俳句は…たった一行の織り成す言葉 

        その一句に表現されてはいない言葉の存在を知る

                 児 島 庸 晃

 俳句はたった一行の織り成す言葉である。その中から表現されていない言葉にこそ抒情が隠されている。その言葉が想像出来る言語が一行の十七音に含まれることこそ大切なのである。一句を完成させるときに表現されてはいない言葉の存在を知ること、それを感じとれる表現こそが、俳句であり、詩なのである。ここには言葉が説明される使い方はない。

   遺品あり岩波文庫阿部一族」   鈴木六林男

句集「荒天」(昭和二四年)より。この句の「遺品」とは何を意味しているのだろうか。普通は亡くなった人が遺したものなのだが、この句の場合は戦場の兵士が遺したものを示している。従って十七音として表現されてはいない言葉に「兵士の」と入る言葉があるのである。だがこの「兵士の」の言葉を一行に組み入れると散文になってしまうのである。何故なのかとも思う。「兵士の」の言葉が意味を示す説明言葉になるからである。大切な俳句言葉が説明文になってしまってはならない。読み手に想像させるイメージを提起させねばならないので、いつも表示されるその言葉の裏に、或いはその奥には大切な言葉が隠されているのである。その部分を読み手は感覚として悟らなければならないのである。その心には緊張感や差し迫る緊迫感が常に生じる。この部分に詩が現れ抒情が生じるものである。俳句は読み手を必要とし、作り手の主張だけが堂々と大手を振ってまかり通る文芸ではない。ここが散文とは区別されているのである。正述心緒になってしまっては俳句の性質を壊すことになり、句自身の深まりを損なうことになる理由である。そしてこの当時一番よく読まれていた「岩波文庫」なのであり、心を一杯に広げて緊張寒を盛り上げているのだが、ここにも省略され、十七音に表現されてはいない言葉がある。「愛用書」の何時も戦場でお守りのように携帯していた必需品の存在。読み手は想像を広げてイメージする。「岩波文庫」には表言葉と裏言葉があり、「愛用書」は裏言葉なのである。この表裏一体の言葉より心に緊張を取り込むのである。このように俳句には表裏一体の言葉があり、常に一行に表現されてはいない言葉の存在を想像して句自身に本物感の凄さを感じさせているのである。俳句が詩であるための条件は説明言葉にならないこと。

 正述心緒とは何なのかを私は検証し、そしてそこに至る過程に俳句そのものが説明言葉になっていることの多さを知る。なんとその数の多いことよ。これはそれぞれの句会の場で高点句を得ようとするためであることが、いまの一つの流れなのかとも私は思った。だが、俳句は散文ではない。正述心緒ではない。説明言葉になってはならない。読み手は、十七音の中に表現されている言葉の裏や奥に多くの言葉が隠されているこを感じなければならない。俳句には表現され表示される表言葉と、表現表示されない、削り落とされた裏言葉とある。この表言葉と裏言葉の引き合わせの緊張感より出来ている。それらの言葉は吟味された言葉であり。俳句の一行から削り落とされた言葉でもあるこを想像しなければならない。ここに俳句としての緊張感の本質がある。