俳句は意味の示唆を変革させる文学なのか

                                       … 戦 後 俳 句 を 検 証 す る …

                                               児 島 庸 晃

 最近、気になる言葉がある。若者たちの間に流行している言葉。…それは「ヤバイ」の言葉。意味は最高に良い、ということなのだそうだ。本来の意味は「危険」なんだが、言葉の意味が変革されているのだ。それを可笑しいと思わない若者言葉である。このように日常の状況によって言葉は変革されてゆくものなのだろうか。このような生活意識を踏まえ、俳句の言葉はどのように変革されてきたのであろうか。今回の検証はこのことについて考えたい。

   今日までの戦後の俳句を調べていて分かったこと。それは言葉を最大限に広げる表現をしているにもかかわらず、俳句で使用する言葉は…殆んどが意味としての本来の役目を果たさず、その示唆は全く異なる意味に変革されていたのではないだろうかと思うことだった。これは俳句特有の言葉感覚を成すための文体であったのかもしれない。

 言葉とは…。いま、改めてそのことに言及してみたくなった。本来は意味を解らせようとして、或いは意味を知ろうとするために言葉があり、その言葉を使って喋ったり記述したりしてお互いのコミニュケートをするものだった。そして文学はその言葉を使って人間を表現するものだった。

 だが、俳句は、このような性質を有した言葉を巧みに操作して十七音にまとめあげるものであるにもかかわらず、ある一定の意味に定ったかたちを作るものではない。ひとつの固定した意味に固まるものではないものであっったのだ。むしろこれらとは矛盾した要素を含んでいる。実は意味を語ったり、述べているようでありながらも、何も伝えてはいなかったのだ。意味を解らせることは、俳句を根底から壊すことでもあった。十七音の中のひとつの言葉と、また別の言葉とが絡み合って緊張し作用することにより、全然違った俳句環境を生み出すことだった。ここには作者にも解らない予期出来ない思わぬ効果が生まれて新しい意味をつくるものである。だから、鑑賞するにも一定の決まった解釈は出来ないのは当然だった。十人いれば十人のそれぞれ違った鑑賞なり解釈があるのである。俳句での言葉とは万人に通じる意味などは有しないのであろうか。意味を解らせることは、俳句にとっては困難なことであった。その困難な言葉を使って表現するのが俳句なのであろうか。

 ここで私の採録した戦後の俳句を列記することにする。

     行けどゆけど一頭の牛に異ならず 永田耕衣

     落日の獣身を寄せ嘆き合ふ    三谷 昭

敗戦の戦後の混乱する世情の中で、それぞれの俳人たちは自己主張をしようと私の叫びを続けることを繰り返していた。そしてそれを支えるにはとてつもないエネルギーが、個々の俳人の中に蓄積されていなければならなかった。

   このような現状の時代の精神を背負って生きてゆかなければならないことは、ひとつの大きな結集を生むことになった。昭和二十三年一月「天狼」の創刊。主宰者山口誓子のもとに「馬酔木」系列の俳人と、新興俳句を体験した俳人が集められることになる。編集長は西東三鬼。しかし全てが俳句観の一致する者の集まりではなかった。「馬酔木」系からは橋本多佳子、榎本冬一朗、山口波津女。新興俳句系からは西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男、高屋窓秋、三谷昭。これらの俳人は何故に共存して行けたのであろうか。私には疑問が残る。この創刊号で誓子が唱えたのは「根源俳句」という呼称であった。これは創刊の辞に由来してのこと。次のように述べている。

    私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」より)

    このように記述してはいるが、根源に関してこのようなものである、というはっきりした具体的なものはなかったのである。以後もこれが俳句理念であるという記述はない。だが、かなり後になってではあるが、「すべての物がすつと入つてくるやうに開かれた無我、無心の状態が、根源の状態」(「飛躍法」昭和四十五年)と書かれているのを私は知ることになる。

    戦後のエネルギーを結集した結社「天狼」の多くの俳人が、この「根源俳句」という文言だけで集まっていたとは思えないのが不思議であり、私の疑問でもある。そのことで、私が思ったこと。それは俳句は、その意味の示唆を変革させる文学なのでは?と思うことだった。むしろ自己主張がなかったのではないか。あるように見えていても、それはそのように個々が勝手に思っているだけかもしれない。それ故にお互いは対論に至る結論の出ないままだった。双方の俳人自身が互いの句を認め合っていたのではないか。俳句が意味を示唆しないことによる言葉を作ることにより、俳人個々が互いの句を認め合うのではないか、言葉が言葉本来の意味を主張していたら俳人同士の反発がおこり納得出来ないものになっていたかもしれない、そのように思う。私が採録した句についても、「根源」の意味がばらばらであって統一感はない。もともと言葉は、本来その言葉自身は一定のはっきり決まった意味を持っている。だが、俳句に使用された言葉の意味は十七音のかたちに作られた時からは変革して、言葉本来とは異なる内容を示す。その異なる内容を良しとするものであったのだろう。それをお互いが認めていた。よって多くの俳人は根源俳句を求めていなかったのではないか。

