「物」俳句と「事」俳句‥‥俳句には二つの形

                                それぞれの句会における選句の違い

                児 島 庸 晃

   俳句を作っている人の殆どが、自作の句をどのようにみなさんは評価していただけるのかとの思いに日々苦心を重ねているのが、いま一つの大きな悩みになっているのではないだろうかとも私は思うようになってきた。‥‥と言うのも、その作者が作った同じ句を句会の座が異なると、入選したり、落選したり、と全く違う評価を受ける、このような体験はないだろうか。私はこの経験を60年以上も体験してきた。その心を満たさない体験に何時も心が折れる日々を経験してきた。一時は句作を辞めようかとも思う日もあった。

   こんな私に心を満足させる出来事が発生するのである。「國文學」(學燈社1997年7月号)を開いた時だった。俳句には良し悪しは別にして二つ形があると言う内容の文章であった。

  「物」俳句と「事」俳句があるのだとの知識を得る。即ち「物」とは物体であり、「事」とは物事のことである。そのうちの「物」に類するものに「寄物陳思」があり、「事」に属するものに「正述心緒」がある。この文章を知った時から心の落ち着きを取り戻していた。俳句は抒情詩の中の抒物である。物に託す、物を利用する。物を使って語る。「物」俳句のことである。これら一連の俳句が「寄物陳思」なのである。また、これとは別にもう一つ、「事」俳句がある。景物を媒介せず、心を直接表したものが「事」俳句。つまり「正述心緒」なのである。この二つの俳句の表現は句会の座にあって選句が異なる。

   この中にあって「事」俳句つまり「正述心緒」は広告におけるキャッチコピーに最も似たものである。凄く訴求力の強いものであり、句そのもというより物事の意外性があり人の気持ちを引きやすいものである。よって句会の座にあり極めてめだつので入選の度合いが強い。もう一つの「物」俳句は物に託すところから感覚が主体なので、その感覚がわからなければ、全く選句者には通じなくなる。どちらが俳句に近いのかと言えば「物」俳句である。キャッチコピーは散文であり、一過性の強い「事」俳句には作者の気持ちの強さや緊張感がないのである。観念としてのフレーズの部分が句に入るので真実感がない。「物」俳句は作者の目視を通したものなので本物の真実が感覚になる。したがって句会の座にあっては、理解し納得に時間を必要とするので向いてはいないのである。だから「事」俳句に点が多く入るのである。

    以上のような理由があり、句会の座を変えれば同じ作者の同じ句が入選したり落選したりするのだろうと私にもその理由が分かってきたのである。

   では「物」俳句と「事」俳句の異なることの具体性について触れることにしよう。

        紙漉のこの婆死ねば一人減る   大野林火

現代俳句データベースより。この句は「事」俳句のように私には思われる。「紙漉のこの婆」と作者は目視の中に「物」を捉えているのだが、「死ねば一人減る」と観念の思考が入る句体である。この部分には作者の自己主張が入る言葉。従ってこの句は感覚の俳句ではない。この句を支えこの句を引っ張り一本の句体に纏めているのは「死ねば一人減る」の作者ならでの観念語である。抒情詩としての抒物ではない。詩の感覚ではなく物事の言葉が主体を占めているのである。この句全体の俳句言葉はフレーズであり、キャッチコピーである。句会の座に在りては点が入りやすい。それはこの句を理解するのにすぐわかりよくわかるから。数秒で理解出来るから。

        摩天楼より新緑がパセリほど   鷹羽狩行

「俳壇」2005年8月号より。この句は「物」俳句である。作者の目視の中に「新緑」が鮮明に宿っている。抒情詩の中の抒物である「新緑」と言う物に託す、物に語りかけて、物に喋らす形を作っているのである。ここには観念語はない。「新緑」から「パセリ」をイメージする感覚の作者ならでの感性の素晴らしさが誇らしげに俳句言葉として定着しているのである。

    次の句も「物」俳句なのだが、作者の目視時の感覚が素晴らしく新鮮な語りを「物」に託し、「物」に語らせている。

        ちょろちょろと音楽流し滝になる   栗田希代子

 

「歯車」394号より。その「物」とは作者のじっと見据えたそこには、最初は気づいてもいないものなのだろうが、暫く時が経て意識してくるもの。それが「ちょろちょろと音楽」の俳句言葉より理解出来る「滝」の流れ水なのである。これら一連の時間の中に読み取れる感情は感覚なのだ。実感としての湧き出る感情は作者の感性でもある。「物」に語らせると言う「寄物陳思」の心は満たしている。この情感は作者ならでの本物であろう。「物」俳句には嘘がない。本物感が強く濃ゆく「物」に託されているからである。この句はフレーズコピーではない。実感フレーズをなしているようにも私には思える。

