にある「減つてゆく」は日常に出会う出来事ではあるが、作者にとっては作者自身の俳句言葉である。日常会話の中における「物体」が減ってゆくことではないのだ。「心」が空虚になってゆくこと。「心」が空しくなってゆき、本来あるべき作者の心中の「やさしさ」が抜けてゆき、何もなくなってゆくことを意味する。このことが日常の生活言葉とは異なり、新しい俳句言葉になっているのある。野木桃花さんにはこのような素晴らしい俳句言葉が多数あり、これまで何回も出会った思い出が私にはある。
夏蝶の高きところをこころざす
きらきらと夏野の蝶となりゆけり
嫁ぎゆく子よはつなつの蝶になれ
炎天にキリンの首の漂えり
桃の花開けるごとく我が心
旅心ふつふつ桃の咲く日和
真向かひに蝶の脈打つ痛みかな
これらの句は心の中が真っ白になっていなければ作れない。また心の中が汚れていては目視の中には入ってこないだろう。俳句言葉とは、その時その場の作者の心の有り様に左右されるもの。しかも日常の日々の生活時間の中にいての心の在りようである。そこにじーと佇む野木桃花さんの純粋さの真心が如何に大切であるのかがわかる。…これが俳句言葉なのである。
俳句と言う文芸の中にとっぷりと浸かっていると、俳句の良さの意味が理解出来なくなってくる時がある。出来上がった自分自身の俳句作品すら理解出来ない方向へ迷い込んでいる時がある。気づいても、わかっているのに、どうにもならない経験をした人もいるだろうと思う。そんなとき何故かと考えたことのある人は多いのではないだろうか。よく考えてみるとわかることなのだが、あまりにも俳句を知りすぎているからである。知りすぎているため作者自身の心中が汚れ尽くしているのである。…と同時に日々の思考が日常生活にはまりこんでしまっているのではなかろうか。そして俳句まで日常言葉になりきっているのであろう。俳人は自分自身の俳句言葉を持とう。
私たち俳人は、何気なく日常の生活に慣らされていて、ことさら気をつけての俳句言葉感覚にはなってはいない。普段は当たり前な言葉の会話感覚なのだが、日常の延長言葉では読者の心を呼び込むなどは到底無理なようにも思うのは私だけではないだろう。作者自身による私感覚の俳句言葉の新しさを求めたいものである。