五・七・五の一行は…詩である

 私の周辺で囁かれる気になる言葉がある。俳句の最近の現状についてのことだが、只事俳句が多くなったと言う。…これは何故にそのように思えるのだろうか。感動したと言える俳句がなくなったと言う。把握内容も意味ももっともなのだが。感覚も理解出来るし、新鮮さもある。でも物足りない。これはいったい何になんだろうか。…いろんな人から聞く言葉であった。いろんな意見はあるにしても俳句が軽すぎるのであろうか、俳句の重みを言葉から受け取れないのであろうか。これは平易な言葉や表現を意味しているのではないように思われる。俳句の基本とも思える、俳句には、そこに詩と思える表現が存在しなくなってきているのであろうか。…そのように思って、いろんな資料を調べていると、私の思っているような言葉があった。俳誌「黄鳥」の代表者ー小西領南氏の言葉があった。

 …私は、感動したことを即物表現で句に練りあげ、それに詩があるか、個人があるかを反省する。

 …句として表現された意味が、意味だけのものは、五七五の散文にすぎない。

この言葉は二〇〇五年三月発行の総合誌「俳句研究」誌上でのーわたしの作句信条ーの発言。 もう相当前の発言であるが、いまもこの言葉は現実のもののようにも思われるのだ。

 そこで、詩とは、どういうことを、何を指しての呼称なのかを考えてみなければならないと思った。萩原朔太郎の詩理論の中には次のように述べられている。これは俳句に対してのものではないが、詩の本質が伺えるような気がする。

 

…詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に煽動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。(『月に吠える(序)』)  

 

 これは詩集の中で述べられている言葉ではあるが、ここで述べられていることをわかりやすく言うと、詩を表現するのに意味が重要なのではなく、感情を現すための主観的な表現が全てであり、しかもその感情が、万人に共感出来る表現や言語でなければと言う、ことのように私には思われることだった。

      葬送の河べり何もない風景   高屋窓秋

上記の句を、私の文章を読んでいる方は、どのように受けとられているだろうか。詩があると受け取るのか、それとも単なる一行の散文と読みとるのか。この句は昭和一二年五月上梓の句集『河』の中のものであるが、この句集には四〇句しかなく全部書き下ろしであった。俳誌「馬酔木」離脱後三年の沈黙を保った後に出した句集である。この心の動きを考えてもわかるように、高屋窓秋には意味などで句を書こうとする気持ちはなかったように思われる。ここには詩の感情の本質を見つめることの方が大切であったのだろうと思われる。これを思うとこれらには、もう「馬酔木」時代のきめのこまかさはなかったが、現実とがっちりと組んで対決している窓秋の姿勢はやはり大切ではなかったかとも思う。高屋窓秋は語った。「句集『河』を書いたのが支那事変前夜である。僕の意識の中に流れた河は、上水の流れとは違っていた。もっと現実の苦悩と闘争の満ちたものだったが、しかし時勢の流れは僕をして敗北の人生へ追いやった」。…高屋窓秋にとってはこれがせいいっぱいの現実に対する抵抗であったのかも。現実にも破れ、俳句と闘う力にも負けた高屋窓秋は昭和一三年満州に渡り終戦までの八年間、作句を自ら破棄し沈黙する。「頭の中で白い夏野となってゐる」の句で見せた繊細な思考は、もうそこにはなかった。「一個の完結した風景の中に溶しこんでしまい決して語ることをしなかったのです。比喩を孕んだ風景が生み出されていた」と述べていた金子兜太の世界は、もう『河』にいたっては高屋窓秋自身語らずにはおれないほど現実はきびしく、また暗かった。

 このように切羽詰まった俳人にとっては意味などどうでもよいのである。自分の心情を語る方がどれだけ大切であることなのか。ここには本来の詩の本質があるようにも思われる。その俳人の本来の俳人であるべき姿は、意味を語ることでも、思想でもなく、批判でもないようにも思われる。どうやら冷静な感情が求められるもののようにも、私には受け取れるのであるが、感情というものは、言葉では表現出来ないほど複雑なもののようである。

