本物感を強めることは私性に徹すること

          俳句は私を表現する総合文芸である

               児 島 庸 晃

 俳句は三人称、二人称では書かないのです。我々、私達でもなく、あなた、君でもない、常に私もしくは僕なのである。そして起承転結でもなく、導入部、展開部、終結部という五・七・五の俳句的展開の表現である。これは知的興奮を引き出すにもっとも良い表現であるから…。次の句を見ていただきたい。

   野に詩の無き日よ凧を買ひもどる  今瀬剛一

「俳句」平成17年2月号より。私の周りを克明に語り、探し出してゆく事により「私」を語る…これは映画やテレビのシナリオにおける基本である。ここに佇む作者の一抹の空虚感は、たた単に寂しく虚しいだけではなかったのだ。喧騒の都市を離れて野原へ癒しの心を求めて旅に出たのであろうか。それらは「野に詩の無き日よ」の俳句言葉で理解できる。今瀬剛一さんの自句自解が私の心を誘った。次のようなものであった。

 一面の枯野、時々水音と出会うぐらいで取り立てて目新しいものは何もない。…私はほとんど半日をこの枯野に虚しく過ごし帰路に着いた。雑貨屋で凧を買った。その糸の部分を指にからませて歩いていたら。『凧を買ふ』いう言葉が口を衝いて出てきた。私はまた今日一日の虚しさを思った。それは『野に詩のなき』一日でもあったのだ。

 この句の発想は俳句は一人称の視点での思いを事ほどに強くしているようにも感じる私性がこの句の中に籠められているようにも思われるのである。本物感は何時も一人称の発想視点でのものであるのではないかと私は思うようになった。 

 しかし世の中に現存するものは一人称のものばかりではないのだ。一人称の表現スタイルが俳句の本物感を深めるのには欠かせないのではあるのだが、目視の対象は三人称のものばかりである。我々の生活日常は複数の形をなしての存在。…だが、表現の基本は私の目を通しての一人称が理想。作者の目視の中では一人称にして捉えなければ本物感は出せないのである。

   星たちのぽーと沸点春夕べ   児島庸晃

俳誌「歯車」375号より。この句は私の作品だが、「星たち」と視点の先にあるのは無数の星。全ては三人称である。出来上がった句は一人称の句である。何処が一人称なのかだが。よく見ていただきたい。「ぽーと沸点」の俳句言葉は私の目視の選択では一人称の扱いとして表現されているのである。目視した対象物は「星たち」なのだが、その焦点は私の感動を受けた部分に絞られての「ぽーと沸点」となる。私の目の中では、私の心として一人称になって感動を残しているのだ。このように感動を受けた部分を私事として、一人称の強い感動言語として残すことにより本物感を強く出せるのである。

 いまの俳壇はあまりにも本物感のない句が多いのである。そして俳句ではなくコピー感覚になっているのには驚く。日常の出来事をキャッチコピーにしてしまっている。広告物の見出しに等しいキャッチコピーである。人目の引きやすい出来事に言葉が並べられて、ここには詩の感覚は感じられないようだ。俳句における本物感は、或いは真実はキャッチコピーでは出せないのだ。これには飲料メーカーなどの募集する俳句が、その広告を主体とするため、キャッチコピー的なもの故のもので俳句とはほど遠い内容が採用されるので勘違いされたりしているのかもしれない。…俳句は本物感をどのように出して表現されるかが問われている。 俳句は私を表現する文芸である。俳壇は俳句そのものが「私を表現する文芸」であると言うことを熟知していないのかもしれない。