児 島 庸 晃
2007年2月14日朝のことであるが私にとっては忘れられない思い出がある。24時間勤務を終えて施設を出ると身体ごと吹っ飛ばされる。不意打ちというただならぬ出来事。ふたたび両足で踏ん張るも身体はぐらぐらと揺れて不安定。なんとその時30メートルの風速であったとは…翌日新聞にて知る。春一番であった。だが私がこの強風に必死に耐えたのはほんの一瞬であったが一生を社会の強風と闘いながら生きた俳人がいる。門田泰彦「青玄」同人。その一生を結核と闘い暮らす日々。再起をはかるもまた再発入院を繰り返す生活であった。その姿はまわりの人々に生きる勇気と活力を与え続けていた。
いっそ強風とならば 辛酸やわらぐ葦 門田泰彦
自分自身を「葦」と捉え自分自身を自ら放棄しようとしたその心。…ここには人間のもろさを示している。生きてゆかねばと思う気持ち、そして生きてゆくことへの不安、生活への不安、これらのもろもろを身体ごと受け止める純真純粋を常に有している。強風に折れようとする葦は泰彦自信であった。伊丹公子は「ペーソスを漂わせたコクのある秀句」と評し、また守田椰子夫は「一句一句には人の胸を刺し、そこから感動の波が拡がってゆくような充実がある」という。私は物事に対しての一歩も引かない純粋さを思った。
老爺と居て火を掻く 泪復活す 門田泰彦
泰彦はこの句をもって当時、「青玄」微風集欄の巻頭におどりでる。人生再出発の句でもあった。当時泰彦は独学で磨いたグラフイックデザインを自立の糧として青玄同人でもあった上原政一のデザイン社で働いていた。服部緑地にある草城句碑は上原政一のデザインであるが、ここの一句一句の文字のレタリングは門田泰彦の手によって生み出されたものである。また「青玄」の表紙の文字も泰彦の手力によるもの。この頃泰彦は大阪市住吉区帝塚山の近くにある家の二階を借り、ここをアトリエとして生活への出発を賭けていた。生か死かの賭けであった。私はこのアトリエにたびたび行ったことがあるが、ここで泰彦は人生を、生活を考えていた。主幹三樹彦はこの句を選していてふと、泰彦の泪を見た思いがしたと私にもらしたことがあった。真剣に生きてゆこうとする泰彦への賛美であった。この主幹の賛美は多くの人たちの奮起を促し、社会へ現実へ、立ち向かってゆく作家の勇気を生んだのだ。当時私は良い句を作らねば、そしてみんなに本当に納得のゆく素晴らしさを問わなければ、人生をあたたかくしてゆかなければと思った。主幹は選することにおいても、その人にあったもの。真実のもの。心の底から叫びだしてくるもの。嘘でない人間を好んだ。泰彦の叫びともとれる生活の希求を最も深く賛美した。この主幹の真情の発露。泰彦の真情の発露。なんという純粋さの発露ぞ。
あめんぼ寂と「ほかにどんな姿勢がある」 門田泰彦
この呟き。ここに至るまでの泰彦を思えば私にも泪が出る思いである。泰彦は高槻市の日赤阿武山の療養所で「青玄」を知る。ここの病院俳句会の出身である。ここには三木敏郎や木下十三、久米和子という同人がいた。これらの同人に現代俳句のあり方を喋り反発を食らっている。その後大阪支部句会に出るようになって泰彦の思考は認められるようになってゆく。ここには佐々木砂登志、松本円平、三宅美穂(三穂)、樋口喜代子、寺田もとお、という個性の強い人たちがいた。あの批判的リアリズムを打ち出した母体である。激しい議論のあまり、私は何度か目をつぶることがあった。それでも三樹彦主幹は容赦なかった。ものすごい議論の応酬であった。…こんな環境の中で泰彦は育ってゆく。そして「青玄」第6回新人賞(昭和38年)、第18回青玄賞(昭和42年)を受けることになるのだ。後輩思いでもあり、私は親切な指導を度々受けた。後に私が第39回青玄賞を受け、第32回評論賞を戴けるようになるのにも泰彦の指導による部分が多いい。「あめんぼ」の句は必死に生活に耐えていた頃のものである。布団一つを持って、あちらへ、こちらへと寝ぐらをを求めて歩いたあの日の泰彦を、後ろから眺めるしか出来なかった私。この私の思った姿勢と泰彦の姿勢、そして主幹三樹彦の姿勢は所詮あめんぼに過ぎなかったのだろうか。