 ところで、今日の現状はどうであろうか。全ての句とは言えないが、俳句を意味だけで伝えようとしているのではないか。句の伝達は意味が全てではない。心の伝達が重要なのである。心をどのように自分以外の俳人に伝達するかは、心の中にある感情、言い換えれば情感なのではなかろうか。その感情を最も素直に純粋に内臓しているものが、感覚なのであろう。詩とは感情の本質を見つめて上手く表現すること、とは萩原朔太郎の思考であった。そして、私は短詩形には、そのことが感覚であるように思われる。短い文体だから説明が出来ない分、鋭い感覚が求められるのである。そこに感情とも言える情感の重みが俳句の重みの強い句として表現されるのではなかろうか。何故、新興俳句時代の句が未だに重要視されているのかを考えていただきたい。例えば次の句の一つ一つには意味などはなかった。

   潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ

   兵疲れ夢を灯しつつ歩む 

   憲兵の前で滑つて転んぢやつた 

 一句目は富澤赤黄男の句である。ここには意味などは何処にも感じられないのだ。従来の俳句の形式を崩してまでも感情を大切にしているではないか。昭和十二年、富澤赤黄男は支那事変で中支へ出征、その戦地より、ロマン溢れる句を送ってきたのだった。それは誰も想像もしなかったダイヤローグ使用の作品であった。敵兵と面と向かったときでも常に純粋な詩人としての人間としてのやさしいあたたかさがあったのだと思う。

 二句目の句は片山桃史の作品である。昭和十九年一月二十一日、ニューギニアにて戦死、三十一歳の短い生命であった。山桃桃史にとっては自分よりも、自分をとりまく環境の方がどれほど大切であったことか。この環境にあっては自分自身の心情とも言える情感が、どれほど大切であったかがわかるのである。

 三句目の句は渡邊白泉である。この句を知ったとき、私自身がずっこけてしまった。何故か?それはこの底抜けに豪快な感情の突出に共感したからだった。当時の社会環境を思うと、これほどまでの感情の発露は心の鬱積であったのかも。

 ただ、ここで言えることは、この時代は句を作るにおいて、意味など考えるゆとりがなかったのだろう。いろんな思考はあっても、いまの時代は、当時ほど厳しさもなく、幸せなのかもしれない。

 だとすれば、心にゆとりがありすぎて、切羽詰まった感情などないのかもしれないのだ。そこで人の心をひく手段としてのもの。日常において関心事のある事柄に興味を覚える批判なり、滑稽感が、俳句を面白くさせているのだろうとも思われる。

 だが、真面目に純粋に物事を見つめる俳人はいる。情感を豊かにして、俳句へ向かう心は失われてはいなかった。俳誌「歯車」の中にも情感を大切に日々努力している俳人はいる。

   敗戦日みんな死なない顔してる   椎野恵子

句集『ポピーぽんと咲き』より。戦争を体験し、しかもそのことをじっくりと今も心に宿すこころの情感。この思ったことを素直に語る、この言葉は意味ではないのだ。一見、滑稽感のように思いがちだが違う。これは実感なのだ。感情の発露が万人に共感を得る言葉としてある。この平易な言葉には実感の重みがある。それは体験を基にしての感情が感覚として、この言葉となって万人に共感する詩語を生んだと思われる。

 椎野さんはどんな時に句が生まれるのだろうか。例えば次の句に対している姿などを思考してみるのは面白い。

   蝸牛後ろにもどりたいという   

   跳び箱は嫌いなんです蟇     

   百足の足今日はなんだか揃わない 

   草餅や落研卒の嫁が来た     

上記の句のそれぞれを滑稽感だと思わないでほしい。ここにおける感情は…そんなことで簡単に割り切れるような情感ではないのだ。真剣に対象物を見つめている時の眼差しは心の発露なのだからなのだ。物を視て作者自身に撥ね返ってくる時の椎野さん自身は悲しいのかもしれないと、私は思ってしまう。何がそのように思わせてしまうのか、ゆっくりと考えてしまった。つまるところ、ここには人間という感情が動いているからなのだ。この感情こそが詩語なのだろうと思う。これこそが萩原朔太郎の詩理論の詩語としての基本だろうと思った。

 私たちは日々俳句を面白く思わせて作ってきているが、実のところそれは、すこしも面白くないのかもしれない。面白く見せているだけかもしれない。面白く見せてはいるがそれは、そのように錯覚させているだけで、見せかけの俳句なのかもしれない。それらが詩語になりきっていないのかもしれない。私は椎野恵子さんの句集より思ったこと…を述べた。情感、即ち感情の大切さが感覚として取り入れられることが、どれだけ大切であるかを強く感じて、このような検証を試みたのであった。