それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある

 

       「それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある」。

                          これは現代俳句人…伊丹三樹彦の遺した文言である。

                   児 島 庸 晃

    令和元年9月22日午後6時、私は阪急電車伊丹駅にいた。夕べの光がやや弱くなりかけ るのを顔に受けながら東南方向へ向かって歩く。私の俳句初学時代の恩師の通夜の会場へ向かって歩く。その俳人は伊丹三樹彦。不幸な幼少期をバネに現実社会と必死に闘い生き抜いてきた現代俳人であった。継母と言う現実を背負いながら自らも俳句の現代化へと果敢に挑み、伝統俳人たちの俳句論をも跳ね返し、どんなときでも自分自身を信じ新鮮な句を切り開いてきた99年であった。…その時、棺の中の三樹彦顔を見て私はびっくり。その顔とは微笑んでいるようにも私には思える。俳句に一生を尽くし終わった安堵があったのかも。なんとも言えない暖かな心が私にも生まれていた。

    私の多くの思い出の中で、特に記憶にあるのは古本屋の店主としての日々のころである。私の17歳から22歳の頃であったか。よく怒られた記憶である。あまりにも下手な俳句を見てもらっては、私の俳句の上達しないことに対してである。本の埃を払うのに使われていたはたきで指を何度も叩かれたものである。今となっては大変ありがたい𠮟咤激励であった。当時、伊丹三樹彦は俳誌「青玄」を日野草城より主宰として引き継ぎ4年ほど経た時であった。このころ三樹彦は俳句の現代化へと新たに踏み出す時期でもあった。若者への期待が大きかったのであろう。私は特に怒られた。当時、私は一番若い会員であった。当時若者は私と荒池利治の二人だけであった。このころ、俳誌「青玄」主宰としての日々は俳壇のなかにあって四面楚歌。八方塞がりであった。

   しかし私が三樹彦の言葉の中で一番記憶に残っている文言がある。       

   それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある。 

この言葉は私が社会へ飛び出した20代前期の頃である。現実社会の中で、その現実についてゆけず悩んでいた趣旨の句に対しての時の文言であった。私の悩みを悟っていたのであろう。…その苦しみと闘っている心を大切にしなさい。その心を一番に表現しなさい。と。…一つの俳句には『何故』がいると言うものだった。作ろうと思う本心の必死さが緊張感を生むのだと教わったのである。俳句開眼の一歩であった。その時の私の句は次のようなものである。

   しびれだす正座 生きるを思案してる刻   児島庸晃

   枯木に対面 考えていて歩いていて     児島庸晃

   つめたい鍵穴 都会の目つきはよしたのに  児島庸晃

   作ってはつぶす机上の小さな革命旗     児島庸晃

正に私の主張ということであろうか。このことが自己主張の大切さだとわかったのはこのときであった。

 事実、伊丹三樹彦も俳壇と闘っていた。現代語導入、旧かなから新かなへ、無季容認、口語容認、分かち書き、と俳句のタブーとされてきた限界へ挑戦していたのである。伝統俳句人へ向かっての必死な根性を示した句がある。

   正視され しかも赤シャツで老いてやる   伊丹三樹彦 

痛烈な根性でもって挑んだ句である。だが、私には,この句に含まれている心には、もっと大切にしなければならない伊丹三樹彦の文言が込めれているようにも思える。三樹彦が亡くなったいまだから言える遺言のようなものを感じる。それは「それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある」である。俳句にはその句を作ろうと思った動機があり、その心の「何故」が『何故』を生んでゆく面白さがあるのである。

 それぞれの俳句に含まれる『何故』とは何なのか。どうして「何故」が『何故』を生むのか。三樹彦が白寿を前にして亡くなり、三樹彦が残してくれた文言に改めて深い重さを受け取っているのである。そこで、今回は俳句における『何故』を考察検証しようと思う。本来の「何故」は物事に対して疑問を感じたときに思う謎ときの言葉なのである。そしてもうひとつの『何故』はその疑問が解けたとき、納得できたときの回答のことばなのである。17音律の一句の中には常に「何故」と『何故』を表現する二つの俳句言葉が存在する。

