アイロニーとは…表面の意味とは逆の意味

        意味を感じさせないで、その句の根底に意味を置くには

                児 島 庸 晃

 作者と読者をつなぐものは情感である。意識を強く引っ張る強要になってしまってはならない。それはおしゃべりで意味を強要すことに等しいのだ。意味で句を作ってはならないのである。

 では、意味を感じさせないで、その句の根底に意味を置くにはどすればいいのだろうか。一言で言ってしまえば、そのポイントはアイロニーなのである。

 アイロニーとは…表面の意味とは逆の意味が裏にこめられている用法。多くは嘲笑を表わす。これが俳句で言うところの滑稽感である。この滑稽感が情感を伴って表面に出てくるのである。嘲笑を皮肉とは解釈しないで作者独特の思考として面白く表現することに情感の豊かさが出てくる。俳句は心を豊かにしていなければならない。

   秋草を捨てたるあとの壷の口   ながくさ清江

総合俳句誌「俳壇」昭和五十九年八月号、ながくさ清江自選五十句より。この句の寂寥感は人の心を擽るアイロニーより生まれ出たものである。ここには寂しさがたっぷりとあるのだ。この「壷の口」は人間の口のようにも思えてくる。…そうすると親しみが湧いてきて人間臭くなる。これがアイロニーなのである。情感がふつふつと滲み心の中を駆け巡る。ここに使用される言葉は説明されるのではない。意味としての理由は何処にもないからだ。

 人は両眼で物を見て物を判断する。この時に物の全てを見ているわけではない。最も興味のある部分だけを見ている。その瞬間に意識が働く。この瞬間が大切なのである。ずっと何時までもその部分を見ている時もあれば、またすぐに別の部分を見て、それまでの見ていたことなど忘れてしまっていることもある。だが、意識として頭の中には残像としての映像は残っているのだ。ふとしたきっかけで全く別の物を見たときに、それ以前に見た映像とだぶって、それ以前に見た物を思い出す。…この瞬間に人は何かを受け取って心に残している。何故だろうと思ったことはないだろうか。この時、その場の情感を心に受け入れているのである。ここにあるのはアイロニーなのである。

 心を擽る情感は俳句の季語の持つ重さとなって定着した。私は超季の立場での俳句づくりだが、季語を超える重みの情感の感じられる場合のみ無季を認めている。俳句作品の重みは情感の深さにあり、それを支えているのはアイロニーなのである。

   冬木みなうすむらさきの傷を持つ   松田正徳

俳誌「歯車」368号より。この句のアイロニー言葉は「うすむらさきの傷」。この言語は目視の果てに辿りついたことばであろう。凍傷にかかってしまったであろう状況を「凍傷」としなかったことによるアイロニーである。普通一般にはこのような「うすむらさきの傷」とはしないだろう。季語を使い「凍傷」としてしまうものだが、この季語よりも深みを出し情感を強めるためには、このようなアイロニーが必然であったのだ。この作者の強い思いを最も発揮するためには、季語では表現しきれなかったのだろう、と私は思った。何でも季語を使っていれば俳句になるとは思わない方が良い。

 一口に季語といってもその扱いの難しいのは情感の施しが如何になされているかであるが、季語を強める要素としての補助的なアイロニー言葉もある。

   風に落つ楊貴妃桜房のまま   杉田久女

「久女句集」昭和27年より。この句の注目点は「房のまま」の言葉である。正にこの句を素晴らしいものしているのは、根底に敷かれてあるアイロニー言葉の深みである。その言葉こそが「房のまま」なのだ。桜と言えば、その花びらの一枚一枚の美しさに注目をあつめるのだが、この句は「房のまま」の塊なのだ。まるで風に抵抗するように塊となる桜の房の存在感。これこそ作者が主張したかったアイロニーなのである。これは桜と言う季語の印象を強くするものであった。楊貴妃桜は八重桜なのだが、なるほどこの花桜は、どっしりとしていて重厚感がある。風圧により落花するときも風に逆らっているかにも思えるのだ。この作者の思いは桜に対して寄せる作者の心であったのだろう。何時までも美しく大きな花艶を放っていて欲しかったのだろう。いかにも風へ向かって耐え忍ぶ抵抗をぎりぎりまで我慢して頑張る姿に心惹かれる作者…久女。アイロニーは、このように季語を助けて情感の極みを作る。

   石棺は湯舟のふかさ夕桜   鍵和田柚子

句集「浮標」昭和57年より。この句も季語を強めるアイロニーの句なのだが、こちらの方は物の対比を通して、そのアイロニーの正と負の在り方を、季語に問いかけ情感の強弱を示している。 

 アイロニーは俳句の根底を強めるもので、人の心の奥に眠っている感情を呼び覚ますものであった。それが何時の間にか、人の心から忘れ去られて俳句を意味で書くようになってしまった。多くの文芸作品が意味でその文章を読むようになってしまった。人の心を表現するにはその感情を伴って現れる表面にはアイロニーの存在があったのである。心の奥深く眠っているアイロニーを呼び出す努力をしようではないか。