俳句における…自己確認とは何か

                                               もしくは自己表現の本物感

                 児 島 庸 晃 

    私たちは毎日の暮らしの中で数多くの体験や知識を得て日々を無事に暮らしている。その幸福感に満足し生きているのだが、日々何事もないように暮らしている。これらは毎日の生活の自己記録でもある。しかしよく考えてみるとそれは自己確認の証でもあるのだ。俳句はその自己確認の本物感を如何に強められるかが問われている。俳句に求められている課題は本物感の真実性でもあろうか。俳句の醍醐味は今までに感じたことのない満足感を、それぞれの作品より得ることがどのように出来るかに尽きることであるようにも私には思われる。

    伝統俳句より現代俳句へ。そしていまや未来への門出ともなろうかとも思える俳句までも出現してきた。本当の俳句性が何であるのかと、問いかけられている昨今である。…私はその一端を第17回現代俳句大賞受賞の安西篤さんの受賞作品に接すことで味合うことが出来た。

        存在や三尺高い木に梟   安西 篤

「現代俳句」平成29年7月号より。まず考えられるのは作品以前の心のあり方が現実的であること。しっかりとした目視があっての作者の態度が確認されていることである。作品をなすのに言葉から作りはじめてはいないのである。誰もが陥りやすい作り方に言葉の示すムードの興味を受け取りやすいのだが安西篤さんにはそのような言葉感覚は一切ないのである。目視でしっかり捉えた現実とは「三尺高い木」に住む「梟」なのである。この「梟」こそ作者自身でもあろうか。この存在感の力強さ。凄い本物感である。

この存在感は…いったい何に基づくのだろうと思っていると、その根拠が安西篤さん自身の言葉の中に見ることが出来た。師でもある金子兜太指導の「人間としての生き方の俳句」であつた。つまるところそれは存在者として生きる俳句であった。

        淋しさに大きさのない秋の暮  安西 篤

この句も受賞作品なのだが、ここにも存在感が確かに確立されてある。観念になりやすい秋の「淋しさ」を作者自らの視線でその光景を確かめて「大きさのない」と目に取り入れる感性は、作者ならでの、より具体的な「秋の暮」である。これは事実としての心の扉がひらかれた瞬間であったのかもしれないと私は思った。…凄い本物感である。

    だが、このような凄い本物感は何処から何によって生まれてくるのだろうと考えていたとき、次の事を私は思った。

    俳句は自己確認をもって、その事実を、より本物にするのだろう。その自己確認は、自己表現の本物感をもって、俳句を楽しくもさせるものだろう。

           痛快な空腹八月十五日   前田 弘

俳誌「歯車」373号より。この句の本物感は、誠に本物である。すこし可笑しな言い方だが、このように思えるほど、この句は自己確認が出来ている。これは「八月十五日」の俳句言葉のこの句における場合の存在感が大きな重要性をなしているからなのである。そして作者の「空腹」は「痛快な」とも言えるほどにも達している心の有り様は異常なとも思える。この「空腹」感は本物の凄さなのだ。この自己表現は読者を楽しませてくれている。ここに表現されている事実は真実であり嘘ではない。その証は自己確認が出来ているからなのだ。作者自身の意識を内心へ向かって跳ね返らす自己確認であったのかもしれない。

 このような本物感は、自然へ向かっても目視される。しっかりとした自己確認は次の句にも出来ている。

   広島忌地球はいつも何処か朝    高田 毅

俳誌「歯車」373号より。人間の心はこのような自然への人為的現象に対しても自己確認は出来ている。「いつも何処か朝」は観念語ではない。作者の目で確認しての言葉であって本物である。決して言語だけのものではない。真実なのだ。そしてこのようであって欲しいと願っての「いつも何処か朝」なのでもある。全ての本物感は自分自身の確かな目視による自己確認の心の置き場所なのである。本物感の凄さは自己確認の心の感じ方にあり、その置き場所としての言葉の見つけ方と表現の強弱に左右される。「いつも何処か」と作者が自分自身の内心へ語りかけている自己確認言葉であった。自己確認が出来ている句は凄い本物感を強く出せるのである。

 詩情もなく、抒情もなく、切れも、深みもない、…こんな句が言葉の綾や粋な使用により、人気を得る。へんな流れが俳句の王道を生き続ける。でも、これがいまの俳壇の現状である。私が何故、俳句の本物感を問い詰めるのかを理解して頂きたくこの稿を書いているのである。俳句から言葉だけが先行して、その言葉の粋な計らいによって新しさを受け取る、こんな俳句からは本物感は得られない。月日の経過によって忘れられてゆく俳句からは本物感などは生まれないのだろうと私は思う。このような事を思い始めた根底には人間の心の在り様の未知なる部分が本物感の強さにあるのではと、気づいたことだった。それは自然を目視する作者の感性により、顕著に出る。

   虹なにかしきりにこぼす海の上   鷹羽狩行

「俳壇」2004年8月号より。この句は作者が自然と一体になった瞬間の緊張感である。この句は物を見ないでは作れはしない。言葉だけの感覚では作れないのだ。「虹なにかしきりにこぼす」とは目視なしでは発想は出てこないだろう。本物感とは作者の目視によって、眼底に取り入れ、留め置いての残像を意味する、そのときの緊張状態である。この緊張感だが、強ければ強いほど、また緊張状態が長く保持し続ければ続くほど本物感は凄くなる。本物感を強めることは私性に徹すること。俳句は三人称、二人称では書かないのです。我々、私達でもなく、あなた、君でもない、常に私もしくは僕なのである。そして起承転結でもなく、導入部、展開部、終結部という五・七・五の俳句的展開の表現である。これは知的興奮を引き出すにもっとも良い表現であるから…。次の句を見ていただきたい。

