俳句は一行のコピーではないのだが……

                                                  俳 句 の 本 質 を 分 析 す る

                                                          児 島 庸 晃

    昨今の句会の現状は、何人かが集まってその場所で行われる句会も、インターネットを使っての句会も、最高点句と言われるものは、挙ってキャッチコピーに類するものが多くなった。何故だろう。社会一般を通じて、新聞も街の看板も、必ず目立つようなコピーが大きく人目を惹く。そして人を吃驚させるような奇抜なものまである。いろんなアイデアを工夫してのコピーがある。先日も、昼寝と言う文字を印象づける意味もあってだろうが、昼寝の文字そのものが横向きに書かれていて、人体そのものが横になって眠っているような感覚になる。これも一種のキャッチコピーなのである。

    俳句の世界でも、このキャッチコピーに等しいものもある。例えば、♀・♂、↓・∞、♭、など。このような記号を音数と読み一句の中に登場してくる。いまやキャッチコピーが俳句の王道を突き進んでいるかにも思える。何故だろうと、私が思うようになって疑問が益々難問になって解けないのである。

   そもそもキャッチコピーは文芸とは何の関りもないものだった。広告の世界のことで人の気持ちを心のままに伝え、多くの大衆の心を引き込むことなのである。相手に届けたいメッセージを凝縮した言葉がキャッチコピーなのである。俳句言葉と通じ合うのは相手に届けたいメッセージの凝縮言葉だからなのであろう。

    だが、俳句との基本的に相違しているのは、キャッチコピーには真実感が薄くて本物の心が感じられず薄っぺらさが、言葉そのものの緊張感を弱めてしまうのである。キャッチコピー言葉には思いつきの部分から言葉を深めているので、それ以上の人の心を深めて入ってはこない。人の心への入り口で言葉の重みが止まってしまう。

   そのように思っても何故、句会での最高点句になるのだろう。それは一瞬の言葉の閃きにあり、強烈に目立つ言葉を俳句の中心に置き心憎い程に句会の読者を引っ張りこんでしまうからであろう。数多くの句数の中に埋没しない突出した強烈な言葉の特異性にあるのだろうとも私は思う。だが、強烈に飛び込んできた言葉は一瞬のうちに消え心には残らないのではなかろうかとも私は思う。それは俳句は私性の文体であるからである。キャッチコピーは大衆を迎え入れるものだからである。物品を売るための宣伝文句なので、そこには私性の心は薄い。生き方や心の思考といったものは言葉にはしにくいのである。一過性のコピーにすぎないのかもしれない。

        炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島   森 澄雄

俳句総合誌「俳壇」2004年8月号より。この句は「岐阜羽島」を宣伝するためのコピーではない。「岐阜羽島」と言う固有名詞を前面に押し出しての印象が俳句そのものを宣伝するためのコピーの一行のようにも思えるかもしれないが、そうではないのである。ここには作者、森澄雄の私性が強く主張されているのである。それは「炎天より」と言う俳句言語への拘りにも似た心深い思考へと私性を強めているからなのである。ここで注意深く見ていると思い当たる作者の心の動きが示されているのである。「より」と言う心の変化が作者の一番強く主張したいことだったのだろうと私は思う。この「より」への私性がキャッチコピーにはならなかった所以である。

   団栗は独り歩きをして困る     飛永百合子

俳誌「歯車」392号より。際立った特異な俳句言葉「独り歩き」はまさしくキャッチコピーである。だが、このコピーは俳句でもある。「独り歩き」の俳句言葉は私性の含まれた意志を強く押し出していて心の情緒を感じるものである。作者の日々の生き方までも示す意思を含むもの。極めて強いコピー言葉には作者の思想がこの句を動かしているのである。そして「困る」と心を結ぶ気持ちの流れには、一過性ではない気持ちの持続が、この句の安定を読者に訴えている。このようにキャッチコピーでありながらも俳句として通用する句もあるのである。これには私性が含まれているからなのだ。

   鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし   三橋鷹女

俳句総合誌「俳句」平成十五年五月号より。この言葉の一行はフレーズでのメッセージを凝縮したものである。俳句ではない。キャッチコピーである。俳句は私性の文体とは言え、このモノローグのフレーズは俳句とはならないように私には思える。私が俳句とは思えない理由は「べし」と言う言語の二重否定にある。この「べし」は作者の語りであり、独り言でもある。俳句はイメージを伴うもの。まさしく語り言葉はキャッチコピーの最も多い特徴でもある。また「べし」は説明言葉でもある。 

