俳句にも文体と言える…句体がある

                                  俳句が魅了されるには秘訣がある           

                                                        児 島 庸 晃

    俳人の個性を調べていてわかった事がある。その特色と思えることの一つに俳句にも多種多様な表現文体があるのではと思えることがある。その事のほどが読者を魅了するのだとも思えた。散文の文章には書き手の独特な味が読むものの心を掴むのだが、俳句のような短文にも、この味と思える表現文体はあるのだろうと考えようになった。

正確な言い方をすれば句体と言えるのかもしれない。たった一行だけの文体…それを句体と言う。

    今の俳句の時代には、あらかじめ作り方というものが決まってしまっているのではないかと思ってしまうのだが、いろいろ過去へ時代を戻してみるにつけ、新しいハウツーなるものを考えなければならない時がきているのかもしれない。相対的に俳句そのものがおもしろくなくなっている。今の俳句の世界には作り方の公式なるものが出来あがっているのかもと思う。表現する内容が如何程あっても、その内容を充実させる技術が乏しいのではないのかとも思う。技術と言ってもそんなに難しいものではない。俳句は「作る」や「詠む」のではないのだ。もっと単純に考えればいい。「書く」と言う気持ちが大切なのである。今の俳壇には心を忘れてしまった俳人が多くなってきた。それはあまりにも過去の形に拘わり過ぎているからではなかろうか。…そういう意味から句体を思考することはもっとも大切なのである。そしてその形は自分で作るものなのだ。俳人個々が考えることで自分に合った自分自身の形を納得させる論理の展開がなされなければならないのである。 

    例えば、田中いすずさんの句には、いろんな趣向の句体が試みられているのだ。

         元日やつくづくと卵のまるみ   田中いすず 

俳誌「歯車」368号より。この句のリズムは上より五・五・七なのだが、従来のリズムからすると異質である。でもこの句はこのリズムでなければ訴求力がなくなる。その理由を考えたい。訴求したい部分が「つくづくと」の中五にあるからなのである。全体のリズムは十七音なのだが、リズムを変えることで句の屈折する部分が変わり、そこに注目が集まるように作られているからなのである。一行縦の棒書きは最も標準の俳句方法なのだが何処かにクッションがなければ、唯の一行の文章に終わってしまう。心に何も残らないのである。一句の何処かに強調する部分がいるのである。そこでリズムの狂いを用いて心を刺激する。そのことのために中五とするリズムを使用したのであろうと私には思える。その言葉が「つくづくと」なのである。

      九十二歳かげろうの贈り物   田中いすず

俳誌「歯車」369号より。この句のリズムは七・五・五である。同じ十七音でもリズムの流れが変わると、句の雰囲気が変革する。そこで変革の仕方に、その句の内容の重さまでも変わる。この句は上七音の持つ重厚感を大切に考えたのであろうと私には思われる。ここに句のポイントを据え「九十二歳」の言葉を置いたのであろう。そして中五・下五と軽くなる流れを作り、強弱のめりはりを持ち込んだものと思う。リズムの流れは情感の情緒の流れまでも掴むのだ。とても上手な細かい神経が施されていて人の心を掴む。句体は読者の心を変革させるのだ。文体はリズムだと言う人もいるのだが、俳句にもその心を開かせる言葉としての句体が必要で、言葉そのものの特色としてのリズムの流れまでも思考しなければならない時代が到来しているのかもしれない。

 「文体」とは文を書くときに表現される作者独自の表現方法である。では「句体」とはどのようなものなのであろうか。わかりやすく納得出来るのは。…それは俳句独自の十七音の響きを作者自身が変革させることである。リズムの流れを変えて情感の強弱を感じとれるように作為することなのである。

 田中いすずさんの句には句体へ向かう姿勢があり、私が述べたとおりであった。だが、同じ十七音でも、その変化体は単純ではない。現代俳句の進展は、その心の内面を、より深く求めてきた。執拗に力強さを奏でることなのである。

      血縁の時々鬱陶しくて秋    宮川三保子

「現代俳句」平成28年4月号…俳誌の散歩道…より。この句のリズムはとても複雑である。十七音なのだが通常とは違う。上より五・四・六・二である。リズムの屈折は心の奥深くまで浸み込む。四つの言葉が四段階に組み合わされて相互に連携されている。ここには四つのリズムが発生される。その相互のリズムは独立していて反発や吸収を繰り返しながら言葉の展開がなされている。ここで句体が作者の個性となって表面化するのである。その言葉とは「鬱陶しくて」なのだ。六音のリズムを、この場所に置いて、ここが作者の主張の一番大切であることを示しているのである。このように作者の自己主張の場所を読者にわからせることが出来るリズムを情感の流れとしている。リズムを変革させて一番多い音数を自己主張の場所に使うことで読者の心を弾かせているのだ。

 一方、同じ十七音でも自己主張をしないで句の緊張を強めるリズムの句もある。従来のリズムの繰り返しを使わないで緊張を強め読者を引き込む句体に注目がなされた時代もあった。俳句の三構造と言われる導入部・展開部・終結部の組み合わせをしないで、導入部と終結部だけによる一句体の俳句である。

