優れた俳句作品には…
児島庸晃
一口に季語といってもその扱いの難しいのは情感の施しが如何になされているかであるが、季語を強める要素としての補助的なアイロニー言葉もある。
風に落つ楊貴妃桜房のまま 杉田久女
「久女句集」昭和27年より。この句の注目点は「房のまま」の言葉である。正にこの句を素晴らしいものしているのは、根底に敷かれてあるアイロニー言葉の深みである。その言葉こそが「房のまま」なのだ。桜と言えば、その花びらの一枚一枚の美しさに注目をあつめるのだが、この句は「房のまま」の塊なのだ。まるで風に抵抗するように塊となる桜の房の存在感。これこそ作者が主張したかったアイロニーなのである。これは桜と言う季語の印象を強くするものであった。楊貴妃桜は八重桜なのだが、なるほどこの花桜は、どっしりとしていて重厚感がある。風圧により落花するときも風に逆らっているかにも思えるのだ。この作者の思いは桜に対して寄せる作者の心であったのだろう。何時までも美しく大きな花艶を放っていて欲しかったのだろう。いかにも風へ向かって耐え忍ぶ抵抗をぎりぎりまで我慢して頑張る姿に心惹かれる作者…久女。アイロニーは、このように季語を助けて情感の極みを作る。
石棺は湯舟のふかさ夕桜 鍵和田秞子
句集「浮標」昭和57年より。この句も季語を強めるアイロニーの句なのだが、こちらの方は物の対比をしている。その対比はアイロニーの正と負の在り方にあり情感の強弱によって季語を深めている。人の入るもの二つ。石棺と湯舟。全く正反対のもの二つである。二つの物の深さが同じと言うアイロニー。正は生で湯舟、負は石棺で死へと導かれる思考を作者は同時に感覚するのである。この対比の強弱はその場に咲いている夕べの桜の存在をより確かなものにする。前書きに「登呂遺跡」と書かれているのでしっかりとした目視が出来ていてのことだろう。この作品の良さは「夕桜」がその場に咲いていてのものでありこの「石棺」と「湯舟」の深さが同じであっても対比されての情感の違いが出る。「夕桜」の季語の幽玄の深みへと発展する作者のアイロニーなのである。
その俳句作品だが意味を求めて作ってしまえば、そのまま意味だけが句の主体の中に残ってしまう。…なんでやね…と言う感情だけがひつこく生まれる。ここには感覚の鋭さや新しさが失われてゆくので広がりがなくなるのは必死。ナイーブな情感の感じられる句は生まれない。意味主体の句は誰が作っても同じ意味の句になってしまうだろう。アイロニーはその人の意思がアイロニーとなって表現される。優れた俳句作品には、その基本部分で、何処かに作者の意思が含まれている。意思の操作の方法によって句は味を持つ。即ち、それそのものがアイロニーなのである。