社会の中で毎日を生きてゆく心の回復……俳句は

           現実社会の中で生存意識への生き様を魅せる

                  児 島 庸 晃

 俳句的思考は人生共生の中で如何に生きて行ったのかを見事に実証したのが次の句である。社会生活で疲れ果て、そのことが故に生存意識への生き様を魅せる。
   コスモスに青空 帰郷のシャッポ脱ぐ  伊丹三樹彦
「関西俳誌連盟年刊句集」平成元年版より。作者の故郷は兵庫県三木市。幼少時を過ごした三木市は神戸市より北へ延びるローカル線神戸電鉄が走る。電鉄三木駅で下車、今も自然の残る長閑な緑が広がる町。そこには「コスモス」畑が自然を豊かに魅せて広がる。青年時代を神戸市で仕事に専念、その後俳句界の大改革へと率先して立ち上がる。その時の伝統派俳人との強烈な抵抗阻止に耐えた俳人としての心の苦しさは如何ほどのものであったのだろう。この気持ちを察するに、「帰郷のシャッポ脱ぐ」の俳句詩語は共生の意識より自力してゆく心の浄化であり、人間再生の仕草、または心を回復、心を蘇生させる救いへの温もりであったのだろうとも私には思える。これは人間としての俳句的蘇生の私性なのだろうと私には思えた。俳句そのものが作者の人生を、共生社会のなかで俳句的思考を生み物事を切り開く道であったのだろう。
 これと言って何も語ってはいないのに、共生的存在意識の感じられる句に出会えた時の温かさは俳人ならばの思考なのか。
   これからもよろしくハンカチの白い花   新出朝子
俳誌「かでる」弟90号より。一見、この句は挨拶句のように思われるが、この句は作者にとっては、とても真剣な句なのであろうと私には思われた。何故か。共生社会の現実を生存してゆく難しさが、この句の原点には含まれているのでは、と思ったからである。この作者は目に障害のある俳人である。故に作者自身の存在意識は、何時も自分の周辺の人たちとの接点にありこの俳句をもって、俳句の思考を働かすことで、周辺の他人と繋がっているのである。「これからもよろしく」の俳句言葉の会話は真剣なのである。ここに共生社会中での生き抜く意識が言語化されているのである。日常生活の潤滑油として俳句的ものの思考は大切なのである。…そのような思考を「ハンカチの白い花」に呼びかける姿こそ真剣。「ハンカチの白い花」の目視時点で思ったのだろう。この社会での生活に疲れ果てた人には「ハンカチの白い花」は心の浄化をもたらし、生きてゆく弾みにも思えたのだろう。俳人はすべてを俳句的思考をもって生存意識を強め、真剣に生きている。社会人との接点には人と人との俳句的思考がいるのであろうと私は思った。社会から疎外されないように自分自身の精神的救いには心の回復がいる。特に社会の中で傷ついたものには自然への回帰がいるしその美しさは人の心を救う。俳句的考への自己回復がいるのだろう。
 いろんな句を抽出して、俳人が現実社会の中でどのようにして心の回復を成しているかを考えてみた。特にアメリカ資本主義の令和の時代は競争の時代である。真面目に時代を生きてゆこうと思えば思うほど、心の純粋さは失われる。人間性は失われる。私の育った昭和の時代の心優しい社会は過去の事。共生の意識回復には心がいる。文芸は、そしてその中の俳句は心の回復をもたらすのに最も相応しいのである。それは情感を表示するに一番相応し私性の文体であるからなのだ。