2024-02-01から1ヶ月間の記事一覧

キャッチコピー言葉俳句を考える

一過性のコピーにすぎない俳句は心に残らない 児 島 庸 晃 俳句の世界でも、このキャッチコピーに等しいものもある。例えば、♀・♂、↓・∞、♭、など。このような記号を音数に読み一句の中に登場してくる。いまやキャッチコピーが俳句の王道を突き進んでいるか…

神戸新聞文芸 掲載作品(入選作品)

2023年度の神戸新聞文芸 俳句部門 2023年の神戸新聞文芸俳句1月・3月・4月・5月・6月・9月の入選句・8月特選句を紹介させていただきます。 児 島 庸 晃 ★1月入選句2023年1月3日朝刊掲載) うふふふと生きているふり懐炉抱き ★3月入選…

伊丹三樹彦先生の俳句は常に一人称で書かれていた

その一句には「何故」がある 児 島 庸 晃 小説をはじめ本の出版されるまでには、編集者や校正者の手を借りている。ヒット作のほとんどが、本の作者ではなく、編集者や校正者の思考に書き換えられていてのもの。勿論構想やアイデアは作者の思考だが、より理解…

俳句の本物とは何なのか ――

私性の句体を再思考してみると……… 児 島 庸 晃 日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのが、どれほど大変なことなのか。春日が私に囁きかけてくる部屋の隅でその日差しを見詰めていた。そしてその傍に置かれた新聞を見詰めていた。その新聞の連…

心の在り場所を求める 私を色に例えた表現俳句

ネガティブではないポジティブへと向かう精神 児 島 庸 晃 この度は句集『青』を頂き、貴重な句集ですのにありがとうございます。句を書き続ける事の大切さが、こんなにも日日の心の整理であることなのだと知る事になるのだとは…青三郎さんの句集を開くまで…

青 玄 青 春 俳 句 群 像

青玄クラブと言う存在感の重さの集まり 児 島 庸 晃 ふぅーと思いつき家を飛び出していた。何時の日にかとも思っていたのだが、阪急電車塚口駅より南西へ歩いていた。…もしやそこに青春の何かがあり、心を揺り動かしてくれるものがあるのではと、私なりに思…

リレー俳句のみなさんと嵯峨野に遊ぶ

秋霖の竹林瞳あけておく 児島庸晃 まっすぐに天へ伸びた竹の林をゆっくりゆっくりと歩き柿落舎へ向かっている私たち15人の探訪をしている間も雨の音はやむことはなかった。まさに秋霖である。天龍寺の庭を抜け北門より竹林へと通じる細い道にはその足音の…

「死」へ向かう「生」の美学…俳人……桂 信子

「滅び逝く美しさかもね」という俳人がいた 児 島 庸 晃 「滅び逝く美しさかもね」という俳人がいた これは桂信子の句集「新緑」を読んでの感想を私に語ったときのことである。私も、そう思えるものがいくつもあったと思い出していた。 さしかかるひとつの橋…

俳句としてのアドリブ表現(再掲載)

… 俳 句 の 臨 場 感 … 児 島 庸 晃 (ご要望が多かったので再掲載します) 毎日、毎日いろんな俳句の総合誌、それに同人誌や結社誌を読んでいて不思議に思うことがある。現代という社会生活のなかに生存していながら、社会感覚や生活感覚の薄い句のなんと多…

アナログ俳人のリアリズム考

…合 同 句 集 『 白 浪 』 の 啓 泰 さ ん … 児 島 庸 晃 青木啓泰さん…この人の作品に触れるたびに何時も思うことがある。その人にはその人にしか作れない俳句があるのだということを…。 日々の生活や日常の出来事に感動するってどんなことなのか、改めて思…

俳句の比喩表現あれこれ

比喩表現がどうして俳句にとって必要なのだろう 児 島 庸 晃 比喩表現がどうして俳句にとって必要なのだろうかと考え始めて、私の脳中は、ずーっと混乱の毎日である。俳句そのものが視覚からの発想によるものであれば、比喩の発想をする必要はないのではない…

エスプリ俳句のこの真剣さを見よ! 

柿 畑 文 生 句 集『 亜 流 』 俳 句 考 児 島 庸 晃 短詩形文学の魅力は何なのだろうとずーっと思考してもう五十年が過ぎる。その私の俳句人生よりも更に長年の含蓄を積み重ねてきたのが柿畑文生さんである。そんな柿畑さんから届いたのが句集『亜流』であ…

見えているものを使って見えてはいないものを表現

批 判 的 リ ア リ ズ ム 理論とは… 児 島 庸 晃 ‥つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳句で表現出来るかね。 上記の言葉は伊丹三樹彦からの私への問いかけの言葉である…

俳句にとっての緊張感・臨場感とは…

緊張感・臨場感とは何を指して言うのだろう 児 島 庸 晃 俳句黙読に関し、その緊張感・臨場感の持続時間は一分間以内である。この間に俳句そのものが理解・もしくは心に受け止めるだけのもの…緊張感・臨場感が得られなければ、その句は選句から除外されるの…

俳句における純粋さとは何?

