感性は時代により変革されてゆくもの  

                                        社会性俳句と前衛俳句の時代           

                                                 児 島 庸 晃

    私には…ふと思うことがある。俳句を書いていて何のメリットがあるのだろうかと、時々思うことがある。もっと有意義な社会参加はないものかとも思ってしまう。俳句が書けなくなった時などに、今でも私は、そのように思う。そして全く作れなくなる。…そんなことを考えて数十年が過ぎた。

    俳句を書くと言うことはネガティブからポジティブへ変化する心の葛藤をどう捉えるのかであろうか。ネガティブは現実の現風景。ポジティブはこのように在りたいと願いを込めた風景。この二つの風景を行き来する心が彷徨う時に表出される情感ではないだろうかとも思う。俳句における感覚派と認識派。感覚↓認識へ、認識↓認識。だが、認識のままでは感性には至らない。共感するとは何か。認識のままでは共感などはしない。共感することは感性としての味がいるのだ。感性には人間的な魅力が反映されているからである。特に思うことは、心が壊れてしまった現実の今の社会にあっては強く思う。人間としての魅力が感じられなければ俳句作品としては受け取れない。感性は如何にして生まれるのか。感性の磨き方の問題を追求することこそ大切。感性は一般的にはセンスとよばれている。感性は大きく分別すと二つある。そのひとつは身体全身で受け取る感覚としての運動神経の良いこと。もうひとつは心でその場の雰囲気を読み取って感じる力。芸術や文学など表現上における感じ取る力は心の感性である。感性は発想力やインスピレーションの思考力をもってなすもの。心で感じる感性は心にゆとりがなければあらわれてはこないかもしれない。感性は時代を通しての今を生きている社会への対応より生まれる。社会へ向かい反発するか、順応するのかによって変わる。作者自身の持つ忠実さを守る事による反応である。

    例えば社会性俳句論議がさかんに行われていたころの俳壇はどうであったのか。

            原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太

昭和三十年代の句である。「現代俳句協会データーベース」より抽出。ここには発想力やインスピレーションがある。「蟹かつかつ」が…それである。社会へ向かっての反発を自分自身の心に忠実にしての感性を磨いたものであった。この時代は自己の生きている意味を俳句に求めて闘ったことを感性に籠めようとしていた。昭和三十一年三島由紀夫原作の「金閣寺」が時代を風靡し、昭和三十五年には日米安保改定条約調印、安保改定阻止で東大の女学生・樺美智子さんの圧死と言う中での俳人の感性であったのだ。正に「蟹かつかつ」は作者のどうしようもない心で受け取る反応としての切羽詰まった発露であったのであろう。句全体の音数が二十二音あるのだが、句そのものの緊張感が強くある。何故だろうか。作者個人の強い意識が壊れていないためだろうと思う。…この思考がこの作者の感性なのである。十七音と言われている俳句なのだが、二十二音あっても感性の素晴らしい句では気にならないのだ、句の緊張感は保たれていた。この時代…社会性俳句の頃の特徴を示す感性であったのだ。 

     俳人として現代を生きている、或いは生き抜いてゆくことの意識を強く持つ自己の思想を句に如何に表現すのか、との問いかけが感性の基本であったのだ。社会性俳句の頃の主要感性であった。やがてこの感性は個人の主張を強く維持していたいと言う意識を生む事になる。そして新しい時代が始まるのだが、それが前衛俳句であった。

        音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢   赤尾兜子

この句だが、一般には前衛俳句だと思われている。句集『蛇』昭和三十四年俳句研究社より。どこの部分が前衛なのか。何故前衛なのか。従来の俳句感覚ではないことは確かだが。しかし作者の意識を辿ってゆくと見えてくるものがある。時代に対する敏感な自意識の反応である。ただの自己主張ではなかったのだ。自己に対しての溢れんばかりの誠実な態度があった。この生きていることの表白が感性として句に出てくる。この真剣な心の表白が、この時代の感性であった。

    この頃の金子兜太の言葉がある。

積極的に自己表出をもとめる先駆的俳句活動およびそれを行う人たちを前衛と呼ぶ.

この文言にあるように「積極的に自己表出」とある。この赤尾兜子の句にある「蛇の飢」は兜子自身ではなかったのだろうかとも私は思ってしまう。昭和三十年代は混沌としていた時代である。しっかりとした自己意識の思考をもたなければ生きては行けない時代であった。感性は、その時代にあったように変革するものなのである。だが、兜子は、この頃の俳人とは違っていていつも暖かな詩性の濃ゆい俳人であった。「音楽漂う岸」と真っ直ぐに進めて行く心の純粋性に、その感性を託していた。

    俳句は俳人個々の思考のままに個々の感性を句に示すものだが社会性俳句や前衛俳句の頃には、その他の時代には表現していないものがある。この時代ほど感性が顕著に表出されていた時代は、昭和四十年時代以後未だにない。それは何かと言えば…自己意識の社会に対する過敏さであった。社会へ向かって反応するのか順応するのかが自己表出の形で,それそのものが感性になっていたのではないかと私は思ってしまうことがある。