   足も手も不思議と思う日向ぼこ    高橋悦子

第9回現代俳句協会年度作品賞「シュトラウス晴れ」より。主観主張の強い作品である。この句の「何故」は…「足も手も不思議」。そしてもう一つの『何故』は「日向ぼこ」。作句の動機は作者自身の身体感覚。日常生活とは異なる手足の動きに、普段は考えられない程の快い動きや軽い気持ちになれているのであろう。作者も年齢を重ねてくれば日常生活の疲れを手足にも動きの重さを感じているのであろう。だが、今は違う感覚に不思議な心の一時を過ごしているのである。ここまでが最初の「何故」なのである。この「何故」が動機となり、次のもう一つの『何故』を生むのである。その『何故』とは「日向ぼこ」の俳句言葉なのである。ここで作者自身が「日向ぼこ」のその場にいることの事実に気づき自分自身の存在感を強くする。一句の中には「何故」を思わせる作者の心があり、その緊張感を心で膨らませて次の『何故』を引き出すのである。この『何故』には作者の納得の思いを込めているのである。一句の中には「何故」と『何故』を思わせる表現の二つの俳句言葉が存在する。

 ところでこの「何故」は作者自身が素直な心でなければ、「何故」を思わせる俳句は書けないのである。それは探究心。探究心は素直な感覚より生まれる。子供の心にはどうして大人では思いつかない発想が出来るのか。子供の心には何の汚れもない心で物を見たり考えたりする探求のすばらしさがあるからである。子供の俳句には常にその一句の中に「何故」がある。その「何故」は目視で得られる感覚の中の発見。子供俳句にはどうしてどうして「何故」と言う心のさぐりがある。それが俳句の面白さなのである。

   鈍行は僕の生き方かぶと虫   小学6年 水野結雅

「プレバト俳句」より。ここでの「何故」を表現する俳句言葉は「かぶと虫」。そして『何故』は「僕の生き方」。この二つの俳句言葉より小学6年の微妙に虚ろな心の在りようがクローズアップされている。この小学6年の作者は純粋に汚れのない心で自分自身を見つめているのである。そして作者は思考するのだ。「何故」と…。それも「かぶと虫」の最初見た瞬間は勇ましい姿に惹かれたのであろうが、しばらく見ているとその遅いのろのろの動作に共感を覚えて親しを感じてしまうのだ。その動作は「鈍行」ではないかと、各駅停車の列車を想像。「かぶと虫」に、より強く親しみを抱くのだ。この純粋さは感覚を通り越して実感へと心をアップさせているのである。作者の思う「何故」が『何故』へと跳ね上がった瞬間だった。

 俳句における『何故』は作者自身の目視体験感動がなければ作れないのだ。俳句を作ることは物を見ないでも頭の中のイメージ想起だけでも作れる。そして誰もが試みないような発想を作り出すことも出来る。所謂、一般によく言われている観念俳句である。…俳句を作りあげるという感動を伴わない思いつき俳句である。広告で見出しに使われるキャッチコピーの一種なのだ。しかし、頭の中でイメージ想起の俳句には『何故』がない。どうしてかと思う。作者自身に、その句をどうしても作らなければならいと思う気持ちがないのである。俳句にさえなればいいからである。作者の必死な訴えを句の中に込めようとしないのが観念俳句である。ここには『何故』はない。私は『何故』のこもらない俳句を作り、生前の三樹彦によく怒られていた。テレビの画面を見て作ってはならないと怒られることが多かった。『何故』は作者の目視で得られた感動があってこそのもの。作り物を俳句にしては『何故』は生まれないのだ。

