2007年神戸新聞読書文芸小説部門 入選作品 

       この作品は11月26日朝刊に掲載されたものです。

            仏    石  (ほとけいし)

                児 島 照 夫 (庸晃)

 穏やかな太陽が柔らに降り注ぐと海の朝が始まる。ゆったりとした陽の揺れが海を明るくもする。沖へと突き出た太陽光線の中でぽっかりと浮いていた。

 栄三郎はぱっちりと目を開き、海面を這い回る太陽を見ていた。

 「海は青だと思ったが、オレンジに見えることもあるのだ」。朝は際立って色の変化が激しい。山の頂から顔を出した太陽は一気に海を照らす。八方へ放つ光線はオレンジ色を海に落とした。

 栄三郎は朝から晩まで、この海を心に入れ、目の奥に取り入れ毎日の暮らしを続けることにした。明日へ向かっての希望は海の色の変化のよって栄三郎の心を左右する。いまの快い気分を大切にしたい。海へ割り込む岬には、波による侵食が強く、いたるところに穴が空き奥に広がっている。歩きながらも栄三郎は、その奥に入って行った。すこし暗いが時々は光線が、岩の割れ目から入ってくる。そこで歩を止めた。上を見上げて光を受け入れる。栄三郎は、やっと終(つい)の地とすするに相応しい場所ときめ、身を屈め、ゆっくりと腰を下ろした。鼻岬と呼ばれる、この場所は誰も寄り付かないところで、村の一番遠い端にある。栄三郎は毎日の生活の場と決めた。

 この日より、朝は海を眺め太陽のいろんな光の色の変化を味わい、心を暖め、夜は月からの囁きに耳を傾け海面を見る。どこからともなく届く風に誘われる。夜の海に心を託し海岸を歩く。

 「これはいったいなになんだ!」。いつものように海を眺めて夜の海岸を散歩していた。必死に光る石は見たこともなかった。栄三郎は足を止めた。渚より少し海に出た部分で栄三郎に向かって光を放ってくるものがある。月光は海面に直射され反射して、より明るさを増す。海の底から光を出す石は時に、その所在がはっきりしなくなる。波の引き潮に沿って強く姿を見せた。丸い形の石は砂地の上に一つだけあった。凸凹の砂地には魚や貝類などの生物はいない。あまりの激しい凸凹の地形のため住めないのである。それほどに波の干満の変化がある。栄三郎は一歩も二歩も前に出て海底を見た。しっかりと砂地に石は張り付いていた。何かの力が働き、石に指示をあたえているのではないのか。栄三郎は目を開いた。「何かがある。ここには常識では考えられない何かがあるよ。これは人間社会にはないものだ。いったい何なんだろう」。自然界にしかない力の存在を栄三郎は悟り始めていた。さらに沖へ歩み、その石の側へと進み体全身に心を伝えた。石は緑色を発し、必死に光を出すエネルギーは石の内部にこめられ、いまとばかりに緑色を放出していた。不思議に光る石、それはまるで栄三郎の心へと発信していた。引きつけられるように目を石に向け。栄三郎は手を出す。ゆっくりと手が石に触れようとした時だった。磁気が走り手は弾きとばされた。それと同時に背骨に冷気を受ける。ピーンと体が硬直し動けなくなっていた。

 十数分、栄三郎は意識を失っていた。海面に浮き、波の揺れに身を委ねていた。大きな揺れの引き潮が体を持ち上げ動かせたのだ。すっと立ち上がり、前を見る。石はすこしも変わりなく光を放っていた。月夜の海面は何一つの変化もなく静かであった。栄三郎は改めて海を見、石を見た。光は緑、形は丸い、石は何の変化もなかった。目を輝かせ、再び石を見る。やっぱり全く変化はなかった。「なにかおかしいぞ」。栄三郎は暫く戸惑っていた。歩いてみる。動きが軽い。栄三郎は心の中に沸き起こる明日への望みが、もっとも強くなってゆくのを感じていた。その石は栄三郎が側に寄っても、何の変化もなかった。むしろ栄三郎を招き寄せようとしているのだ。その石はすりよってくるかに見える。キラっと光るその時が見たい。見ていれば心が落ち着いていられる、と栄三郎は何回も目を動かせてみた。「身が軽くなり浮いているようにもなる」。手を前へ出し、石を掴む。掌の中に大切にしまいこみ、栄三郎は目を近寄せた。

