キャッチコピー言葉俳句を考える

         一過性のコピーにすぎない俳句は心に残らない

                 児 島 庸 晃

 俳句の世界でも、このキャッチコピーに等しいものもある。例えば、♀・♂、↓・∞、♭、など。このような記号を音数に読み一句の中に登場してくる。いまやキャッチコピーが俳句の王道を突き進んでいるかにも思える。何故だろうと、私が思うようになって疑問が益々難問になって解けないのである。

 そもそもキャッチコピーは文芸とは何の関りもないものだった。広告の世界のことで人の気持ちを心のままに伝え、多くの大衆の心を引き込むことなのである。相手に届けたいメッセージを凝縮した言葉がキャッチコピーなのである。俳句言葉と通じ合うのは相手に届けたいメッセージの凝縮言葉だからなのであろう。そしてその言葉が一般大衆に受けるようになった、

 だが、俳句との基本的に相違しているのは、キャッチコピーには真実感が薄くて本物の心が感じられず薄っぺらさが、言葉そのものの緊張感を弱めてしまうのである。思いつきの部分から言葉を深めているので、それ以上の人の心を深めて入ってはこない。人の心への入り口で言葉の重みが止まってしまう。

 そのように思っても何故、句会での最高点句になるのだろう。それは一瞬の言葉の閃きにあり、強烈に目立つ言葉を俳句の中心に置き心憎い程に句会の読者を引っ張りこんでしまうからであろう。数多くの句数の中に埋没しない突出した強烈な言葉の特異性にあるのだろうとも私は思う。だが、強烈に飛び込んできた言葉は一瞬のうちに消え心には残らないのではなかろうかとも私は思う。それは俳句は私性の文体であるからである。キャッチコピーは大衆を迎え入れるものだからである。物品を売るための宣伝文句なので、そこには私性の心は薄い。生き方や心の思考といったものは言葉にはしにくいのである。一過性のコピーにすぎないのかもしれない。

   炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島   森 澄雄

「俳壇」2004年8月号より。この句は「岐阜羽島」を宣伝するためのコピーではない。「岐阜羽島」と言う固有名詞を前面に押し出しての印象が俳句そのものを宣伝するためのコピーの一行のように思えるかもしれないが、そうではないのである。ここには作者、森澄雄の私性が強く主張されているのである。それは「炎天より」と言う俳句言語への拘りにも似た心深い思考へと私性を強めているからである。ここで注意深く見ていると思い当たる作者の心の動きが示されているのである。「より」と言う心の変化が作者の一番強く主張したいことだったのだろうと私は思う。この「より」への私性がキャッチコピーにはならなかった所以である。