上手な俳句なのに何故感動できないのか

            四角い箱に 

            四角い蓋をしてはいけない…俳句理論 

                  児 島 庸 晃

 上手なまとめ方をしている句なのに、なるほどと納得も出来る句なのに、良い作品だとは思えない事がある。そして句会でも高点句になっているのに感動できないことがある。何故だろうかとずーっと私の心のなかで何時も疑問を感じ、随分長い期間悩みを持ち続けてきた。しかし本当は良い作品であるのかもしれないと思う事もある。一瞬の思いであったとしても、なんとなく良くない俳句だと思った事実には、それなりの理由があるのではと思い、思考してみることにした。

 いま私は川野夏美さんの「悲別(かなしべつ)」の曲を聴きながら、この稿を書いている。函館本線の俗称「悲別」駅、廃線になってしまった「上砂川」駅である。この曲には人間の営みの自然があります。この曲の歌詞には人間の心が蓋されずに表現されています。…日本人独特の感覚として自然や人間の営みには歴史があり、その歴史のなかにあっての俳人は全ての心を開くとき、句そのものに蓋をしてしまったのではなかろうかとも思うのである。俳句全体を見せるために、自然や人間の営みを全て見せることをぜず人間の心まで蓋をしてしまったのではなかろうかとも思う。また一方では心を開くが故に全てを俳句言葉にして見せすぎているのではなかろうかとも思う。言葉にしてしまっている。表現が言葉だけになっているのではなかろうかとも…。わかりやすい説明をしてみれば、例えば四角い箱に四角い蓋をすれば中は何も見えないのだ。四角い箱には丸い蓋をして四隅が見えるようにして置かなければならない。俳句は全てを言葉にして表現してしまえば中味を見ようとしても何も見えてこない。言葉にしてしまえば、俳句を読み終えた後には何も残らなくなる。自然や人間の営みを入れた箱があるとしたら、その箱を覗くには四角い蓋に類する言葉を置いては箱の中は何も見えない。丸い蓋にあたる言葉で対応しなければならない。その丸い蓋の四隅からなら四角い箱でも箱の中が見える。言葉と言葉の間に見えてくる余韻の心を残して読者の想像を呼び込まなければならない。

 句会での高点句は言葉の綾に惹かれ受け入れられるのであろうか。…これを一過性の俳句という。余韻の心を残さない俳句の見本であり、感動が盛り上がらない句という。また、このようなことを避けるために月日をかけて添削を試みるのである。月日・時間を経て俳句作品を見ていると、どうにもならない粗雑な句に見える事がある。月日・時間が経ても新鮮な感動が残しておけるような作品が求められている。ここには俳句言葉に四角い蓋はされていない。何時も俳句言葉は現実が覗けるように丸い蓋である。丸い蓋の四隅から四角い箱の底が見える。現実全体を見るのに言葉で四角い蓋をしてはならない。

 心の中を覗けるように表現された言葉の句には、私は何時も感動してきた。次の作品もその一つである。

   子にひとつづつもがり笛三つ欲し  向山文子

「青玄会員句集」第四集1968年版より。この句には言葉としては表現されてはいないが、句を読んでいて分かる事がある。この句の素晴らしいところは、表現言葉だけで想像出来る部分があること。「ひとつづつ…三つ欲し」の言葉、この言葉より三人の子供さんがいる事がわかる。でも「三人」とは表現しなかったのだ。何故だろうかと思う。意識して三人の存在言葉を表には出さなかった。ここには作者の真心としての愛情の真実が覗けるようにしてあるからなのだ。言葉に四角い蓋をしなかったのである。より奥深く覗けるように「三人」とは表現したくなかったのではなかろうかと私には思える。「三人」とした方が、より理解しやすいのに…。でも敢えてしないのだ。つまり四角い箱の中にある現実に向かい四角い蓋をしたような観念で捉えたくはなかった。「三人」と言う観念語では表現したくなかった。よりこまかい深い母としての愛情を濃く示したものであろう。ここには丸い蓋の四隅から必死に窺う作者の瞳があった。感動は全てを表現することではない。言葉に四角い蓋をしてはならないことが大切なのである。この句は言葉に蓋を被せないので現実の姿の中が覗ける句なのである。心の中深くまで覗けるよう意識した句であるようにも私には思える。

 感動出来る俳句の最も大切な事は表現の上手下手ではない。読者に届ける心の真実なのである。それには感覚が問われるののだが、感覚は俳句作品の入口にすぎないのだ。真実を知ってもらうには心の奥が覗ける捉え方が工夫されていなければならない。先ずは言葉に蓋を被せない目視が望まれる。言葉と言葉を合わせたときに見えてくる言葉の隙間に流れる余韻が含まれていなければならない。そんな俳人の一人にながさく清江さんがいる。…丸い瞳はいまも心の蓋をしないで前方をしっかり見ている、そんな心には四角い現実の光景はどのように写されているのだろうか。こんな時、作者の心を広げ、心を開かせたものは何であったのだろう。次の句は作者の瞳の奥には心が灯されていたのだろうとも思われる。