 「この石は私の守り神だよ。これから私の心の石としよう」。

 この日より、栄三郎は、この石を仏石と命名し洞窟の一番奥の少し高い地の上に置いた。朝夕拝む。必死に磨く、まるで栄三郎の心を磨くかに両手を動かす。それは太陽の零れ陽を浴び黄金に輝く。海中にあった時は緑色であったものが、今は黄金色を放つ。仏石は日々艶を増し、とても海の中で何百年も眠っていたものとは思えないのだ。磨けば磨くほどに光りだす、この喜びは栄三郎を夢中にした。それは栄三郎の心を必死に磨き清める事でもあった。

 

 青い波が谷間を作り、左右へ揺れる。時々は規則正しい波音をまわりに奏でて、沖へ沖へと引き潮に乗って退く。栄三郎は毎日を沖へ目を向けて暮らす。海からのやわらかい風やほの暖かい音を受け、心の浄化を遂げていた。

 青波が白波に変わり、白波が青黒い波になる頃になると、もう夏も終わり、秋が来ようとしていた。栄三郎の心にも、なんとなくもの悲しい寂しさが宿ろうとしていた。来る日も、そのまた来る日も暗く感じる事が多くなっていた。こんな時は仏石に掌を添え、必死に磨くのだ。「もうだめなのか」。一瞬、栄三郎の頭の中に「否、そんな筈はない」とも、つくづく思う。曇天の日が海を襲う時、海面は真っ黒になる。鼻岬のまだ沖の方から、強風が海を渡って来る。栄三郎はしっかりと地に足を置き、台風に向かって立った。手の中に仏石をしっかりと持ち込み、抱え込んだ。いま落とすまいと頑張る。海は荒れ狂い、波は高々と隆起して洞窟を襲う。日々の寝起きしていた生活の場は波によって壊された。跡形もなく波の中に没し、海面ばかりが浮き上がっていた。栄三郎の姿は何処にもなかった。

 

 鼻岬を襲った台風は村々の家を薙ぎ倒し、多数の人を死へ追いやった。海で捕れる魚で生活している人にとっては、生きる命を奪った事になる。鼻岬に沿った海岸に通じる道には家が並んでいたが、殆どは倒れ、その側には死者が転がっていた。「この男、へんな石を持っているよ」。歩きながらも、村の一人は言った。

 「まだ、生きているよ」。「本当だ」。

緑色を放つ強い光は丸い形の石から出ているものであった。かなり遠く離れた所からでも、はっきりとわかるほど八方へと広がっていた。村人はゆっくりと近寄り、その石にふれようとして手を伸ばす。石に手が届いた時だった。…と磁気が発生し、村人の手は弾かれ体ごとふっ飛んだ。それっきりだった。村人は海面に浮いた。

 時が過ぎ、海はいつもの静かな音になった。柔らかな波に落ちついていた。

 栄三郎は頭を浮かせ、渚より体を起こす。暫く前方を見る。「まだ生きていたよ」。腕の中では仏石が光をだしていた。

 台風と高波のため四時間も海は荒れ狂っていた、その間、栄三郎は海面に浮き、殆ど意識を無くしていた。体が酷く揺れても何一つとして覚えてはいなかった。朦朧とした意識の中で、日々の考えが蘇る。

「ここへは死ぬためにだけ来ていたのだったよな! 死ぬ場所として! 終の地として!」と次から次へと蘇ってくる。朦朧とした中で、栄三郎は波の揺れに体をまかせて左右に移動を繰りかえしていた。