        塩田に百日筋目つけ通し   沢木欣一

句集『塩田』昭和三十一年より抜粋。当時の社会性俳句の代表句である。この句は「能登塩田」三十句の中の一句だが、塩田に従事する重労働を作者の目視に留まらない自己の社会参加の範囲にまで見詰めた鋭い感性を輝かせた社会性の濃ゆい作品であった。俳誌「風」の主宰者で、社会性俳句論戦の母体誌であった。何が問い詰められた感性なのかだが、この句における感性の基本的主張が「百日筋目」と視るその意識が労働者の意識になっていることそのものであった。そこにはイデオロギーそのものが俳人の眼ではなく社会的労働者の思考へと広げて書かれている感性なのである。

    沢木欣一は自らの立場を次のように規定した。

社会性俳句を「社会主義イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から生まれる俳句」であるとしたのだ。

    生き方の意識そのものを俳句にまで持ち込み社会に参加して自己の誠実さを社会に順応させることであったのだろうと思うのは私だけではないだろう。…これが社会性俳句論議当時の俳人のあるべき態度としての感性であった。

    一方、社会主義イデオロギーが論戦の末、何らの結論を迎えないままに社会性俳句が俳壇の場から姿を見せなくなるのだが、その根底には山本健吉の言葉があった。「俳句というものは文学である前に社会現象でありすぎる」との強い批判が俳壇を覆い始めてくるのであった。しかし、自意識の創出は衰えることなく、自己表出と言う形で前衛俳句が生まれてくる。当時の私の心を印象的にした句がある。

        キリン見上げて五月の胸を透きとおらす   折笠美秋

この句の何処の部分が前衛なのだろうかと思うのは私だけではないだろう。総合俳句誌「俳壇」2005年8月号より。全体を見通してもどこにも前衛らしいものが見あたらない。そこでいろいろ考えてみてわかったことがある。それは「胸を透きとおらす」の言葉である。当時はこのような表現は抽象的表現としていて現実・写実の表現としては好まれてなかったのではないだろうと思う結論を得た私であった。この部分が自己表出なのである。そしてこの自己表出が前衛的として表現される感性であったのである。いまの時代では数多くこのような表現スタイルはある。しかしこの感性は当時前衛的自己表出としての感性であったのだ。後にこの作者は難病と闘って病床で句を書くことになるのだが。ALS(筋委縮性側索硬化症)を闘い抜いて55歳で 他界した俳人であった。

     俳句作品を書き残してゆくと言う行為は、何を意味しているのだろうかと思う時、私たちはとても大切な事を忘れて毎日の俳句を書いているのではないだろうか。…ふと私はそんな気がしてならない。日々の暮らしの中にありながら社会に向かっていながらも、なんとなくの思考に留まり、日日平穏な考えの流れに沿って、何の発言もなしに自己記録を書きならべているのではないだろうかとも思う私が、いまここにいる。社会は、未だに個人にとっては満足なものではない。それなのに俳句の、否、俳壇は何故か自己表出を軽く扱っているのだ。もっと強く自己表出を句に出してゆくべき時ではないだろうか。社会性俳句や前衛俳句には生活そのものの自己表出が感性にまで及ぶ強い自意識で満たされていた。ただ、自然消滅したかに見える社会性俳句や前衛俳句には反省すべき点があった。それらの多くは詩性に乏しく俳句は「詩」であると言う意識を持たねばならない。

   では、この頃…昭和46年頃の俳誌「歯車」の誌上は、どのような状況であったのかと思うのだが、自己表出が感性にまで及ぶ強い自意識で満たされていた。 

        毛糸編む毛糸玉ほどの子を宿し  勝又千惠子

俳誌「歯車」99号より。この句には自分自身の生活に向かってゆく純粋にして真面目な自己表出がいっぱいある。ひたすらに生きている、或いは生き抜いてゆく必死な心が高度な感性にまでゆき届き作者自身を詩人にしているのだ。「毛糸玉ほど」と我が子を意識する時の愛情は強い生命へ向かっての保持の希求でもあろう。自己表出と言う意識の目覚めは「子を宿し」と言う言葉表現に結実して心を結ぶ。毎日の生活に向かって、しっかりと自分自身、作者の立ち位置を守り、自意識を自己表出しての強さが詩人へと変革させている。自身の心を守り、生活を守り、社会参加をしての詩情の深さが濃く込められている事が、社会性俳句や前衛俳句の辿って来た道とは異なっていた。

 同じく次の句も社会性俳句や前衛俳句が誤った方向へと進んでいた時だが、イデオロギーとしての偏った句にはならず、詩情を私詩に込めての自己表出句であった。

   幸わせのかずだけキャベツは渦を巻く  青木啓泰

俳誌「歯車」100号より。すこしばかり意味性の強く表現された句なのだが、それだけにイデオロギーへと傾きそうな雰囲気がある。しかしこの句は発想が口語体でお喋りになっているので、そのように思われがちである。だが、この自己表現の形式は、積極的に生活や社会に順応してゆく気持ちを顕著にしたものである。「幸わせのかず」と自ら動く順応の姿は当時の社会性俳句や前衛俳句の中にあってもイデオロギーになってはいない。この良さが当時の「歯車」であり、ここには詩情の私性があった。

 私たち俳人は、もっともっと自己表出をしなければならない時に今があるように思う。そして感性は、その時代に順応して磨かれてゆくように思う。かって俳誌「歯車」は社会性俳句や前衛俳句が俳壇を賑やかにした頃より、その基本精神であった自己表出の心は芽生えていたのである。それはイデオロギーとしてではなかった。文学としての私性の詩情としてあった。