私性の文体(句体)とは…

           伊丹啓子句集「あきる野」を読む

               児 島 庸 晃

 作者は伊丹三樹彦の長女。「青玄」廃刊以後の系統誌「青群」の顧問。かっては青春俳句の華やかな頃大活躍した注目の俳人でした。「あきる野」は伊丹啓子の第三句集。

 句集「あきる野」ありがとうございます。何よりも句集の装幀が素晴らしいのには感動しました。この本の感覚は句集とは思わないでしょう。タイトルの書体も細アンチック体ですっきりとしていてとても繊細な思考を思わせる理知的な引き締まったものですね。本の表紙は本全体を象徴するもの。読者に読む意欲を喚起するもの。そしてこの装幀は…私性の主張の濃ゆい俳句を奏でるものともなっていますよね。

 さて、その私性とは、

   月蝕に わが身削れてゆくような   伊丹啓子 

作者の目視の中に読者を引き込む感性は何を誰に向かって語りかけているかを、直感として知らせていて、この句の存在感を示しているのではないかと私には感じられました。その俳句言葉は「わが身削れて」。この俳句言葉にはパーパス(存在意義)があります。今は共生社会の中で生きてゆく時代。作者は何を誰に向かってはっきりと語らなければならない時代。説明言葉ではなく感覚で詩語にしてゆかねばならない時。それは私性の感じられるものでこそ。この俳句に「わが身削れて」と表現されて緊張感を強める共生社会におけるパーパス(存在意義)があります。この言葉は目視では見えていないものですよね。見えていないものまで表現出来るのは私性の文体(句体)だから。

 同じように私性の強く含まれる句。

   木馬に乗って デジタル庁の門叩く   伊丹啓子

この句は現実であって、また夢の中でのことかもしれない。この句は作者の空想が現実に置き換えられたもの。何故にこの句を作ったのだろうと、私なりに楽しく心を遊ばせた句でもある。だが作者がこの句を作らなければならない理由があったのだろうと私には思えた。それは「木馬」と「デジタル庁」の俳句言葉の取り合わせの矛盾を述べたかったのではないかと私は思った。「デジタル庁」は現実に社会人と共生するもの。「木馬に乗って」は非現実のもの。でも作者の目視の中では、共に共生生活者なのである。この可笑しさから笑いが発生、ここに作者独特の思考が生まれ可笑しさの笑いが出る。この心の温かさは人間を愉快にする。これも私性の文体(句体)だから許容される。

   踏み惑う森 ぜんまいの手招きに  伊丹啓子

この句にあるものは、都会人の汚れちまった悲しみかも。…ふと、そんな気が。「踏み惑う森」とは、都会暮らしの作者が、眩しい光りの森に入ってゆけない時なのであろうか。「踏み惑う」時の踏み入る作者の純粋さを感じる。ここには私性の強さのパーパス(存在意義)がある。作者にとっての「何故」である。この句の「何故」は「踏み惑う森」の私性の強さである。

 以上、私の思いを少しばかり述べました。この句集のいろんな試みに向かって進むことに躊躇しないでいることに、とても意義のある句集でした。いま私たちは何のために文芸に関わっいるのかをしきりに考える私になっています。そして俳句人は何処までも純粋人でなかればならないとも思っています。