奇物陳思と言うものは(2006年3月10日記述)

         立冬やひとはぬくみを目に灯す   児島庸晃

 ときどきではあるが俳句の出来る場とか瞬間のようなものははたして何なのだろうか…そんなことを真剣に考えてみる。奇物陳思と言う俳句の基本は発句が俳句として独立独歩を始めたときから変わりはない。しかし今「奇物」ではない俳句のなんと多い事よ。そしてそれらが大きな顔をして本物俳句であるかの登場はなんとも軽々しい。

 昨年のことであったか。この「奇物」のもつ素晴らしさに出会ったことがあった。日暮れが少し短くなりかけた玄関先でのこと。玄関のドアホーンが鳴り出てみるとそこには老女が立っていて、話をするや涙を流し止ることのない状況になる。私は老女の目をじっと見つめていた。「ありがとうございました」と言い、また涙の目の顔になった。ゆっくりと話を聞きわかったことは、お孫さんを病院に連れてゆく途中にもどして吐き道路のあちらこちらを汚したのだと…その時通行人になじられ罵倒されたのだと。そこに妻の貞子が通りがかり布切れや新聞紙を家から持ってきて介抱したのでそのお礼を述べる…その老女の目はまさに「陳思」に与えするものであった。これは右脳や左脳では得られない「物」に託す感動であった。この句はこの時の瞬間のもので老女の目から湧き出す「物」が私のこころをくすぐらなければ、この瞬間の感動はない。即興的な感動は「奇物」によってはじめてなされる。この句は俳誌「篠(すず)」の秀句としてとりあげられている。