   冬濤の渾身立てるとき無音    ながさく清江

総合俳句誌「俳壇」2005年一月号より。ここで作者が目視している光景は広い一面の海面である。横に広がったシネラマの海景である。瞳を丸くして前面の現実へ向かって、いま一人の女流俳人が海を眺めて立っていた。瞳の前にある横広の四角い海面にまるい瞳で心を置く。だが、まるい瞳の四隅から見えてきた詩心とは…。じーっと見詰める先に広がる海面は冬海。荒れ狂う「冬濤」。一瞬ではあるにせよ瞳を閉じたくなる心。瞳は蓋されたが、俳句言葉は蓋されなかったのだ。現実を目の前に置き言葉には四角い蓋をしてはいない。それは「渾身立てる」と言う俳句表現言葉で理解出来る。心の中、奥深くまで見えるように表現された「渾身立てる」なのである。言葉に四角い蓋をして現実を見ておれば、このように瞳の四隅から覗くことは出来ていないだろう。そして「無音」と言葉に余韻を残す。作者は海のそばにはいなくて遠く離れて立っている。「冬濤」の音は聞こえていない。だが、そのことは俳句言葉としは何処にも使われていない。「無音」なのである。全てを語らずに余韻を残し、想像を膨らます。…所謂、箱の中が見える表現なのである。現実光景を蓋するような言葉を使ってはいない素晴らしさがこの句にはある。

 言葉ほど曖昧なものはない。それ故に多くを言葉にしなくても心の中は読み取れる。…そんな俳句に出会うと想像が広がる。そして心が豊かになり癒される。感動もする。何故なんだろう。心が詰められた箱の中が覗かれてゆくように全ての真実が表面に突出してくるからなのである。感動とは、ほんの一瞬の言葉の情感なのかもしれない。

   紫陽花に何度も触れて駅に着く   飛永百合子

「歯車」371号より。この句は表現の情緒が表に現れるとき、言葉に蓋がされてはいない。読者は素直に受け取れる。その言葉とは「何度も触れて」。作者は言葉に全てを託してのものではなく、心の中を見ているように思える。心が覗けるように「何度も触れて」と表現。この句には俳句表現言葉にはなくても想像で句を味合う事が出来る。それらすべては作者自身が句の中に直接登場はしていない。しかし作者の動作まで理解出来る。…作者が「私」ですとは登場しない。作者自身の動きにより作者の存在感を強く意識させている。それが「何度も触れて」なのである。このように四角い箱の中に、現実を閉じ込めて見えないようにはしていないのだ。丸い蓋に等しい瞳で目視している。それにも関わらずしっかりとした瞳で、現実の隠された箱の中味までもを見届けている。現実と言う見えている表面ではなく見えてはいない部分までもを見えるように描くことであった。そのためには目視での物体を言葉の粗雑さで蓋してはならない。見えない心を見えているように魅せて描くことが作者の主張であったように思える。人々が感動すると言うことは大袈裟な表現でも言葉でもない。情感の強さである。

 物体を擬人化して心の有り様を覗けるように表現された句にも感動することがある。擬人化といっても作者が擬人化されているのではない。作者の瞳を通しての擬人化表現なのである。

   手袋の五指それぞれの住み心地   神谷冬生

「歯車」371号より。この句は、例えて言えば箱の中を外から覗くのではなく箱の中から外を窺う心境をアイロニーにしたような表現の句なのである。さて、ここで作者が目視する時のレンズなのだが、何処にあるかといえば作者の瞳と「手袋」の間にあり、そのレンズにはアイロニーが隠されている。「手袋」の方から作者を見ている、或いは覗いているのである。だから丸い蓋の丸い四隅から作者を覗けるのである。真四角の蓋で四隅が蓋されていれば何も見えなくなる。「それぞれの住み心地」とアイロニーが見えてくる。心を開くときの言葉に観念語の蓋をしなかったのだ。「五指それぞれ」と「五指」に語らせて心を伝えている。この句が人々に感動を与える理由なのである。

 ところで感動の原典は何だろうと思っている私を驚嘆させた事がある。つい先日のこと、一冊の句集を頂いたのだが、その時の感動である。その時より目視する私の心が変化した。感動を伝える事とは…。五体満足の健常者の目視による感覚だけだと思ったらとんでもない話であった。心の奥深くを覗くように情感を伝える事は目のしっかり見えている者だけの特権ではなかった。目がしっかり見えていても言葉に蓋をしてしまったら何も見ていないことになる。…句集『光滴々』(平成28年)と出会い心が一変した私。そうだったのかと思う。この句集は視力を失った俳人・新出朝子さんの近刊句集である。

   白神の秋の灯一つ二つ摘む   新出朝子

この句、目視出来る俳人よりも、遥かに良く見えている。この句を読んで視力を失くした俳人だとは思えない。どうしてなのだろう。そこには心の、それも真心がある。この作者の目視は現実の物を見るというのとは違うのである。心の中の風景の目視なのである。「白神」は白神山地のことだろうと思うのだが、そこで煌く秋灯が「一つ二つ」と見えている。視力のある健常者でも捉えにくい山地の灯りしっかりと心で受け止めているのである。その心の程は「摘む」と力強い。この情感は作者の必死な生き様の象徴でもあろう。咄嗟に私は感動するとは人の情緒を揺さぶるものだろうと思ってしまった。

俳句を読み、そしてそこに描かれた光景の真実を、それが本物の心であると知ることが出来る素晴らしさは、見える言葉の素晴らしさでもあった。自然や人間の営みは日本の歴史だが俳句では充分に描かれてはいない。それは言葉の扱いに人間らしい配慮がされてはいなかったようにも思う。素直になって言葉を見つめ直そうではないか。乱暴な言葉で、多くを喋り、語り過ぎているようにも思う。言葉に乱暴な形で蓋をしてはならない。中身が見えるように、覗けるように言葉に余韻を残さねばならない。すべてを表現言葉にしてはならない。すべての言葉に蓋をしてはならないのだ。

 感動することは技巧でも、長年に渡り経験を積み重ねた賜物でもない。真に心を尽くす作品に出会った時には、心がすっきりする。上手な句には納得はするが心は動かされはしない事の意味が私にも理解出来るようになった昨今である。