 一句目の耕衣の句の「牛」だが、本来の「牛」の一般的な意味は畜産としての農家の牛を想像する。しかし、この句の「牛」はただひたすら歩く牛である。「行けどもゆけども」の言葉との組み合わせにより、「牛」の意味は変革され畜産の意味は生じない。したがって言葉の意味を全く示唆してはいないのだ。

 二句目の句の「獣身」。この「獣身」の意味的なものはけばけばとした獰猛なもの。「寄せ嘆き合ふ」の言葉への展開により柔らかく優しいものとしての「獣身」のもつ意味に変革、緊張感をともなってある。「獣身」の本来の意味とは異なってくる。

 このように俳句として表現された言葉は、その本来の意味を示唆してはいないのだ。むしろ、本来の言葉の意味を破壊してすらいる。ここに俳句で使われて以後の言葉は、日常で使われる言葉とは、異なる意味を所有することになるのだろうと思う。

        ぶつかる黒を押し分け押しくるあらゆる黒 堀 葦男

        古仏から噴き出す千手 遠くでテロ   伊丹三樹彦

これらの句は昭和三十年代のものだが、安保闘争で日本国内が混乱の最中であった時のものである。世情は私を爆発させる時代。全てにおいて私を主張させる風潮のなかにあった。俳人たちだって黙ってはいなかった。そのことが社会性俳句を生むことになるのだが…。

 ここでの言葉の意味の扱いだが、意味は私の主張の手段であった。昭和二十年代の俳句とは違っていた。むしろ言葉は、日常用語をもっともっと強くしたものであったと思われる。

 堀葦男の句の「黒」は日常私たちが見ている黒色ではない。日常語であるものを、わざわざ日常語以上の用語として扱っている。だから、「黒」そのものの意味する汚れきった黒ではなく、もっと鮮明な塊のある「黒」。この「黒」は物体。本来の色の黒の意味ではない。意味としての「黒」の示唆はなく堀葦男自身の心の黒色へと変革。

 伊丹三樹彦の句…「古仏」の意味するものは、神社の奥に静かにあるときのもの、というのが一般の意味。だが、この句の「古仏」は躍動感のあるもの。手が古仏から噴き出してくるのだ。ここにも本来の「古仏」の意味の示唆はないのである。俳句として使われ生まれた言葉は、或る一つの言葉と、またもう一つの別の言葉との組み合わせによって、意味は変革し全く別の意味を作ってしまうのだ。…この微妙に変革してゆく言葉の意味を深める文体が俳句独得のものなのだろうと思う。小説などの言葉の扱いと全く違っていた。或る言葉から別の言葉へと繋ぎ合わせて意味を深めてゆくものとは、根本的に違うのである。俳句の文体での言葉は、むしろ言葉同志が反発し合って、そこに新しく表現される別の意味を作ってしまうのではないかと、私なりに思ってしまう。これを私は俳句言葉の変革と呼称したい。

 一方、言葉の意味を示唆のままに、言葉本来の意味のままに表現する句が登場するのは、昭和四十年代である。

         八十の老いの春とは人も知る   後藤夜半

         紙漉きのこの婆死ねば一人減る  大野林火

これらの句は実感のままに受け取り、受け取ったままに素直に発想、表現をなしている。だが、この句が世間の脚光を浴びたのは、昭和三十年代の社会性俳句や前衛俳句に嫌気を覚えた俳人たちの心を捉えてゆくことになるのだった。この句が受け入れられてゆく背景には、社会性俳句や前衛俳句への反論があったからである。平畑静塔や山本健吉などの厳しい主張が、当時の俳人たちに受け入れられたからであった。…政治や社会の理念追求の優先を戒め、人間性の追求や感性を優先させるのが文学の役割ではないか、との平畑静塔の言葉があったからであった。世は高度経済成長期。ますます言葉が十七音のなかで未消化になっていった。故に言葉本来の意味のままの示唆へと姿を戻し、言葉の純化を遂げてゆく。伝統派俳人の復活である。より言葉の純化をすすめ、より一層伝統俳句に傾いていった。

 だが、ここで記しておかなければならないのは、言葉の意味変革の時代が終わったわけではなかった。言葉本来の意味のまま表現する伝統派俳人との対立は一層激しくなっていたのである。総合誌「俳句」と「俳句研究」という二極の対立となってゆく。「俳句」は角川書店が、「俳句研究」は高柳重信が編集。何時の間にか、「俳句」は俳人協会、「俳句研究」は現代俳句協会という、構図ができあがっていた。

