私 性 の 句 体 を 再 思 考
児 島 庸 晃
日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのが、どれほど大変なことなのか。冬日が私に囁きかけてくる部屋の隅でその日差しを見詰めていた。そしてその傍に置かれた新聞を見詰めていた。その新聞の連日の見出しに心が縛られていることに、自分自身が壊れてゆかない事を願った。戦争は未だに終わってはいなかったのだ。昭和20年に戦争は終了している筈なのに…。かつて観たイタリア映画の記憶が蘇る。その題名は「ひまわり」。第二次世界大戦後の心の傷が人間不信を呼び起こし男女の心が徐々に離れてゆく、そのような1970年のイタリアの反戦映画でした。大戦後のウクライナでの撮影であったことを思いだしての日々。多数の戦死者が埋葬された広大な土地、キーウより南へ50キロ、この土地にひまわりが一杯咲いているシーンから始まる。この映画の監督はヴィットリオ・デ・シーカ。イタリアンリアリズムの創始者。チネチッタ国立映画所の出身。人間の我儘が顕著に現れたウクライナ侵略。人間の心が壊れてゆく瞬間の凄まじさ。…これは心の純粋さがなくなり人間の我儘が極端に顕著に表面化し心の壊れてゆく瞬間でもあった。いま改めて心の純粋性を考える。この思いを文芸の基本にしなければならないとも強く思った。それはそこに自分自身の存在があり、作者の純粋思考が入っているからである。その純粋性の思いを強くした私であった。文芸では戦争は止められないが、個々人の心を壊れないように日々努力することは出来る。心を正しく保つことは出来る。…そのような思いの心を純粋にすることは出来る。これら一連の俳句表現を可能にすものを私性の句体と言う。
私の少年時代の俳句の師匠、伊丹三樹彦は、私達に俳句を作ることの意義や目的を克明に示し続けた俳人だった。その目的とは俳句で私を語る、私の思いを詩情で奏でる純粋性を多くの若者に示す人であった。極限した言い方をすれば作者個々人の思考をはっきりと示すことであったように思う。謂わば生活俳句の実践であり、作者本人の思考に純粋性の方向性をもたすことであった。これら一連の私の心を純粋に導く方向性を分かり易くすることそのことそのものを私性の句体と言えるのだろう。俳誌「青玄」一〇〇号で主宰者・伊丹三樹彦としての立場での発言、その中で次のように明記されていた。
隠れているものまで見えたように書く
これは従来からの見えているものを見えたままに書く
と言う素朴リアリズムの思考に対しての発言であったのだ。つまり従来からの写実主義に対してのものの中には私性は生れてはいなかったのだ。これはこれ以後の批判的リアリズムの基本的思考ともなってゆくのだが。「隠れているものまで見えたように書く」とは物を見る時、ここには心がこめられていなければ、何も見えてはこないのである。それも思考の心を無にして物に対峙しなければ、何ごとも見えてこない。見えているままなのだ。所謂「見えているものを見えたままに書く」の素朴リアリズムの思考なのだ。従来の俳句には作者の私的なものの考えは俳句の中心にはなされていなかったのである。俳句の中に「私」を中心にすることは伝統俳句の基本的思考では実行されてはいなかった。このことを実行するのは大変なことなのである。何故にそう思えるのであろうか、私は考える。句そのものが説明言葉になってしまうからである。これは表現された句が散文になってしまうからでもある。何故散文になってしまうのか。読者の心を取り込む形が出来ていないのだ。目視の対象物に向かった作者の心が汚れているからである。目視時の心が日常の生活のままであったのでは何も見えてはこないからだと私は思う。心が無になっていなかったのではないかと。日常生活の続きであったのであろう。この事は物の目視時に作者自身の俳句言葉から純粋性の心が受けとられてはいなかったのだ。
居眠り老爺の 手から倒れた 日向の杖 伊丹 三樹彦
この句には三樹彦自身の私性があり、尚且つ方向性が見えている。俳誌「青玄」一七七号(昭和四〇年五月号)の掲載。この句のどの部分が私性なのだろうか。この句には擬人化された俳句言葉がある。「手から倒れた」と言うこの表現言葉こそ私性の句体なのである。普通の表現なれば「手から離れた」なのだが。ここには三樹彦ならではの主体性があり、純粋に物を目視しての人間の心が壊れていないことの証でもあった。老爺の精神的なものの心を純粋に目視した時の「私」の存在があった。「離れた」ではなく「倒れた」なのである。これを私性の句体と言う。いま俳句作りに最も大切なのは、人間の心が壊れていないことである。特に世の中が自分勝手な振る舞いの思考の時代。文芸は心を純粋に戻す、心が壊れてはいないかを改めて見つめ直す原点であらねばならないように私には思えてくる。エゴイズムから生まれた心の壊れである。エゴイズムからうまれた社会現象はロシアによるウクライナ侵略と言う容をなして心の純粋性を壊してゆく。これは表面上は見えていないもの。正に伊丹三樹彦の言う見えてはいないものである。不可視のもの。この心こそが見えてはいないもの。この見えてはいない心こそが大切なのである。私はもう何十年も以前に心の純粋性を三樹彦より教わった。
隠れているものまで見えたように書く
であった。これを私性の句体と言う。文芸では戦争は止められないが、心を正しくして心を壊さないことは出来る。見えてはいない心を純粋にして心を壊さないことは出来る。私性の句体を強く維持しなければならない所以である。