顕在意識→連想→潜在意識を経て成り立つ
児 島 庸 晃
最近になってのことだが良い句には、作者独自の思考の形があるのではないかと思うことが私には多くなってきた。そのように思うようになった根拠には、人間本来の底に棲みついている、潜在意識としての姿が心にあってその一つ一つが感情をコントロールしているのではないかと私は思う。その感情が、普段は隠され目には見えてはいないのではないかと。その心を呼び起こす行動・動作が顕在意識によって目覚め、それらの具体的な「物」が目視することにより眼前に見えてくるのだろう。その「物」の引き出しは連想を重ねて広がるのではないのか。…私なりの理論である。つまり一句が完成するには顕在意識→連想→潜在意識を経ているのではないかと。良い句だと思える俳句に巡り合えた瞬間の感想は顕在意識→連想→潜在意識を経ていることだったのではないのかとの検証を得た。何故、そのように思えるのかを私なりに考えてみたいと思う。目視時に作者の目に飛び込んでくるものは、現実にその場に存在する物体なのであるが、その物体は作者には最も興味を引くものでもある。このことそのものは顕在意識に基づく作者の意識より発生している。つまり目の前の見えている現実風景なのである。
一歩から始まる万歩 初茜 福本淳子
俳誌「青群」第56号より。この句は何でもないように思われる光景ではあるが、作者の意識作用の籠った感情が見事に定着されている。このような句を私は見たことがない。それほどに顕在意識が強くはっきりと克明に読者の心を擽る。このような句はそんなにも表現出来るものではないのだろう。…そのように思えるのには理由がある。そこには俳句言葉の表現に人の心を深く追求している言葉があるからである。「一歩から…」と言う俳句言葉、これはまさしく人の心の中に何時も顕在していて日常の生活の中で作者自身が保持している感情を伴った生活言葉なのである。だが、この言葉は目には見えてはいないのである。では何故この言葉が句の発想で思いついたかと言えば、日日の行動の中に、ずーと作者自身が保持し心の奥深く眠っていたもの。だが何かのきっかけがなければ表面には出てこない。…これを潜在意識と言う。ここより連想が始まり「万歩」の俳句言葉が生じることになるのである。作者の目視は「初茜」なのだが、ふと「初茜」に向かって歩こうとする動作。ここより「一歩から始まる万歩」との意識が働く。作者の意識操作が自然に働き顕在意識→連想→潜在意識と心が動く。素晴らしい俳句にはまことがある。この句のまことが俳句の緊張感を強めるのである。これらの心中の一連の連動は観念ではない。まことの心なのである。まことの心は顕在意識↓連想↓潜在意識と心が動く。つまり目視より得られた見えている物体から連想により、作者の心に眠っている感情意識を引き出すのである。
実感の重みと言えば、そこには必ずと言っていいほど潜在意識を内包している作者の意志が色濃くある。その潜在意識を顕在意識に変革させたのが次の句である。
あやとりのエッフエル塔も冬に入る 有馬朗人
俳句総合誌「俳壇」2005年8月号より。作者は「天為」主宰者。元東京大学総長、元文部大臣。ここにある作者の抒情は句の発想においての思考の中に顕在意識→連想→潜在意識の心の流れがとても強くある。作者の見えている光景を、ただ単に見ているだけなれば、何の感情などは発生しないのだが、作者が興味をもつに至った見えている光景には感情が生まれる。このとき作者の心には潜在意識があっての興味が生まれる。この句の場合には「あやとり」の目視より「エッフエル塔」の発想がなされている。「あやとり」の動作により出来上がるまでの過程の中に、幼い頃お母さんに作ってもらった「エッフエル塔」の形のイメージがあるのだろうと思う。この部分が作者の心に残り、今も持ち続けている潜在意識があるのだろうと私は思った。その季節は冬。まさしく句の始まりは「冬に入る」の俳句言葉なのである。「冬に入る」の俳句言葉の顕在意識より連想が始まり、「あやとり」の今へと繋がる。所謂一連の感情の流れの中に顕在意識→連想→潜在意識と言う作者の思い出を引き出しているのである。この句の素晴らしいのは素直な作者の気持ちが読者に素直に伝わってくること。即ち顕在意識→連想→潜在意識と言う心の流れが素直に行われたからであろうと私には思われた。
俳句は一句の中に唐突な言葉は使えない。句を成し得る過程には一連の心の流れがあり、それが顕在意識→連想→潜在意識の心の流れを作っているからなのである。
一点として立つ冬晴れの真中 岡崎淳子
