人工知能(AI)「一茶くん」に対する私の思い

       人間の感性とも思える情感が人工知能で表現できるのか?

                児 島 庸 晃

 最近の俳壇で話題になり始めたことの一つに人工知能を使って作った俳句作品の良否が、あちらこちらで起こり、いろんなところで話題の中心になり始めているのに驚かされている私である。何故かと言えば人工知能に人間の感性とも思える情感が、どの程度理解出来るものかとも思ってしまう。これほどまでに話題になったのは北海道大大学院の川村秀憲教授らにより、写真を基に俳句を詠む人工知能(AI)「一茶くん」 の開発である。これまでのいろんな俳人の作った作品を基に解析し、その被写体である風景を読み込ませ、自らを学習させるものであるのだ。

 1昨年ほどまえだったか7月13日には人間と人工知能(AI)が俳句を詠み合い、その成果を競うイベントが北海道大学で行われた。…だが、その場での良否の問題は、まだ出ていないようである。それもその筈、囲碁や将棋のように勝ち負けを競うものではないからである。ここには感情と言う人間の情感があるからである。私たちは日常生活でいろんなことを日々体験しては、その場での判断をしては次へのステップとしている。ここにはこれまでに体験して得られている知識では間に合わない事が多々ある。このときに必要とされることは即興性である。謂わば咄嗟の判断なのである。人工知能にはこれまで集めた人間の情報が入力されていてその範囲内でしか答えはない。俳人個々が作る句にはこの即興性が咄嗟に感性に響き鋭さを発揮してくれる。それ故に新鮮な俳句を生む。人工知能では即興性の感性は出ないだろう。人工知能には明確な内容の良否の判断基準がないのである。

 私たちは日常体験の感動が大切なのである。しかも俳人自身が、その場で得られた感動が個人個人によって違う。この違いを個性と言う。人工知能による作品は年数を経ていくに従いそのほとんどが画一化されて、同じような作品になり、やがては飽きられてしまうのではなかろうか。刻刻変化してゆく作者個人の即興性はそれぞれの個人意識によるところのアドリブなのである。このアドリブは画一化されてある同じ感覚意識ではないのだ。この感覚意識における受け取りは、過去となってしまったであろう情報集積処理からは新鮮さのある語彙は生まれないだろうし、俳句言葉そのものも、情報処理そのものがこの時点で過去言葉となる。人工知能といっても、人間個人そのものの知能ではない。

   鳴き捨てし身のひらひらと木瓜の花  一茶くん  

これは人工知能(AI)「一茶くん」の作品である。自然諷詠らしい句である。席題「鳴」と春の季語「木瓜の花」の人工知能俳句である。何処がどうという欠点の見当たらない句である。上手に纏め上げられた句でもある。しかしなんとなく物足りない句のようにも思える。何故だろうとも思う。よく味わってみれば分かることだが、感動が、それほどに高まらないのだ。この句を読むものに「一茶くん」の作ったときの率直な感情が伝わらない。それは何時もの見慣れた光景だからである。これまでに得られたものの範囲内にある情報を「一茶くん」が情報処理したに過ぎないからであろう。私たちは常に誰もが知らない作者だけが発見した感性を待っている。私だけにしか作れない私の感性を「一茶くん」は作れるだろうか。

 何よりも、句を作ると言うことはそのときの即興性でもある咄嗟の感動がいるのである。それは言い換えれば、その場に於ける私性が大切なのである。次の句をよく見ていただきたい。

   余花に遭うそのまゝでいてもう少し   藤本裕美子

俳誌「歯車」382号より。ここで注目すべきことのひとつに言葉の選択がある。言葉の扱いには作者の個性とも言える思考がある。その思考とは感性に委ねられていてその違いが個性ともなる。この句に作者が選んだ言葉が「もう少し」とある。作者の句に対しての私性がある。作者が見つけた言葉が「もう少し」なのでもある。この俳句言葉は作者が日常体験した作者独自の感動体験なのである。この日常体験は人工知能(AI)「一茶くん」には出来るだろうか。私性までも踏み込んだ感情表現の実体験は即興であり、これはアドリブなのである。所詮は既成観念の領域を踏み越えてこそのその新鮮さは俳句の醍醐味でもあろう。やはり画一化された幅のない俳句作品を人工知能(AI)「一茶くん」は作ってしまうのではないかとも私には思える。 

 かって流行語にもなった言葉に「インスタ映え」がある。これは自然風景の中に予期もしていない見事さを込めた発見に対して人々が感動したときの心の状態を表現した言葉なのだが、これはその時一瞬の出来事である。このことはアドリブなのである。その時にだけ得られる即興性なのである。ここで人工知能により作られた俳句をもう一句。

   湖にうつる紅葉や窓の前  一茶くん 

「緑沼の紅葉」の写真画像を認識してのふさわしい風景を詠んだものである。確かに美しい俳句である。諷詠写真俳句でもある。だが私たち俳句人には充分には満足出来るものではないのだ。何故なのか、と私は思った。何処かで見たような光景である。見慣れた光景である。この句を通して見ている光景よりもこの情報を基にした写真を私は見ていたが、その写真の方がより細かくもっと微細に思える美しさなのである。この句を詠む以前の写真の方がもっと現実感がある。どうみても臨場感がない。身に迫ってくる迫力とも思える臨場感がない。これは私性を通しての情感とも言える即興的な重みや臨場が感じられないと私は思った。

