見えているものを使って見えてはいないものを表現

                                        批 判 的 リ ア リ ズ ム 理論とは…

               児 島 庸 晃

 

  ‥つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳句で表現出来るかね。

 上記の言葉は伊丹三樹彦からの私への問いかけの言葉である。この語りかけを思い出すたびに私は、作者自身そのものにおいて俳句を作り続けてゆくことへの自己矛盾が燻り、日夜の自己への苦しさを内へと閉じ込めていたのだろうとの思いに私も閉じ込められていた。そして私なりに自問の解けた句を知る日がくるのだが。それはまだ写俳運動を創始する以前の句に、その原点があるのではないかと思った瞬間だった。  

   古仏から噴き出す千手 遠くでテロ   伊丹三樹彦

この句は後に句集『樹冠』に収録されることになるのだが、伊丹三樹彦にとっては自己変心への糸口になった句ではないかと私の心の中に残る句となるのである。私がこの句を見たのは、俳誌「青玄」130号(昭和35年11月号)誌上だった。私がこの句を見て驚愕したのは、見えてはいないものまでも見えるように表現すると言う批判的リアリズムの思考であった。目視しても全く見えてはいないものまで俳句言葉に出来るのだと思った。限りない心表現の可能性に一瞬、緊張し手が震えた想いがいまもよみがえるのである。その俳句言葉とは「噴き出す」。千手観音と向き合っての目視状態の「古仏」からは「噴き出す」と言う感じではないのだ。千手観音とは固有名詞の名のごとく観音様の御神体から千本の手が出ていると言う姿そのものなのだが、この句の表現は、そうではないのである。「噴き出す」…なのだ。この感受は目で見えてるままではなかった。つまり見えているそのものではない、見ようとしなければ見えてはこないもので不可視のもの。そして人の心の在りようは不可視の中にこそ潜むものだろうと私は思った。全ては日常の出来事・姿だけが五・七・五の定形であってはならないのである。やはり俳句は目視に始まり、目視に終わるのでは、と思う私の日々が続いている。だが、最初の目視と最後の目視は全く違うのではないかと思うようになった。物を最初に見た時点では見えたままの姿・形なのだがしばらくじっと見ているといままで見えてはいなかったものまでも見えてくるのである。これは見ようと強く意識して見るからであろう。これまで見えてはいないものまでも見えているように表現することなのである。ここには作者、その作者ならでの見えてくるものがあり、それらがその作者の感性でもある。これが寄物陳思の基本的思考なのである。その理論の現実感を批判的リアリズムと呼称してきたのであった。いまあらためて思考するにおいて、「古仏から噴き出す千手」の句が、後に写俳へとの思いを引き継いでゆく原点であったのだろうと思う私のいまがある。当時は社会性俳句の真っ最中であった。金子兜太の句に俳壇が注目、集中する時である。三樹彦は本来の句のあるべき姿へ向かって、孤立の中にあっても句の真を求めていた。

 伊丹三樹彦の写真の師匠は岩宮武二である。岩宮武二は大阪芸術大学の教授でもあったが、俳人でもある。かっては岡本圭岳創刊「火星」の同人でもあった。このような状況の中にあって俳句のあるべき姿を岩宮武二とも、たびたび話し合ったのだとも私は三樹彦から伺ったことがある。そしてこれまでの俳句の抜け落ちている部分を批判的リアリズム理論へと結びつけたものだろうと私はいまでも思う。そして当時の「青玄」大阪支部のメンバー、佐々木砂登志・寺田もとお、三宅三穂へと、その研究を依頼しているのである。私と門田泰彦の二人がオブザーバーとしてその研究グループに参加していた。そこで研究されていたのが…見えているものを使って見えてはいないものを表現…するだったのである。これは批判的リアリズム理論の基本的思考なのであった。

 伊丹三樹は99歳で彼の世へと旅立たれた。大きな多くの業績を残して…。いま私は考える。分かち書き俳句と写俳運動と。写俳については、その基本的思考は何であったのかを述べた。俳句を成していることの自己矛盾の解決が写俳への挑戦であったのではないか。そしてその基本と言えるものが、…見えているものを使って見えてはいないものを表現…するの批判的リアリズム理論であったのだろうと私は思う。