俳句における純粋さとは何?

                           一度きりの人生を踏まえ一行きりの俳句に賭ける

                                                              児 島 庸 晃

 私の俳句の先生は一生涯を純粋な心で一杯の人だった。常に汚れ切った社会と闘い誠の心を俳句に表現する俳人だった。その俳人は、或いは文芸人の名は伊丹三樹彦。昭和35年頃より現代俳句を革命に等しいまでに変革させた人。だがその根底にあってそれを支えていたのは心の純粋性であった。

   屍室まで抱きゆく菊を 看護婦嗅ぐ   伊丹三樹彦

この純粋に物事を見つめることの出来る態度を私は純粋に見詰めた。純粋に見詰めることによって社会への参加を健全に考えた。いまそのことを見詰めるにおいてもどれだけ伊丹三樹彦が純粋であったか、自解の言葉でもわかる。

「…結果は身寄りをもたずして、病院での老衰死を迎えたようである。何とも哀れであった。実母は僕を手放したあと、淋しさの余り、他人の子を貰って育て上げた。がその息子からも何故か顧みられなかったとか。不幸の名を一身に背負ったような人生であった。生前の実母に何度か会っているが、僕に対しても退け目を感じたのか、言葉少なく一定の距離をおいて眺め続けるという態度をとった」。

ここには底知れぬ人間愛がある。少年から青年にかけての青春愛。中年期の生活愛。また晩年期の人生愛。全てを含む人間愛である。

   いつも誰かが 起きてて 灯してて 落葉の家  伊丹三樹彦

いろんな過去が頭の中にあった。俳句の前進改革を求めて立ち上がった伊丹三樹彦の姿であった。それは混迷の俳句の夜明けを求めて立ち上がった闘将のようにも思えた。昭和35年ごろのことである。関西から立ち上がった前衛化の兆しは、西へ東へとその傾向が現れ始めていた。このころ伊丹三樹彦は生活と闘う人々を援護し、積極的に生活の中に俳句を求めて歩いた。赤尾兜子、林田紀音夫、八木三日女といった人々の中にあって生活俳句に身体でぶっつかっていった。それは俳句が現実から離れてしまうと、このまま間違った方向へいってしまうのではないかという純粋性であった。せっぱつまった危機感でもあったのだ。俳句から言葉が先行し、生活感がぬけてしまうと、その後には何も残らなくなる。そのくだらなさに危惧を感じていた。生活があっての人間存在であったのだ。この言葉だけの前衛化の動きが、あいまいな社会性とからまって、それが本物俳句であるかのごとき姿を示していたのである。「いつも誰かが…」の句はその意味において考えを示した句であった。ここには純粋性そのものがあったのだ。

       一度きりの人生を踏まえ一行きりの俳句に賭ける

俳句結社「青玄」前記26である。三樹彦は正面からの対決。その純粋性が多くの俳人を育てたのだ。坪内稔典、鈴木明、伊丹啓子、たむらちせい、室生幸太郎、松本恭子、増田まさみ、諧弘子、花谷和子、、津根元潮、木村光雄、澤好摩、まだまだたくさんいる。私だってその一人でもある。