   野に詩の無き日よ凧を買ひもどる   今瀬剛一

「俳句」平成17年2月号より。私の周りを克明に語り、探し出してゆく事により「私」を語る…これは映画やテレビのシナリオにおける基本である。ここに佇む作者の一抹の空虚感は、たた単に寂しく虚しいだけではなかったのだ。喧騒の都市を離れて野原へ癒しの心を求めて旅に出たのであろうか。それらは「野に詩の無き日よ」の俳句言葉で理解できる。今瀬剛一さんの自句自解が私の心を誘った。次のようなものであった。

…一面の枯野、時々水音と出会うぐらいで取り立てて目新しいものは何もない。…私はほとんど半日をこの枯野に虚しく過ごし帰路に着いた。雑貨屋で凧を買った。その糸の部分を指にからませて歩いていたら「凧を買ふ」という言葉が口を衝いて出てきた。私はまた今日一日の虚しさを思った。それは「野に詩のなき」一日でもあったのだ。この句の発想は俳句は一人称の視点での思いを事ほどに強くしているようにも感じる私性がこの句の中に込められているようにも思われるのである。本物感は何時も一人称の発想視点でのものであるのではないかと私は思うようになった。しかし世の中に現存するものは一人称のものばかりではないのだ。一人称の表現スタイルが俳句の本物感を深めるのには欠かせないのではあるのだが、目視の対象は三人称のものばかりである。この生活日常は複数の形をなしての存在。…だが、表現の基本は私の目を通しての一人称が理想。作者の目視の中では一人称にして捉えなければ本物感は出せないのである。

   星たちのぽーと沸点春夕べ   児島庸晃

俳誌「歯車」375号より。この句は私の作品だが、「星たち」と視点の先にあるのは無数の星。全ては三人称である。出来上がった句は一人称の句である。何処が一人称なのかだが。よく見ていただきたい。「ぽーと沸点」の俳句言葉は私の目視の選択では一人称の扱いとして表現されているのである。目視した対象物は「星たち」と三人称なのだが、その焦点は私の感動を受けた部分に絞られての「ぽーと沸点」となる。私の目の中では、私の心として一人称になって感動を残しているのだ。このように感動を受けた部分を私事として、一人称の強い感動言語として残すことにより本物感を強く出せるのである。

 ところで本物感とは…そう思って私なりの思いを込めて日頃の思考を進めてきたのだが、それが俳人の基本的姿勢であると尚一層の強さを感じる基盤だとも思うようになってきた。そしてそこに通じる緊張感を維持する心であるとも思える。真実が如何に存在感を伝えているのかの表現こそ大切である、と私は思うのである。

俳人自身が現実との闘いの緊張感にあるのではと、改めてそのように思う私のいまがある。俳句の本物感は真実感である。それは俳人自身の目視の体験がなされなければ、その本物感は出てこないのだろうとも思う。

   一本の指に崩れる蝌蚪の陣   岡崎淳子

句集『蝶のみち』2013年現代俳句協会発行より。この句の本物感を支えているもの、と問われて即座に答えを引き出せる人は真心が理解出来る俳人でもあろうか。その真心を生み出しているものは目視が如何に重要で大切な仕草なのかであろうかと思う。それは「一本の指に崩れる」の俳句言葉で理解出来る。何気ない素振りの表現に込められた真実の正確な言葉選びには凄い真実がある。この「一本の指に崩れる」こそ、凄い本物なのである。目視による体験がなされていなければ真実は生まれてはいないのだ。言葉の興味から俳句へとは思考していないことがわかる。「蝌蚪の陣」とは蝌蚪の家族の集まりでもあり、絆を保ち日々の安全生活の場所でもあろうか。この場所へ人間の「一本の指」の侵入は耐えられない危機である。「一本の指」の侵入により蝌蚪は周辺に散り広がるのだ…この緊張感はこれを体験する作者にしても耐えられない緊張感であったのだろう。ここには物凄い本物があるようにも私には思える。俳句は言葉の真実を如何に本物の言葉に変革させるかであろう。 

 いまの俳壇はあまりにも本物感のない句が多いのである。そして俳句ではなくコピー感覚になっているのには驚く。日常の出来事をキャッチコピーにしてしまっている。広告物の見出しに等しいキャッチコピーである。人目の引きやすい出来事に言葉が並べられて、ここには詩の感覚は薄いようにも感じられのだ。俳句における本物感は、或いは真実はキャッチコピーではないのだ。例えばだがこれには飲料メーカーなどの募集する俳句が、その広告を主体とするため、キャッチコピー的なもの故のもので俳句とはほど遠い内容が採用されるので勘違いされたりしているのかもしれない。…俳句は本物感をどのように出して表現されるかが問われている。俳句の醍醐味は本物感の凄さの表現に左右されるのではないだろうか。いまも思うことだが自己確認の精神は鈴木石夫先生より教わったものである。自己確認による本物感の俳句は鈴木石夫俳句には一杯あった。