心の在り場所を求める 私を色に例えた表現俳句

                       ネガティブではないポジティブへと向かう精神

                                                       児 島 庸 晃

 この度は句集『青』を頂き、貴重な句集ですのにありがとうございます。句を書き続ける事の大切さが、こんなにも日日の心の整理であることなのだと知る事になるのだとは…青三郎さんの句集を開くまでは思ってもいませんでした。日日の記憶の中に目視される現実の光景は心の中に凄い記憶と記録を伴って展開される凄さになっていまね。それぞれの句を、じっくりと読み尽くしていると、現実の光景が目を通して得た現実…ネガティブが心に取り入れられた時点ではポジティブ…に変革されているからなのですね。それは所謂、青三郎さんの理想世界を表現する事だったようにも思えます。第一章から第六章までを「色」で配し、句の分類を思考。これは自然の光景を心で快く受け入れる気持ちの整理だったのですね。凄い事ですよ。このポジティブの光景は。このようにあって欲しいと願いを込めた心の風景だったからでしょう。 

 例えば第二章「薄紅」には、心に迷いが生じたのかもと、私は思ってしまったのですが、その時の心象の句が見事な素晴らしさを見せて作られていますね。 

   果てのない正方形の麦の秋   

この句には「正方形」に青三郎さんの心を閉じ込めて大切に保持しようとしている姿が私には見えるのですよ。「果てのない正方形」は青三郎さん自身のようにも思えます。私性の心が大切に保管される場所がここにはあります。私性は感覚からの始まりですが、感覚のままでは現実を残したままの光景でありネガティブですよね。ここから先が大切にされていなければ句にはならないのですが、それがこの句には補正されてあります。青三郎さんの願い求める心のポジティブ。誰もが感動する心とは現実のありのままの姿ではありません。…こうありたいと願うポジティブだからなのだろうと思います。

現代俳句にとって大切な事は心の在り場所なのだと思われるのですが、それが第一章「白」に表現されていますね。心にふっと篭り湧き出す空白そのもの。それが心の隙間に垣間見えるポジティブ、一句に纏まった時の安定した寂しさ、青三郎さんの心中を察する事が出来ました。その句とは…。

   一月の湖一枚に折り畳む 

なんと言う寂しさ。でも、この光景は静かな心のうねりを得て落ち着く。作者自身の純白を、思いを込めて静めている事が理解出来ます。これが第一章「白」なのでしょうね。日常の生活の中で心の在り場所だったのでしょうか。

 第三章「緑」、第四章「青」、第五章「茶」、第六章「黃」と全て日常を色で表現する心の在り場所を探すことに執着した心象は読書を浄化して癒しています。

   箸置きを置いて始まる今朝の秋

   風鈴は直下不動にて休む 

   行楽にみんなついていってしまう

   しわくちゃな顔を並べて日向ぼこ

青三郎さん!「あとがき」を読んで吃驚。句を成すのに悩まれている事の文言。一句を完成させることの難しさと大変さ。よくわかります。でもこのような作者自身を守り抜く心の大切さは充分に心得ているようなので…。俳句は作者自身を象徴します。正直で偽ることはしません。今の青三郎さん自身に徹することです。それにしても理想の自分を表現するポジティブな心は大切です。日常現実をありのままに現実そのものを表現する俳人の多い中にあって、ネガティブではないポジティブへと向かう精神は貴重です。

 妻、貞子へも句集を謹呈していただき、大変興味を持って読んでいると、貞子から伝へて下さいとのこでした。そして好きな句があると、私に渡された句がありますのでお伝えします。

   花ぐもり空腹という空家あり

   化石ぬくし気の遠くなる時を食べ

   絵葉書の蝶に帳来て連れ出しぬ

   自己主張する土筆から摘んでゆく

   一舟に一つの猫背蜆採り

   麦の秋すぐ駅につく縄電車

   秋の蟬主張しすぎが丁度良い

   棒読みのその棒になり秋暑し

   死んだのか身に覚えなき秋天

俳句の一句を得るまでの過程は、誰も語り出すことはありませんが、相当な苦しみを経て成されるものです。誰も現実を、現実そのものを詩情にしようとしますが詩にはなりません。青三郎さんのようにポジティブな光景を求めて真面目に真剣に取り汲む俳人は貴重です。ほんの少少ですが、私の句集評とさせていただきます。