 キャッチコピーは説明言葉の集合体のようでもあり、また詩情は薄いながらの表現でも、それらはより現実感を強めるようでもある。句会での高点句になる理由は日常的現実感を表現したものが受けているようで、より親しみやすさが選者の心を受け入れやすくしているのではないかと私には思われるのである。表現された言葉そのものが意味に与えする納得を読者に強いる発想は、物事を解説してわからせることなので、感覚は発生しにくくなる。キャッチコピーのキャッチとは人の心を掴むことで、それは一瞬の面白さなのであろうとも私は思う。面白いといってもその面白さがイメージをもたらすものは、ただ単にキャッチコピーのみにはとどまらない。キャッチコピーのように見えていても俳句になる。次の句もその一つである。

   スクラムの中にいくつか猫の足   絵園 玲

俳誌「歯車」391号より。この句、季語はないが「スクラム」より冬の季語であるラグビーを連想する。この句は俳句の特色でもある滑稽感そのもので本来の俳句の姿でもあった。キャッチコピーのままながらも俳人に受ける理由は作者の私性が、ここに読み取れる表現の俳句言葉があるからである。それは「いくつか」としっかり目視している真実が、読者に納得させるイメージを提示して作者の心を伝えているからである。ラグビーの「スクララム」を組んでいるのは人間であるのだが、もしかしてあのか弱い短足の猫の足なのかとも思う連想。人間と人間の激しい闘いを励ましているのである。ここには作者の思考なり思想までが含まれているようにも私には感じられるのである。まさしくイメージより連想を広げる私性の文体である。キャッチコピーのみには留まらなかった。キャッチコピーが俳句に成りうるのか、そうでないのかはそのコピーに私性が取り入れられて、そのことが充分に感じ取れているかに関わっている。

   令和新春 角を曲がれば角が見え   堀部節子

俳誌「青群」第56号より。私性と言えば、この句は目視がしっかりと出来ていて、作者の思いが浮かびあがってくる。「令和新春」と言う俳句言葉から新年を迎えた街の、或る一瞬の目視なのだろうと思う。作者の心の中にある感覚が、その時の街の風景との馴染めない違和感を素直に表に表現したくて「角を曲がれば角が見え」と俳句言葉にしたかったのだろうと私は推測した。この「角を曲がれば角が見え」のフレーズはキャッチコピーである。そして意表をついた表現言語でもある。読者の心を取り込むにはぴったりの感覚表現言葉でもある。この句が何故俳句に成りえたのかを、私はずーと考え続けていた、何日も考え続けていた。いろいろ思考の果てに理解できたのは、やっぱりしっかりとした目視のなかにおける私性の強く込められた感覚表現であったのではないか。そんな思いがする。

 俳句の感覚表現の優れた作品にはどのように作者の心情が織りこまれているかとも思う。また細かい神経の施しがある。それらの作者のメッセージがキャッチコピーなのである。私が一行のコピーであるにも関わらず感銘を貰った句が飯田龍太作品であった。

   一月の川一月の谷の中     飯田龍太

現代俳句「データーベース」より。この句は、たった一行のコピーである。例えば一月のカレンダーの見出しコピーにもなるだけの注目度の高いもの。でもこれは俳句である。その俳句たる所以は私性の文体、いや句体とも言えるに充分な施しが表現の中に組み込まれているからである。句の構成は上・下の組み合わせ、リフレインの形式ではあるが、しっかりとしたメッセージの発信である。作者自身の目視の目の素晴らしさでもあろうとも私は思う。句自身はキャッチコピーである。「一月の谷の中」にある「一月の川」である。一月の寒気の中で「川」も「谷」も共に労わりあって存在していることの大切さが私には伝わってきた。ここには寄物陳思の俳句の基本があった。

 俳句の本質とはの思考で、いろんな形式の中にあるキャッチコピーの目立った存在感を検証してきた。そのキャッチコピーに類する俳句が句会での最高点になり易い一面もあり、その理由或いは内面も検証した。だが、俳句の本質は寄物陳思である。寄物陳思とは即ち私性の文体をその心に有することであった。寄物陳思における作者の思考がその一句を深くし、その一句の緊張感を強める。言葉の刺激に左右され一過性の共鳴であってはならない。