パーパス(存在意義)は何故を生む

             一俳人の俳句の存在意義
               児 島 庸 晃                   
 それぞれの俳句に含まれる『何故』とは何なのか。どうして「何故」が『何故』を生むのか。伊丹三樹彦が白寿を前にして亡くなり、三樹彦が残してくれた文言に改めて深い重さを受け取っているのである。そこで今回は俳句における『何故』を考察検証しようと思った。本来の「何故」は物事に対して疑問を感じたときに思う謎ときの言葉なのである。そしてもうひとつの『何故』はその疑問が解けたとき納得できたときの回答のことばなのである。17音律の一句の中には常に「何故」と『何故』を表現する二つの俳句言葉が存在する。この「何故」にはパーパス(存在意義)があるのだ。ここには作者の存在する理由があった。この理由そのものの存在にこそ俳人としての価値観がある。
   杭打って 一存在の谺呼ぶ   伊丹三樹彦 
この句は青玄合同句集12(2005年11刊)に収録されているのだが、この句「一存在」はパーパス(存在意義)である。このパーパス(存在意義)を問題意識にして一句を成していた俳人は当時何人いたのであろうか。伊丹三樹彦を批判した多くの、かっての著名な俳人たちは、今も信頼されているのだろうか。そこにあるのは作ることの自由を奪われていた若者ばかりの存在ではなかったのかと、私は思う。当時の若者に句を作る意義を「何故」と問い詰め、その答えを『何故』と求める俳人は、伊丹三樹彦のほかはいなかったのではないかと、言うのが私の結論であった。