俳句…その構造

             …… 変化させる面白さ……

                 児 島 庸 晃

 俳句を面白くさせることを考えていると、ひとつの思考が私なりに見えてくるこがある。十七音と言う言葉の制約は、言葉の扱いにおいて不自由のように思われているが、実は真逆である。本当は想像の翼を広げる自由を鑑賞者に与えているのかもしれない。言葉ほど観念的なものはない。説明的な言葉の思考を、その言葉の主体にすると、観念の丸出しになってしまう。…そのことを考えると、小説的な、或いは散文的な展開は好ましくはないのである。その主体が凝縮された言葉そのものでこそ、十七音のもつ言葉の思考は想像の翼を広げる。言葉は開かれた未知の世界へ旅立つのだと思う。

 言葉とは意味を正すものではない。不思議な情感を喚起して人々の心へ定着する入口であるのかもしれない。そしてその先への展開は、決まった固定観念ではなく、人それぞれの想像へと、その言葉は、個人的な意味をもつのではなかろうかと、思えるようになった昨今である。そのことは、誰にでも受け入れやすい自由を十七音は生むことの基本なのではなかろうかと…ふと思った。

 そこで俳句の構造上の形について考えてみようと、その十七音の細かい分析を試みてみた。十七音と言っても、ただの言葉の羅列ではないのである。ここには、或る一定の決まりがあって、その一つ一つに役目がある。上五音、中七音、下五音、と区切られて音読する、そのことは、別に問題ではないのだが、ここに重大な役目があって音読している人は、そんなに沢山はいない。なんのために区切りがあるのか、どうしてこのような区切りがあるのか、改めてそのことを考えたいと思うようになった。小説の構造には、起承転結と言う一定のフォーマットが埋め込まれているが、俳句にも基本的な構造はある。

  上五音…導入部

  中七音…展開部

  下五音…終結

それぞれの役目としての構造上の形がある。ここには人それぞれの心を伝達するに定まった形はない。どの俳句を見ても、意識してこの役目を守ろうとしては、誰も作ってはいない。この構造は、俳句にも一文としての成立があるのではないかと分析し、現代俳句の俳人たちによって定義付けられたものである。また、小説の起承転結に対し、起承だけを表現して、転結は鑑賞者に委ねられていると言う俳人もいる。何れにしても、この導入部、展開部、終結部の俳句の音感読みは作る側ではなく、読み手に受け取り易くするものであった。

   近づく雪国 座席で躍るハートのA  花谷和子

この句は俳誌「青玄」同人時代のものである。和子さんは、その後「草苑」同人を経て、昭和48年「藍」を創刊主宰すのだが、この句の発表されたとき、私は二十歳であった。この句が未だに鮮明に私の脳裏に残っているのは何故なのだろうと思う。数日してわかったこと。それは何より、導入部、展開部、終結部の処理の仕方に、感覚的な新鮮さを受けとることができたからであった。導入部を語るのに表現者は読者との間に違和感があってはならない。俳句における書き出しは、もっとも大切なもので、それが導入部なのである。この句、上五音の部分が八音ある。だが、散文的ではない。「近づく雪国」と隣人にでも話しかけるように極自然に発想する心のほどを思うとき、作者の人間性がやさしく、やわらかな微笑ましいものとなる。作者と鑑賞者の間に心の距離感がないのである。…この親しさが導入部には求められる。すーと引き込まれるようなリズムの音感表現を、次の展開部は受け取り、また受け渡し終結部へとつなぐ。その音感の快い流れが「座席で躍るハートのA」への序章となって心に定着する。このような一連の創作作業は意識して出来るものではない。もっとも人の心が問われる部分が、この導入部には現れる。俳句にとって最も大切な表現を有するのではないかと…思ってしまっていた。

 この上五音部分だが、定形を守っているものばかりではない。芭蕉も…そうだった。上五音は導入部だけに変化があればあるだけ注目される。人の心に緊張感を与え刺激を強める。次の句は上六音である。

   旅に病で夢は枯野をかけ廻る  松尾芭蕉

あまりにも知名なこの句、元禄7年作。旅の一生であった芭蕉にとって漂白のイメージが強いがここには破格のエネルギーを要している。この精神力を伝えるには「旅に病む」と言い切る定型では時間の流れや月日の経過を言いつくすには不十分であったと思われる。「で」と連用形の助詞を使って中七音へと継続する必要があったと思われる。

   子は端役の雀のお面深く被り 石川日出子

この作者の俳誌「青玄」時代のものだが、この導入部の扱いについて自解がある。「(子は端役の)を(端役なり)とすればすっきりするのだがかえってたどたどしさが合うような気もして、口をついたままとした」。日常生活のありふれた現象をより強く印象づけている。このように上五音の破調を現代俳句は、恐れてはいない。より読者との違和感をなくすように、それぞれ努力していることが伺えるのである。それは日常の生活に添っていて、何の不思議も感じないのである。