 そして、「俳句研究」は高柳重信の手によって、言葉意味の変革を顕著にする俳人を排出してゆく。阿部完市、河原枇杷男、中村苑子坪内稔典攝津幸彦夏石番矢、林桂、がいる。攝津幸彦夏石番矢、林桂らは高柳重信が「俳句研究」で企画した五十句競作により注目を浴びた俳人である。夏石番矢や林桂は「歯車」の出身である。攝津幸彦坪内稔典や伊丹啓子、澤好摩らと組み、学生俳句組織を結成。既成俳句への挑戦を試みてゆく。全てが言葉改革への始まりであったのだ。言葉意味の変革を求め何が出来るかを既性俳句へぶっつけたのである。昭和五十年代、俳句は動き出していた。

        身をそらす虹の

           絶巓

           処刑台     高柳重信

           淋しい幽霊いくつも壁を抜けるなり     山川蟬夫 

 

多行形式の俳句と縦の棒書き句、どちらも同じ作者である。重信は周辺の俳人や若い俳人たちに向かって啓蒙的な作品を発表してゆく。それは言葉のもつ意味的示唆の大切さを問いかけるものであったのでは、と私なりに、そう思うことしばしばであった。多行形式からは、横へ広がる意味の変革をスライドさせ時間的なズレを喚起しては緊張感や不安感を提示。また縦の棒書きからは、言葉の意味を積んで重く乗せての言葉の変革を果たす。いずれも心理的不安を緊張させるものであったのかもしれないと、そのころ私は思ってしまう日々であった。

         南浦和のダリアを仮のあはれとす   攝津幸彦

         たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典

            クレヨンの黄を麦秋のために折る   林 桂 

この三人は後にいずれも俳句の主宰者や代表者として俳壇を牽引してゆくことになるのだが…。攝津は「豈」を創刊。坪内は仲間を集め「船団」を立ち上げ、林は「鬣」を創刊することになる。ここに提示された三人の俳句に使われた言葉を見ていただきたい。言葉が詩語になるまでの心理的な葛藤や屈折は、私の思考の範囲では通常の或いは日常の言葉の意味とは少し違うような気がする。三俳人ともに言葉意味の示唆は反語として受け取れる。

    攝津の句の「仮のあはれとす」は作者の心中には「仮のあはれ」としたくない願望があってのこと。言葉本来の意味が攝津の心の中で壊されてあることがわかる。即ち俳句言葉の意味変革がなされている。

    坪内の句の「火事ですよ」は、本来は「火事ではないですよ」の意味変革からの発想であろうと思う。

    林の句の「麦秋のために」は「麦秋のためでなければ」と言うように心の願望精神が籠められていて、言葉意味の変革が詩語を臨場感のあるものへと強化して、言葉の深化がなされていた。

    俳壇での言葉との葛藤は平成に入ってからは、一層はっきりとその全貌が見えてくる。それは言葉遊びではないかと言われながらも…。だが、真剣に言葉表現の格闘は続けられていった。

        元旦や以のつくものに以上以下    中原幸子

        涼しそうな顔してすごいことを言ふ  須川洋子

        数式をきれいに毀し十二月      前田 弘

        しもやけしもやけまっさかさまである 阿部完市

        草笛を吹いている間は大丈夫     高橋悦子

        よし子万事済んだ安心して凍れ    櫂未知子

        阿部定にしぐれ花やぐ昭和かな    筑紫磐井

        暖冬異変戦争異変穴に人       矢島渚男

        あめんぼと雨とあめんぼと雨と    藤田湘子

        少年まだ校舎の昭和拭いている    川名つぎお

        サングラス長崎全市影となる     室生幸太郎 

         陽炎や鳥獣戯画の端に人       安西 篤

         まだ抽象の菜の花の黄みどり     大坪重治

         ゆっくりと死ねば良し空蝉に雨    萩澤克子

         一点として立つ冬晴の真ん中     岡崎淳子

         鏡ごと一族が消え十三夜       渋川京子

         夢の端を踏まれていたり手毬花    森須 蘭

これらの句をみなさんはどのように受けとられるであろうか。言葉のもつあらゆる可能性へと限りなく前進していることが分かる。やはり、最初の言葉が次の言葉を触発し、言葉の意味はより深く変革し、最初の言葉の意味は壊されている。そのとき作者が想像もできなかった新しい意味の文体を作る。…これがこれからの俳句なのだろう。俳句を作るということは言葉との格闘であった。…このように思っていても、言葉本来の意味に裏切られ、そっぽ向かれて十七音文学は成り立っているのかもしれない。言葉の意味を追求して戦後俳句を見てきて、俳句は意味の変革を遂げつつ、本来の言葉の意味とは全く異なる文体を作る文学であったのかとも思う。