句集「蝶のみち」より。普通のように思われるかもしれないが、この句の目視に際し作者がどの位置に立ち何を視ようとしているのかを私は考えた。その思考の程を私へ受け渡して貰った俳句言葉がある。…「一点として」に凝縮された目視。ここには作者自身の今まさにいるその位置であり、作者そのものの存在感なのだろうとも思った。「一点として立つ」の顕在意識は多くの読者の共感を得て心に流れ込む。ここからこの句の物語は始まる。それは連想を伴って次のステージへと開ける。このように作者の心を強く広げているのは、何よりもそこにある作者の「冬晴れの真中」と言う理想の潜在意識があってこそのものだろうと私には思えた。顕在意識→連想→潜在意識の流れを確実にし目視によっての作者の主張を定着させているからなのだろう。俳句には唐突な言葉は使えないのである。それには顕在意識→連想→潜在意識と言う人間の内面で起こり得る意識の変革がなされるからなのである。その一句には、必ずと言ってもいいほど作者にとっての潜在意識がこめられている。その潜在意識はその句の主張でもある。その主張は作者の存在感の主張でもある。この時点で顕在意識→連想→潜在意識の流れを作る。ここには思いつきより起こる唐突な俳句言葉は生まれない。そしてそれを立証しているのが「一点として立つ」の俳句言葉であろう。作者にとって大切なのは潜在意識を呼び起こす心であり、そのための連想は是非とも意識してなさねばならない心の準備と言える。
心の準備と言えば、目視に際し潜在意識を発見することかもしれないと思うことが私にはある。目視とは作者の目に最初に飛び込んでくる事柄でもあるが、作者にとっては一番に興味をひくことでもある。何故興味を引くのか。その事柄は作者の体験したことや出会ったことである。ふとしたことでそれらを思い出す。新しい体験ではなく作者の思い出の中にあるもの…それを潜在意識と言う。
炎天を槍のごとくに涼気すぐ 飯田蛇笏
第八句集「家郷の霧」より。この句は昭和29年69歳の時の句である。蛇笏は飯田龍太のお父さん。「雲母」の初代主宰者。私がこの句を知ったのは高校時代でまだ伝統俳句の全盛期であった。何が私の心に飛び込んできたのかと言えば、「槍のごとくに涼気」の比喩であった。この比喩は作者の体験に基づくもので、そこに住みつき日々体に染みついたもの。作者だけに、強烈に感じとることの出来たもの。これらの作者自身の自己体験より発せられる実感である。「炎天」の地面に作者は立っていて、一瞬の「涼気」と出会ったのであろう。そしてこのことは何回もあったのだろうと思う。この体験が潜在意識を目覚めさせたのではないか。潜在意識とは何回もの体験によって作者の脳内に蓄積されたものの意識である。目視していたのは「炎天」、ここより作者の連想が始まり、「涼気すぐ」を思い出す。その結果、顕在意識が作者の眼前で起こる。その俳句言葉が「槍のごとくに」の比喩言語。だが、突然この比喩言葉が発生したのではない。作者の心の準備が出来ていたからである。この句の所作の中に顕在意識→連想→潜在意識の流れの一連の行動が準備されていたからなのだろうと私には思える。この句は形式こそ新しくはないが、俳句の基本としての準備が顕在意識→連想→潜在意識の過程を経て出来上がっていた。この一連の基本を心理面より深めたのが次の句である。作者の心層に潜在意識が存在。このことが句の心の在りようを深めている。
葉ざくらの夕べかならず風さわぐ 桂 信子
第一句集「月光抄」より。昭和22年33歳の作品。目視の段階において現実の把握が心理の変化を操作していて、その基本が潜在意識より引き出されているのだ。その俳句言葉が「風さわぐ」なのである。満開の桜花のころの賑やかに輝く靡くころとは違う楽しさが作者の心に根強く残っていて、その心理が潜在意識なのである。「葉ざくら」の目視時に作者の、かって体験した頃へと心が飛ぶのである。そして「葉ざくら」の眼前の今の光景の顕在意識が作者の脳中にあって、連想が動き出す。この時、満開の桜花と葉ざくらとの対比に心理面の動揺が起こる。これらの作者の心の揺れが顕在意識→連想→潜在意識の一連の流れの中で起きていることが私には理解出来た。それは「葉ざくら」になっても沢山の青葉の揺れる葉音を「風さわぐ」と言う把握を心理面より潜在意識として呼びおこしているのである。この俳句言葉は凄く個性的であり、作者だけの体験の潜在意識なのである。この句は「風さわぐ」の言語を生み出したことにより俳句に成りえたのである。
俳句が俳句としての良さを発揮するのには、それなりの思考があるのだと知り得たのが、今回の私の調査立証で分かった。それには工夫があり、それは作者の意識操作ではなく理論としてのものがあったのだと知ることが出来た。顕在意識→連想→潜在意識の理論を知ることが出来たのは私の発見であった。