人の心を動かす俳句とは…寄物陳思の心 

                    見えているものを使って見えてはいないものを表現

                 児 島 庸 晃

    私達が毎日を日々暮らしている世界は目視出来る二次元の世界である。目視出来ている毎日の出来事や日々の生活風景に、何の疑問も持たず生活を繰り返しているのだが、これらは二次元の世界である。俳句を正しく理解しようと思えば、表現されたその一句は二次元の世界だけではないのである。人間の内面を表現しようとすれば二次元の見えている部分だけでは描ききることはできないのである。文芸の大きな用途とは、またどのようなメリットがあるのかをいま私は思考する時間が多くなってきた。そこでいろんな文献を集めたのだが、俳句に関する部分では、殆どと言っていいほどないのである。俳句を成していることのメリットは人の暮らしの中における失った心の回復ではないかと思うのが私のメリットである。見えているものは現実のありのままの姿である。人と人の触れ合いは、その人の心にあり詳細は二次元の場面では形たけの行動そのものなのである。真の心の触れ合いは二次元の現実行動には出ないのである。心とは見えてはいないものである。何故なのだろうと私は思った。心とは三次元の世界の中にあって現実には見えてはいないものである。見えている具体的な形を作って見せてやらなければ姿を現さないのである。これを寄物陳思の心と言う。 

   そこで…見えているものを使って見えてはいないものを表現…の思考が生まれてくるのだろうと、私は思うようになった。見えているものとは可視のこと。見えてはいないものとは不可視のこと。見えているものは写真で表現出来るが、見えてはいないものは写真では表現出来ないのである。この自己矛盾を追求しようと挑戦する俳人が俳壇に登場する。現代俳人の鬼才「青玄」主宰者、伊丹三樹である。1978年、写真と俳句の相乗による「写俳」運動を創始する。写真家たちでも、俳壇でも誰も行わなかった試みだった。当時、いろんな誹謗中傷が俳壇上に飛び交った。俳人が写真の世界へとコラボレーションしたことへの疑問における批判であった。だがその答えを伊丹三樹彦は自身の作品で示してゆく。その成果は各地での写俳教室の誕生となってゆくのだが、真の心の表情は、二次元の目視で得られる現実の光景の中には見えてはこないものだった。見ようとしても、意識しての思考がなければ見えてはいないものなのである。

 

 …つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳句で表現出来るかね。

 

 上記の言葉は俳人伊丹三樹彦からの私への問いかけの言葉である。この語りかけを思い出すたびに私は、作者自身そのものにおいて俳句を作り続けてゆくことへの自己矛盾が燻り、日夜の自己への苦しさを内へと閉じ込めていたのだろうとの思いに私も閉じ込められていた。そして私なりに自問の解けた句を知る日がくるのだが。それはまだ写俳運動を創始する以前の句に、その原点があるのではないかと思った瞬間だった。  

   古仏から噴き出す千手 遠くでテロ   伊丹三樹彦

この句は後に句集『樹冠』に収録されることになるのだが、三樹彦にとっては自己変心への糸口になった句ではないかと私の心の中に残る句となるのである。私がこの句を見たのは、「青玄」130号(昭和35年11月号)誌上だった。私がこの句を見て驚愕したのは、見えてはいないものまでも見えるように表現すると言う批判的リアリズムの思考であった。目視しても全く見えてはいないものまで俳句言葉に出来るのだと思った。限りない心表現の可能性に一瞬、緊張し手が震えた想いがいまもよみがえるのである。その俳句言葉とは「噴き出す」。千手観音と向き合っての目視状態の「古仏」からは「噴き出す」と言う感じではないのだ。千手観音とは固有名詞の名のごとく観音様の御神体から千本の手が出ていると言う姿そのものなのだが、この句の表現は、そうではないのである。「噴き出す」…なのだ。この感受は目で見えてるままではなかった。つまり見えているそのものではない、見ようとしなければ見えてはこないもので不可視のもの。そして人の心の在りようは不可視の中にこそ潜むものだろうと私は思った。全ては日常の出来事・姿だけが五・七・五の定形であってはならないのである。やはり俳句は目視に始まり、目視に終わるのでは、と思う私の日々が続いている。だが、最初の目視と最後の目視は全く違うのではないかと思うようになった。物を最初に見た時点では見えたままの姿・形なのだがしばらくじっと見ているといままで見えてはいなかったものまでも見えてくるのである。これは見ようと強く意識して見るからであろう。これまで見えてはいないものまでも見えているように表現することなのである。ここには作者、その作者ならでの見えてくるものがあり、それらがその作者の感性でもある。これが寄物陳思の基本的思考なのである。その理論の現実感を批判的リアリズムと呼称してきたのであった。いまあらためて思考するにおいて、「古仏から噴き出す千手」の句が、後に写俳へとの思いを引き継いでゆく原点であったのだろうと思う私のいまがある。当時は社会性俳句の真っ最中であった。金子兜太の句に俳壇が注目、集中する時である。三樹彦は本来の句のあるべき姿へ向かって、孤立の中にあっても句の真を求めていた。