   モーテルは灯の祭典館 枯野の芯   伊丹三樹彦

『伊丹三樹彦全句集』より。この句は昭和35年頃のものではなかったと思うのだが、当時それぞれの地域で街が、経済復興しかけた象徴の証のような句である。当時古本屋の店主としての毎日に励み、その店の二階が俳誌「青玄」の発行所としての場所だった。店の裏には阪急電車の鉄路があり、電車が通過すると揺れる、そんな場所で編集・発行が行われていた。私は雑誌発送の手伝いをしていて電車通過の揺れを感じていた。そんな三樹彦の目に飛び込んで来た「モーテルは灯の祭典館」は希望の光に思えたのであろう。このことが三樹彦にとっての『何故』だったのだろうと思ういまの私である。この句の「何故」は「枯野の芯」。そしてもう一つの『何故』は「モーテルは灯の祭典館」なのである。この句には必死に生きている三樹彦の心がこもっていたのである。作者の目視による実感が強くなければこの句は生まれてはいないだろう。このことが『何故』の最も大切な所以である。

 俳句にはどうして『何故』が必要なのだろうか、といまは考える俳人は少ないのではないかとも思うのだが、何十年か前の俳人にはいた。社会性俳句の俳人たちである。その背景にはその作者の住む社会・現実があった。 それが社会性俳句であった。その「動機」は「何故」に繋がる。俳句はその「動機」につながるところの「何故」があり、その『何故』が大切だと思ったからである。

   右の眼に左翼左の眼に右翼    鈴木六林男 

「現代俳句」データーベースより。この句は観念句のようにも思われるが、実感がなければ作れないものである。どうしてだろう。句を作ろうとするときその言葉自体に、「左翼」とか「右翼」の言語があれば、その句を目にした時点で、誰も受け付けないだろうと私は思う。だが、「左翼」とか「右翼」の言語が中心に成立しているにも関わらず、読んでいてあまり気にならないのである。これは実感からの発想で、つまり作ろうと思う作者の動機があるからである。ここには作者の『何故』があるから…。この句の「何故」は「右の眼」、もう一つの『何故』は「左の眼」なのである。一句の中には「何故」と『何故』の二つの俳句言葉が存在するのである。俳句言葉の「何故」と『何故』は言葉として感情の反発がある。また軋みがあったりもする。最初の「何故」が、「右の眼」で、この俳句言葉から、「左の眼」の『何故』が出てくる。感情の反発や軋みが緊張感を強めるのである。作者の作ろうとする、或いは作らなければならない動機が『何故』の作者の心となるのだろうと私は思う。

 社会性俳句以後でも作者自身を句の中で語る俳人はいた。鈴木石夫である。

   風峠越え彼岸花悲願花    鈴木石夫

『鈴木石夫句集集成』より。平成2年の句である。この句は『何故』を前面に押し出し作者自身をおしみなく思考しているのではないかと私には思える。この句も観念句のようにも思えるのだが、そのようになっていないのは、ここに『何故』があるからである。その 『何故』とは「悲願花」の俳句言葉である。「悲願」の本来の意味はぜひとも成し遂げたいと思う悲壮な願い。一般にはよく使われる言葉に …年来の悲願が実る、などがある。また 仏語で菩薩が慈悲の心から人々を救おうとして立てた誓いと言う意味がある。石夫にとっては自分自身の心に保持している願いがあっだのだろうと思う。このことが『何故』を思わせた動機なのである。そしてもう一つの「何故」は「彼岸花」だったのだろうと思う。「風峠」を越えて行くとき、そこに咲いていた「彼岸花」に哀れみを感じたのであろうと私には思われる。そのように思ったのは「何故」が『何故』に飛躍し自分自身に対しての回答を得た瞬間であったのだ。     

 現代俳句人…伊丹三樹彦。私へ俳句を指導していただいた先生である。いま通夜の座を立ち静かに頭を下げその会場を後にする。ひとしきり青年時代を見守って下さった思いにひたりながらも、その思いの中に残る三樹彦の文言が私の脳中から消えない。

   それぞれの俳句には…その句を作ろうと思った『何故』がある   

この文言は三樹彦に関する文章では、私は見たことはない。だが、私には特別な文言であったのだろうかとも思う。また、今においては三樹彦の遺言のようにも思われる。その意味においてこの『何故』の必要を検証した。俳句を作るということは句を作るのではなく、作らなければならい心の在りようを表現することなのだろうと私は思う。一句を作ることは、子供の心であるのかもしれない。どうしてどうしてと探求する『何故』が大切なのだろうと思う。