一度きりの人生を踏まえ一行きりの俳句に賭ける 児 島 庸 晃 私の俳句の先生は一生涯を純粋な心で一杯の人だった。常に汚れ切った社会と闘い誠の心を俳句に表現する俳人だった。その俳人は、或いは文芸人の名は伊丹三樹彦。昭和35年頃より現代俳句を革命に…

俳句における動詞は使い方で意味が変わる

その具体例を示してその違いを書きたい 児 島 庸 晃 俳句には、その時の目視の状況によって動詞の使い方は変わる。表現は小説などの散文における表現とは異なる。17音という特殊な文体のためただ単なる一字といえども、その目的によって,動詞の使い方によ…

俳句アーチスト…

中永公子さん…句文集(2017年6月19日記述) 児 島 庸 晃 もう6月。…そんな事を思っている午後の事。あなたからの句文集「星辰図ゆるやかなれば」が届きました。編集が意外なほど斬新で中永公子さんらしいと思った事実が本物であったからです。いろんな方面で…

正述心緒は俳句ではなくて散文です

あなたの俳句が正述心緒になってはいませんか 児 島 庸 晃 あなたが俳句の形式を選択したのであれば、全ての作品を俳句で書きましょう。最近目立って顕著になってきたのが、俳句を作っているあなたが、俳句作品ではなくなっていること。観念思考が先行して、…

光りと影のツイン

伊丹三樹彦写俳展…おおオージー 児 島 庸 晃 平成元年「青玄」430号(12月号)掲載の私の文章より…忘れじの文章としてここに採録いたしました。読んでいただければ幸いです。(2008年12月16日記述) クリエイティブ俳句、クリエイティブ表現、…

俳句は可視と不可視の間に成立する(再掲載)

…心はいつも心眼… (ご要望が多かったので再掲載) 児 島 庸 晃 俳句は生きている実感、そしてその真実を如何にして記録してゆけるものなのか。俳句は可視の世界の現象だけではなく、不可視の世界に現れる心の変化を取り入れる必要があったのかも。心の中だ…

黎明の彼方から

黎明に至るひかりの森の夏 児島庸晃 JR神戸線より見える須磨浦公園は緑の森に変身しようとしていた。この公園は海からの風を受けて日々色を変えようとした時期があり、それより一年が過ぎようとしていたのだ。塩害のため葉っぱを枯らせ木々の寿命を全うさせ…

「取り合わせ」の妙味

六月や余白なきまで文字詰まる 児島庸晃 六月…このなんとなく嫌な雰囲気は避けては通れない。雨が多いと言うだけのことではない。⑥という数字は③と⑨の系列にある真ん中の数字。私はここ10年ほどシンクロ二ティなる研究をしているのだが、何かの事が起こる…

俳人依光陽子さんの言葉

点景の花火をまいている絵筆 児島庸晃 ただ見ているだけなれば…どうってことはないのだがそこに美意識をもつまでには時間と忍耐を要する花火であった。これはスカイマークスタジアムより打ち上げられる花火を8キロほど離れたビルの13階より見た光景である…

私自身が純粋になれた数々の思い出

感銘深く心を洗い流す体験より 児 島 庸 晃 たとえれば寒の最中の海白し 庸晃 二四時間勤務のためJR甲子園口駅を朝6時に乗る。何時もと同じようにきまった時間にきまった仕草をする。そしてそのことを別に不思議とも考えない日々が続いていた。私達が生活…

直情とそれを抑えようとの意識ことば…俳句とは

動詞の意味主体を考えると複雑 児 島 庸 晃 俳句には、直情と、それを抑えようと意識する、批判的な心が何時も同居して作者の胸中を苦しめる。そのときの方向性を示すのが、動詞の存在である。ときに作者の思いとは全く違う情感を示し突然の直情を奏でて句を…

素直さ純粋さは俳句の中でどう表現されたのか

自死すまで自分自身を崩さなかった俳人…赤尾兜子 児 島 庸 晃 第三イメージ論を述べていたころの赤尾兜子の句に私は、たびたび涙を流すことがあった。前衛俳句の最前線にいたようにも思われていた俳人だが私はそのようには思ってはいなかった。 いま思えば兜…

詩の本質とは何なのだろう

心への感情の取り込みは大切なことである 児 島 庸 晃 私の周辺で囁かれる気になる言葉がある。俳句の最近の現状についてのことだが、只事俳句が多くなったと言う。・・・これは何故にそのように思えるのだろうか。感動したと言える俳句がなくなったと言う。把…

 何故にいまも俳句を作すのであろうか

心 は き れ い に … 児 島 庸 晃 …そう思ってひとり静かに珈琲を飲んでいた。真昼の我が家。冬の日差しが部屋に置かれる午後。私の心が最も純粋になれる時間でもある。身も心もばらばらになってゆく私を、私なりに、それも密かに私を取り戻す。すべての心が…

句座って何なのだ?

芸術には鑑賞して楽しむ道と作者自ら楽しむ道の二つ 児 島 庸 晃 午前6時に家を出て通勤のため電車の駅へ向かう。ふと見ると国道2号線の温度計は1度を示していた。体中が硬直して足が前には運ばない。腕に力を入れては身体を推し進めるのだが、もはや晩年…

俳人伊丹三樹彦作品のコマ重ね・コマ割り

既成概念から脱出しようではないか 児 島 庸 晃 文明とは、文化とはいったい何なのか。そう思って俳句の事を考えていた。俳句も立派な文明や文化のひとつではないかと思えるようになったのは最近である。長い間に渡り、俳句は文芸の一部分で趣味的な私的なも…