 伊丹三樹彦の写真の師匠は岩宮武二である。岩宮武二は大阪芸術大学の教授でもあったが、俳人でもある。かっては岡本圭岳創刊「火星」の同人でもあった。このような状況の中にあって俳句のあるべき姿を岩宮武二とも、たびたび話し合ったのだとも私は三樹彦から伺ったことがある。そしてこれまでの俳句の抜け落ちている部分を批判的リアリズム理論へと結びつけたものだろうと私はいまでも思う。そして当時の「青玄」大阪支部のメンバー、佐々木砂登志・寺田もとお、三宅三穂へと、その研究を依頼しているのである。私と門田泰彦の二人がオブザーバーとしてその研究グループに参加していた。そこで研究されていたのが見えているものを使って見えてはいないものを表現するだったのである。これは批判的リアリズム理論の基本的思考なのであった。

 この批判的リアリズム理論は加速してゆくのだがその教えのもとに育ったのが門田泰彦・上野敬一・私である。そのような中にあり、三樹彦自身の俳句に対する自己矛盾は、三樹彦自身の心の在り方を変えてゆくことになるのだが。いまも私の記憶の中に残る誌上作品がある。「青玄」212号(昭和44年1月号)の目視の目の鋭さは…見えているものを使って目には見えてはいないもの…を表現する心を具体的な形や姿にして見せるものだった。

   童女ぎんの墓とある 雪上に一蜜柑   伊丹三樹彦

この句は写俳運動へ発展する原点ともなる「古仏から…」の以前に既に作者自身の句に向かうときの自己矛盾として存在していたのではないかとの思考が私の推察に至る過程になった。或る日、突然、写俳が俳壇に登場してきたものではないように最近になって思うようになった。人気とりだとか、俳句を愚弄するものだとか、俳壇上に批判の意見が出ていたのだが、決してそんな安易な思い付きではなかったように思うのは私だけではないようにも思う。各地に写俳教室が活況を示し、写俳展が、その価値を上げてゆくなかにあり三樹彦の俳句そのものも充実してくるのである。

   万紅に 反旗の白の 彼岸花    伊丹三樹彦

この句は「青玄」378号(昭和59年11・12月)誌上作品である。写俳運動創始以後7年後の作品である。この句こそ…見えているものを使って見えてはいないものを表現…の思考が生まれてくるのだろうといまも私は思う。作句上における自己矛盾を自ら形を整えたものとして発表されているものと、私の確認の中にある。「彼岸花」の目視に際し「白」花を「反旗」と自覚する思いは自己矛盾の解決であったのであろう。写俳は一枚の誌面には書き表せない矛盾を、自己追求するに対し自ら解決へと進めたものであろう。…見えているものを使って見えてはいないものを表現することが写俳運動における俳句のその一句一句であったのであろうか。

 伊丹三樹は99歳で彼の世へと旅立たれた。大きな多くの業績を残して。いま私は考える。分かち書き俳句と写俳運動。写俳については、その基本的思考は何であったのかを述べた。俳句を成していることの自己矛盾の解決が写俳への挑戦であったのではないか。そしてその基本と言えるものが、…見えているものを使って見えてはいないものを表現…するの批判的リアリズム理論であったのだろうと私は思う。