         一本の鶏頭燃えて戦終わる    加藤楸邨

句集「野哭」より。終戦直後の句である。目視の目の鋭さが作者の感覚の鋭さなのだろう。この句は「物」俳句。正に「寄物陳思」の心である。その「寄物」とは「一本の鶏頭」の俳句言葉より受け取れる心の置き所なのだろう。作者は「鶏頭燃えて」と感情の高ぶりを俳句言葉へと感覚の極致を見せている。このどうしようもない心の乱れを「物」に託す、「物」に語らせている。その「物」とは「一本の鶏頭燃えて」の俳句言葉の感性のことである。このフレーズは「戦終わる」の感情の心を得て閉じられている。それ以後へ虚しさを残して。この句を作った作者の気持ちのやるせなさがこの句を読む人へ浸み込む。個々の観念語の俳句言葉はない。全てにおいて実感のフレーズなのである。作者本人の実感情が刻々と伝わる。俳句本来の姿なのである。俳句は抒情詩の中の抒物詩なのである。目視の心はしっかりと「物」である。「一本の鶏頭」へ集中して俳句本来の抒物詩を作りあげているのである。

   さてここで「事」俳句にも触れなければならないのだが、この「事」俳句は「正述心緒」でもある。何処が、どのような部分が「正述心緒」なのかを次の句より考えてみたい。

        撃たれても愛のかたちに翅ひらく    中村苑子

句集「水妖詞館」(昭和50年)より。この句の具象的な俳句言葉は「翅ひらく」だけである。この他のこの句に表現されている俳句言葉は、全て観念語である。観念語は作者の脳中で作り出した言語である。作者の主張したい言葉の集積が観念語なのである。目視しているのは「鳥」なのだが、その言葉は何処にも登場していない。「鳥」を目視していることがわかるのは「翅ひらく」の俳句言葉があるから。だが作者の主張し表現したいのは「愛のかたち」なのである。しかもこの言葉は抽象語であり、目で見えているものではない。「物」に託しての表現ではないのである。この句のフレーズは物事の喋りであり散文の形態をなしているのである。私には「事」俳句であるように思われる。「愛のかたち」と言っても、どんな形なのかは、この句を読んでいてもよくわからない。多分だが作者には思うところの考えがあってのことだろうが、それは想像世界の範囲内のことであろう。‥‥このような言葉から直接理解出来ない作者自身の空想を言葉にした俳句は観念の言葉化である。つまりは物事の纏めであるようにも私には思われる。「事」俳句である。「正述心緒」である。

    だがよく考えてみると新興俳句全盛のころにも「事」俳句は俳壇で活況を呈していたのである。当時はその頃の時代的思想が大半を占めていたとは言え、俳句の本質かすれば正しい道ではなかったようにも思うのは私だけではないだろう。次の句の本質は何であったのか。

        戦争が廊下の奥で立っていた   渡辺白泉

「京大俳句」昭和16年より。この句は第二次世界大戦の始まった時の時世を踏まえてのものである。民衆の意識が先行しての常識が文芸を引っ張ってゆく気持ちの高揚が全てに反映して成り立つ頃のもの。だからか観念が一句を引っ張っているのである。その観念語とは「戦争」の俳句言葉である。その「戦争」の言葉だが言葉としての「戦争」であり、意味がこの言葉を牛耳っているかにも思える。この句は「物」を目視してのものではない。思考の過程の中にイメージとしてあり「戦争」は武器をもって兵士が闘う姿が連想される。だがその姿の俳句言葉としての表現はない。「戦争」は物事であり、この句は「事」俳句である。「廊下の奥で立っていた」のは兵士なのかとも思う。何も具体的な俳句言葉は表現されてはいないのである。句全体がキャッチフレーズである。まさしく一句全体が散文なのである。本来の俳句性からは逸脱されたものであった。

    二つの俳句の形、それは「物」俳句と「事」俳句。私達は二つの形の間にあって、正しい俳句の在り方を求めてさ迷っている日々。その思考を感覚で捉えその感性で俳句を進めてゆくべきなのか。物事を作者の思考のままに自己主張を重んじ、表現方法を観念の中に収めるべきなのか。私にも実は決着がつかないのである。だが、感性はその作者の感覚なので、目視にはどうしても入ってくる重要なポイントなのだろうとも私にも思われる。また観念を一句から外すと作者の主張が薄れてしまう。でも本来の俳句は目視から始まるもの。「寄物陳思」であり、「物」俳句なのであろう。