 それでは導入部のさまざまな思考の言葉たちはどのように展開されているのでしょうか。…それが中七音部分なのである。俳句は散文のように文章の流れのままに意味を理解してゆくものではありません。言葉のもつ意味の一つ一つの飛躍や衝突、または、ズレなどの方法によって想像の翼を限りなく広げてゆくものなのである。そのことを感覚で捉え、言葉で表現して魅せるのが俳句なのだ。

   一月の川一月の谷の中    飯田龍太 

この句、とても解りやすくて映像が鮮明。そのことの工夫が中七音部分に託されている。「…川一月の…」と。「…カワ・イチガツノ」と音数が二音・五音となってコマ割りされている。したがって二音と五音の衝突がある。この音の衝突はコマ割りされた言葉…川…一月の…衝突である。それぞれの言葉のもつイメージのぶっつかりがある。散文では、このような文章の繋ぎはない。俳句にだけある構造であり、中七音の魅力としての文体である。

   七夕を待たずに橋を渡るかな   秋尾 敏

この句の文体は中七音の部分が繋ぎの音感である。言葉のズレ具合を見事に調整して受け、また調整して次へ渡している。「…待たずに…橋を…」と上五音からの言葉を素直に 受け、心を浄化し、次の目的へと言葉を飛躍させて渡す文体なのである。言葉を無理に飛躍させるのではなく言葉として流れるままに、それぞれが異なる言葉の情感を心のなかで調節操作して、終結部の下五音へと引き渡す。繋ぎとしての展開部なのであった。

 中七音部分は、言語の衝突や飛躍、またはズレを想定しての言葉の繋ぎの魅力を広げ、その句を読む者に余韻を与える役目を持っていた。

 …では、終結部の下五音は、どのような終わり方をしているのであろうか。この部分、大別すると二つある。名詞止め、そして動詞止め、である。細かく分析すれば、疑問詞、感嘆詞、形容詞、助詞、とあるようだが、これらは極めて個人的であるので、分類からは除外した。

   水の秋ときには潜水艦の河馬   堀部節子

俳誌「青群」16号より抜粋。この句、名詞止めなのだが、通常の下五音ではない。中七音の一部である「…艦」を受け継ぎての下五音である。何故に?。中七音の一部である「艦」の二音を下五音へ受け渡すときのリズムは直接比喩へ結ぶのを止めている。中七音の一部の二音と下五音の間にはすこしばかりの小休止が生まれ、ズレが出てくる。このズレが人の心を擽るのである。このズレの余韻が残像となり、下五音の「…の河馬」を、より強くイメージさせて、脳裏には記憶されやすくなる。勿論のことだが、…このようなことなど作者は意識しては作ってはいないだろう。最近の俳句作品には、このような中七音と下五音を一つの連帯語として使用する句が多くなったようにも思う。だが、名詞止め下五音終結部でこそ、この効果は生かされているように思う。中七音からのリズムを維持するのに動詞止めでは流されてしまうからなのである。この文体は、これから流行になるだろう。

   舌という肉を遊ばせ鳥帰る   前田 弘

平成22年の作品である。終結部の「鳥帰る」は動詞止めなのだが、最もオーソドックスな手法。だが、よく見ていると、俳句がここで終わらないで、まだ続いているような錯覚を覚える。この突き放したような表現が、そのように思わせているのだろう。同じ動詞の用語使用でも心の奥に残しておくべき必然は言葉を選ぶ。「鳥渡る」にしたらどうなのだろうと、私は考えてしまった。だが…ここは終結部、「鳥渡る」ではないと思った。「鳥帰る」がベスト。「鳥渡る」は上五音の導入部の受け入れが正しいと思った次第である。終結部は、句そのものが全て終わるのではなく、導入部へと戻ってゆく言葉の含みや仕掛けを、言葉そのものに作っておかなければならない。または繰り返しの文体を施しておかなければ、ただの説明の言葉に終わってしまうのではないか。この句の映像は、作者が遠くを眺めている視線の先に、何時までも消えない「帰鳥」の姿が永遠と続くことを思わせる。そのことは詠み終わった後に、何回でも導入部へと反復する「鳥帰る」の言葉を作者が強く意識してのことであったのではあるまいか。終結部は、ここで終結するのではなく、導入部へ反復されるものでなくてはならない。

 俳句の新鮮さが問われてから、もう何十年も経たが、未だにその回答は得られていない。いくら言葉を新鮮なものへと希求しても、これまで何の進展もなかった。だが、私は思う。それは俳句の構造そのものを変革しなければなんら変遷はないのだ。いま一度改めて考えたい。