伊丹三樹彦先生の俳句は常に一人称で書かれていた

           その一句には「何故」がある
               児 島 庸 晃
 小説をはじめ本の出版されるまでには、編集者や校正者の手を借りている。ヒット作のほとんどが、本の作者ではなく、編集者や校正者の思考に書き換えられていてのもの。勿論構想やアイデアは作者の思考だが、より理解されやすく感情の調整は編集者や校正者の思考を借りてのもの。俳句にもこれと同じことが行われている。このことは、一般には削といわれているものである。俳句の先生と言われる主宰者をはじめ、指導者がいて、それをなしている。だがこのことが作者の意思や思考とは異なるものとなることが多くなるのが現状。だが三樹彦は作者に、その句を作らねばならない動機を聞いていた。これが三樹彦における「何故」である。その一句には「何故」があるかとの言葉だった。添削と言うよりも作者の意思の確認がなされていた。作者の思考に沿ったものだったのだ。
 文章の書き方は三つある。一人称、二人称、そして三人称。私は一人称、貴方は二人称、私達は三人称。このうち俳句は一人称である。私性の文体と言われる所以である。現代俳句は一人称で物を捉え、即ち一人称で受け止めるものである。だから俳句には、「何故」が最も大切なのである。作者が一番主張したいものを表現出来るからなのである。三樹彦の俳句は常に一人称で書かれていた。
   死ぬまでの句作尺取虫歩む   伊丹三樹彦
この句は平成二十四年二月に作られたものだが、この句は一人称で書かれたものである。何故一人称で表現しなければならなったかを私は検証した。そしてその三樹彦発言の「何故」を考えることができた。三樹彦は一生涯において自分を表現するのに、その心に純粋性を求め、またその純粋性を一徹に貫いた俳人だったことを私は思い出していた。その思いを充分に満足させるには一人称で表現するのが、最も相応しいと思ったのだろうと私は推察した。それは物事に対するとき、作者即ち三樹彦自身が、自分自身の心が最も素直になれると思ったのだろうと私は思った。「尺取虫歩む」の俳句言葉は、
この言葉に三樹彦自身を投影したもののように私は考える。このとき脳梗塞で倒れ、その翌年春から俳句に徹し「俳句通信」を手書きで発信。一日に二十句作ることを自身に命じ、それを実行した。「尺取虫歩む」は黙々と自分を前へ進めた必死の姿がここにはある。「尺取虫歩む」の俳句言葉は尺取虫自身が身を曲げ時を刻むように歩く姿である、とにかく前へ向かって一歩一歩必死に歩むその動作こそ三樹彦そのもの
だった。この句の発想は「何故」を問う理由だったのである。この「何故」を引き出すには一人称表現でしなければ三樹彦自身の純粋性が貫けなかったのであろうと思ったのだろう。この思考は俳壇では異端でもあった。何しろ俳壇は写実・写生が中心的考えの真っ最中の頃、三樹彦はパーパス(存在意義)の思考が日々の純粋性の基本をなしていたのである。どの俳人も一人称発想形式を作句の中心にはしてはいなかったように私は思う。さて、この一人称発想形式の真相を探っていて、三樹彦を私性の句体に進めたものが何であったのかに、私は私自身の頭が混乱していた。そして句を心想化してゆくときの三樹彦の心の優しさに突き当たるのである。 
   その朝春雪別の白さの骨拾う   伊丹三樹彦

俳誌「靑玄」213号作品四十五句中の一句。春雪の中に雪とは違う白さを感情のこもった優しさで目視。肉親の死を、それも継母の死を精いっぱいの美しさで描くこの感情は一人称発想だから描けるのだろうと私は思った。このとき、靑玄のあとがきに次のように書いている。ここには三樹彦そのものの心がある。

 母は一日に死亡、二日に通夜、三日密葬に近い簡素な告別式を行った。行年八十五歳、枯れ木が朽ちていくにも似た老衰であった。これで僕は、師の草城、続いて実父・実母・養父の死に遭遇、いままた母(実を言えば継母)に挽歌を捧げることとなった…
母のそれは雪のように純白であった。僕は骨の一つを指でつまんで、春雪まぶしにもしてみせた。…故郷の自然は途方もなく麗しかった。僕は死を考えることから、この世での生を思った。強く思った。

 必死とも思えるつぶやき、悲しみといってもただ単なるそれではない。いままさに心で表現できる全てを通しての「あとがき」だった。この文章は正に一人称の表現である。一人称の発想でなければ出来てはいないだろう。これら全てが三樹彦の発想なのである。この感情表現は一人称の受け止め以外にはできないものだった。改めて三樹彦の句の原点を問うてゆくとき、一人称を支え、またどうしても一人称表現でなければならなかったものは何だったのか私は考えこんでしまった。長い思考時間の果てに
あったもの、それは本来の三樹彦自身の優しさにあった。そしてその原点は母のイメージに繋がる。
   幻の母来て屈む鴨の岸     伊丹三樹彦
この句は靑玄391号に発表の句だが、どことなく少しの戸惑いの感じられるものとなっている。その心は「屈む」と自覚しての三樹彦自身の俳句言葉の仕草まで私には感じられる。その言葉には愛情の優しさが三樹彦の目の中に滲み出してくる優しさである。これそのものが一人称そのものなのである。不遇であった幼少時の思いを引き継いでいる思いの三樹彦がいる。鴨の姿を母と一緒に並び見ている人間。すべては現実ではないのだ。三樹彦の望みを満たすには、いまはなき幻の母であった。これは幻想である。この幻想は一人称発想表現でなければ果たせないのだと私は思った。どうしてなのだろうと思う。一句の発想原点には「何故」があるからなのだ。
 再び私は思うのだが、パーパス(存在意義)を考えるとき、すべての俳句には「何故」がある。その「何故」を俳句で表現するには一人称発想での現代俳句でなければ。パーパス(存在意義)もメタバース(三次元の仮想空間)もこの一人称表現の俳句によって可能になる。三樹彦が一人称発想の俳句に徹し、一生涯一人称俳句を守った理由が私にはよく理解できる。「俳誌「青群」より転載)