仏石を手で撫で、ゆっくり磨いてから、二三こと祈りごとを唱える。すると仏石からの緑色の光は消えていた。いま仏石は栄三郎の思うがままに、まるで心を持っているかに変化する。

海面に浮いて横たわる青年が側にいても仏石は磁気を放つことはなかった。穏やかな心で栄三郎は青年に目を向ける。自然に両手が前へ出て、青年の体を包む。

「確かに息がある」。栄三郎は、もう一度確かめてみる。波が動く度に青年の体も動く。「助けてあげなければ…」。必死に仏石に願いを込める。

 青年は栄三郎の腕に支えられ、渚に運ばれた、「死んでいるかと思ったよ」。

 栄三郎は渚より、青年を抱え上げながら独り言のように呟いた。足に力を入れ、心にも力を入れ直し、砂浜を歩く。思ったよりも軽い。定住の海の洞窟へ歩きながら、栄三郎は自分自身の変身を感じ始めていた。青年をゆっくりと洞窟の砂地に寝かせる。洞窟の奥の部分に安置された海の仏石へ向かって合掌。必死に心を磨く。心を強く開く。それは栄三郎の願いでもあった。数十分の後、仏石は緑色に輝き出す。太陽光線を受けると黄金色を出す。まわりの者の眼が眩む程に光を放った。

「ただの石とは思えないにしても、こうまで光を出すのか?」。栄三郎は、尚も必死で目を開く。「この石には神、仏が生きづいているのだよなぁ」。暫くの黄金色は洞窟中の、あらゆる岩を浮き立たせ、変色させてゆく。全ての岩を黄金色にしてしまった。

 

青年は砂地より、ゆっくりと身体を起こした。砂地に手を突き、一気に立ち上がった。

「ここは何処ですか?」

「私の家です」

栄三郎は、なんの戸惑いもなく答えた。

「私は助かったのですか」

「生きることが出来たのですよ」

「貴方が、私の命を救って下さったのですか」

「いいえ、生きる事を守って下さったのは、ここにある、この石なのですよ」

 仏石からの黄金色は青年や栄三郎にも照射され、まわりは黄金色の一色になってしまった。不思議な光沢を、仏石はしきりに放つ。時間がたつに従って光は洞窟中に広がった。

 

 海面を転がるように渡って、秋風はいつもきまって丘から沖へ向かって吹く。丘から鼻岬へ向かう朝の秋風は柔らかなながれとなり、海へ出てから急に強い音を出す。引き潮に乗って、その音を波に乗せる。その時の音が、栄三郎には快い気持ちになれる時でもあるのだ。旅を思いたった時以来、ここを終の地とするに思い至る今まで、この快感はなかったものなのであった。洞窟に住みつき毎日を快く暮らす。この幸福を存分に味わってみたい。栄三郎は幸福でいっぱいであった。

 青年は栄三郎の話を聞き始めた。

「石は海の中では緑色を出す。海より引き上げ空気に触れると黄金色に変化、これより磁気を発し、物を吹っ飛ばす。また心優しい物が、その側により触れれば吸い寄せ、心を静め、心を洗う。心はゆったりとしてきて、すっと晴れ晴れとした気持ちになることも出来る」

 淡々と栄三郎は語った。目はぎらぎらと輝き肌の艶は強く照り、見違えるまでに元気を取り戻していた。

 「私の癌もこの石の磁気によって快方へむかうかもしれないのです」。仏石への思いを語った。洞窟の中の暗い部分に置いても、ひときわ光輝いて眩いのである。

 「実はここへ来たのは死ぬためだったんですよ。それがいまは…」

 栄三郎は瞬く強い光の仏石をみつめながら、力をこめた口調で喋る。

 「それで生きていられるのは何故?」

 青年は聞き返した。

 「この黄金色を出す石のエネルギーによって心が生き返るのですよ。この魔力には人の心を吸い取る力がある。いま私は死にたいと思っていた気持ちはなくなりました」

話を進めながらも、栄三郎は体が少しずつ動き出し、目も輝き心まで愉快に弾み、なんとなく生き抜いてゆく自信を感じ始め