   一月の川一月の谷の中    飯田龍太 

総合俳句誌「俳壇」昭和59年8月号。…戦後60年の俳句表現60句選…より。この句のリズムは七・十音により構成された句である。七音とは「一月の川」。十音とは「一月の谷の中」。従ってここには展開部の言葉がないのだ。何処にあるのかと言えば、それは読者の心の中で展開されるように作られている。この句にはリズムの流れとしては強調される言葉の部分がないのである。これは意識して作者が強調する部分を作らなかったのだろうと私は思っている。何故かと言えば、この頃の俳句は作者の自己主張を、ここですよ、とは見せなかったのである。しかしここには七音と十音の対比のリズムをぶっつける、或いは衝突させることによる強い衝撃波の期待度が何倍にもなることを意識していたのではないかと思われるのだ。この頃の句のリズムとしては野心的な句で新鮮な感覚を思わせる句体をなしている。このような句体をこの作者は独自の発想と感覚に委ね新しい句への挑戦を試みたものと思われる。 

 一方、リズムの流れの中で意識を極端に緊張させる言葉は大切である。その言葉を動詞に託し、その強さの部分を更に強めて呼びかける言葉の句体もある。 

   置きどころなくて風船持ち歩く 中村苑子 

句集『花狩』(昭和51年)より。この句のリズムは五・三・四・五である。十七音なのだが、特色は極端に少ない三音を使ったことである。リズムの最初部分に五音、そして最終部分にも五音を配し、その中間に三音を作る。そのことで強烈なリズムの狂いが生じる。この三音の屈折をもって句体全体の違和感が、ここに集中するように作られているのである。この音律の狂乱は人の心へ突き刺さり擽る。情感が集中的に「なくて」に注がれ作者の主張がここにあることが理解出来る。しかも「なくて」は動詞の否定形であるため心が動くのだ。

 その動きだが、更に変化させて方向性を示し、人の心へと感情の流れを送り込む句体は見事な軽快さを感じる。

   洗った手から軍艦の錆よみがえる   林田紀音夫

現代俳句協会データベース作者一覧より。この句は昭和30年代、社会性俳句として俳壇を揺さぶる問題の部分を含んで登場した。この句のリズムは五ヶ所の言葉の連携より合成されている。細かく句を分解すると、上より五・二・五・二・五のリズムである。所謂同じ繰り返しのリズムなのである。感情の抑制が制限出来ないほどに感情を盛り上げて作者の訴える力を爆発させている。社会へ向かって発言するのに、この感情を繰り返す畳み込む句体が必然であったのだとも思われる。しかも何故この句が印象深く心に残るのかを考えると、使用されているリズムが五音と二音のみ。複雑さがなく単純であるからである。まことによく考えられて書かれているものだとも思うのだが、句の流れをコントロールする感情の流れをどのように一句のなかに組み込むのかということである。リズムの運びそのもので作者の思いをこめる事をしなければならない時代である。それ故に俳人も言葉表現においてリズムの運び方まで工夫しなければ満足出来ない時代へ、今があるのかもしれない。

 また、短音のリズムを重ねてダブらせ、より重く受け取る事を主張する句体もある。

   忘年や身ほとりのものすべて塵   桂 信子

句集「樹影」(平成3年)より。俳誌「草苑」の主催者。私はここの創刊同人でもあったのだが、当時より句に対する思考は何時も純粋であった。この俳誌時代、私はリズムの流れのぎこちない表現の句に厳しい言葉を受けることが多かったように思う。この句は晩年になってからの句であるのだが、やはりその厳しさは感じられる。この句は短音の繰り返しのリズムの良さに緊張感が集中する作りである。依ってリズムそのものに緊張感が生まれる。この緊張感がリズムを作っている。上より、四・一・一・四・二・三・二となり、とても細かく特に極少の音数のリズムのリフレインである。極少の音数を重ねる事に重点を置き、緊張感を重ねて持続させる力強さが生まれる。作者の意思の書き込みの良さが発揮されているのではとも考えられる。このリズムは時計の針のように言葉の一つ一つを刻むように心に入りこむ。こんなに少ない音数を七個も重ね言葉を深める俳句を私は読んだことはなかった。

 

 俳人の個々の表現句体を、いろいろと書いてきたのだが、すべてのこれらは俳人それぞれの意思によるものである。何故俳句がおもしろくなくなってきたのかを考えてほしい。個人の表現句体が画一化されてきていることを、私たちは自覚しなければならない。人は、誰も自分自身の思考や意思をもっている。誰もが同じことを考えて生きているのではないのだ。でも俳句を書くと、何故が同じようなものになる。不思議なのだ。過去の俳句作品から、いろんな表現句体を私なりに考え検証してみた。必ずしもこの文章で述べた俳人が、私が書いた事を考えて句にしたのではないだろうが、記憶に残る作品には、それなりの良さがあってのもの。その作品には良い作品と思える根拠がある。…その作品には秘訣が隠されているもの。表面には、これなのだとは現れない。作者にしても意識して俳句にはしていないだろう。そこで検証してみることが大切であった。自分の意思による論理が展開される作品を書いてほしい。それが俳句をおもしろくするのである。