 昭和46年頃だったと思うが、写俳俳句の広がりで俳壇を賑わせた時代があった。その発案推進運動に貢献した俳人がいる。俳句結社誌「青玄」の主宰者でもあった伊丹三樹彦である。この基本的思考は俳句作者自身が被写体に向かい目視してシャッターを切る。…ここまでは写真家のすること。だがこの奥にある深層心理は俳人の心としての志向が働く。その心は目で見ていても見えてはいない部分までも見えているように表現することであった。俳人個人だけが見えてくるもの。そのことが俳句言葉になる。これを実現するには私性の思考が配慮されねばならないのである。人工知能(AI)「一茶くん」に私性の思考ができるのだろうか。伊丹三樹彦は人工知能ではなく三樹彦自身、自分自身の知能を働かせての私性を感じさせるものであったのだ。

   薔薇園に 腰を 人生深くして   伊丹三樹彦 

写俳句集「花緑の写俳亭」より。被写体でもある風景の「薔薇」の写真の画面を目視しているのだが、ポイントは「薔薇」の写真を見ている人間の心に焦点があり、この被写体の「薔薇」は光景に値する対象である。この三樹彦の「薔薇」の写真を人工知能(AI)「一茶くん」に入力しても三樹彦の求める句にはなっていないだろう。「一茶くん」は被写体そのものの光景に焦点があり、その焦点のポイントが写真画像そのものである。三樹彦は作者自身の思いに焦点が絞られている。「一茶くん」では私性は反映されてはいないだろう。また例えば情報収集の際にこの三樹彦の俳句言葉そのものを入力しての情報処理は剽軽に与えしないだろうか、との危惧も私は感じる。二番煎じの類の俳句を思うし、感動の心も二番煎じを強くする思いである。否、三番煎じになるかもしれない。全ては既成事実の情報処理に留まるのではないだろうか。この時点で詩語は死語になっているようにも思われる。新鮮さはないだろうと私は思うのであるが…。

   雪景色きれいと言うと叱られた   三池 泉

俳誌「歯車」381号より。「きれいと言うと叱られた」の口語体の会話ともとれる俳句言葉は私性が施されてのもの。「雪景色」の被写体画像を「一茶くん」に入力しても、この私性の発想は生まれないだろう、と私は思う。人間特有の感情移入はどれほど出来るのだろうか。まだ開発途中とのことで、まだまだ語彙が不足とのこと。…だが、語彙を沢山入力していっても人の情感が詠みとれるだろうかの疑問が私には残る。人口知能が人口頭脳に置き換えられるときデータ処理では「きれいと言うと叱られた」の俳句言葉が可能になる日を待ちたい。俳句言葉そのものは人間の日常生活より生まれたもの。自然風景からの人間の感情移入は難しいのではなかろうか。作者は「一茶くん」では詠めない俳句を思考したことになる。 

   七月や水にしずかな鯉の息   寿賀義治

俳誌「渦」540号より。この句は自然の中における命の存在を強く主張する作者の心が溶け込んでいてしみじみとするものなのだが、この感情の柔らかな起伏は作者の私心であり詩心でもある。それは「しずかな鯉の息」と私性の心でもある。人工知能(AI)「一茶くん」に被写体とも言える映像を読み込ませる入力でこの微妙な感情表現の発想が生まれるであろうか、と私は思うのである。水面にほんの少しだけ動く水の揺れる状態を「鯉の息」と受け取れる感性は人間ならでの主観である。この一瞬のアドリブは瞬時のもの。決まりきった観念ではない。瞬時に感じるもの。映像入力の保存語では処理出来ないものであろう。この作者だけが発見して得た感性である。個性とは作者独自のもの。人間のその時に受け取る感覚には作者独特の個性があり、それは作者だけのものである。人間としての感性は人間の目視によるものでなければその作品に新鮮さは生まれないだろう。作者の自己主張が作者自身により作された句でもあると私は思うのである。人工知能(AI)「一茶くん」ではこのような句は出来てはいないだろう。 

 これから先のことだが本当の俳句の良さを知らない人がこの「一茶くん」を使っての流行にもなるとどうなるのだろうか。俳句への興味が盛んになり俳句人口が増えることはいいのだが、俳句への真剣さが薄れ文芸としての価値観がなくなる。たた単なる遊びになってしまい、行き着く先はゲーム感覚になりはしまいか。「一茶くん」の開発者は技能者としての利点があり、それだけの多額の実入りがあり実質プラス。でも真剣に文学・文芸に心を置くものには虚しい話である。本当の文学・文芸の心は壊れる。文学・文芸は人口知能によるものではなく、作者自身の自分自身の知能だけで可能にするものでもあろう。またそうでなければ俳人としての自分自身の可能性は見出せてはこない。長年俳句を作ってきた俳人は「一茶くん」が手頃な価格になっても使わないだろう。それは俳句の価値基準の判定がいまはまだ「一茶くん」には定まってはいないからだと思われる。