柿 畑 文 生 句 集『 亜 流 』 俳 句 考
児 島 庸 晃
短詩形文学の魅力は何なのだろうとずーっと思考してもう五十年が過ぎる。その私の俳句人生よりも更に長年の含蓄を積み重ねてきたのが柿畑文生さんである。そんな柿畑さんから届いたのが句集『亜流』であった。そこには生きていること否生きてゆくことの大切さが俳句の味としてあった。存分に私を暖かくして全てを包み込んでいた。心を豊かにするのに俳句に勝るものはないのではないかと思えるようになっている私の時間があった。句集上梓、心よりおめでとう。よくここまで頑張ってこられましたね。
思えば柿畑さんも私も俳句を始めたのは高校生であった。何に魅かれ俳句を始めたのだろうと思う。ひとことで言ってしまえば鈴木石夫先生の俳句人としての、或いは指導者としての魅力であったように思う。若者を一つの形にはめこまない心が、当時、形式に捉われる風習の中にあってはとても新鮮であったのだ。…面白い俳句でなければ俳句でない。自分の俳句が作れるようになるまで俳句を続けなさい、であった。そして柿畑さんは石夫先生の指導を素直に理解した句を力強く作ってこられたのだ。
そして五十年も掛けての自分の俳句を見つけ出し、磨きをかけてきた。その自分にしか作れない句を、いまの真の自分の句として纏めた。それが『亜流』である。
その自分だけしか作れないものとしての句とは何なのだろうと思う。『亜流』を丁寧に紐解いていて分かったことは。…一貫して貫く棒のごとき強靭な心に包まれていたのだ。その俳句集を『亜流』と思う心こそ、柿畑さんしか作れない句なのである。
句集より抜き出してみる。
真剣に花火があがりヨ―イヤサー
まいまいの昭和元禄物語
穀象虫浪花節だよ人生は
六月のバージンロードで転ぶかな
うっとりとあの世の雪が降ってくる
柿畑さん独特のエスプリの溢れる心の句であった。ここには真面目に生きてゆこうとする生活者の叫びが、天晴なまでにある。でも、この叫びはとても悲しいではないか。それそのものが柿畑さんの心の中にある、自分自身を騙しきれない矛盾で満ち溢れている姿のようにも私には思われる。このどうしようもないじわじわと働きかけてくる心が機知であった。エスプリそのものであったのだ。生きて生活をしている限りは遁れないものとしてのエスプリ精神であった。
人生の機微。そして生活の機微。いずれも俳句を詠むことの本来の意味は何なのであろうかそう思って一つ一つの句にのめり込んでいたその時、次の句が飛び込んできた。
千代田区一丁目でで虫の角をふる
この句は単なる風景句ではない。都会のど真ん中、それも首都のど真ん中。終日を厳しく激しい人々の闘いの中に自ら嵌りこんでゆく生活者たち、即ち柿畑さん自身の目に焼き付ける正述心緒であった。「でで虫の角」こそ柿畑さんそのものであろうか。この心の叫びに私は涙する。決して己を投げ出してしまわない「でで虫」の如く生きる力と、それをしっかりと目で受け止めている柿畑さんがいる。その現実の光景と必死で格闘する俳人の心が私には哀れにも思える。即ちエスプリの心を保持していなければ…このように見事な把握は出来てはいなかっただろう。
でも、俳人としての私は毀れてはいなかったのだ。それは、より俳人になりきろうとする些かな抵抗の心があったからなのかもしれない。
毀れゆく私の中の桜咲く
日常として毎日の暮らしについてゆけない私を感じても俳人としての精神は蓄蔵されていたのだ。毎日の出来事の始終に押しつぶされて毀れてゆくであろう私と私の心。俳人・柿畑文生はその日常の中でしっかりとモノを見据える瞳だけは毀れてはいなかった。その瞳の奥に見定めているものがあった。ちゃんと「桜の咲く」光景を信じ願う気持ちを忘れてはいなかった。これぞ生活の機微である。句の中に流れるエスプリの思想は失ってはいなかったことになろう。
私が特に共感し、そのことに心を奪われたのは母の句に思いを深めている柿畑さんの姿を冷静に考えることが出来たときだった。
東雲の横に木綿の母を置く
お降りや五体投地の母の骨
せりなずな母よもう一度笑いなさい
非母という薄くれないの寒椿
母という後姿の胡麻の花
これらの句を実感描写だけの句とは、私は思わなかった。何故なのか。視線の先に思想を感じることが出来たからである。この母の存在は重い。その重さの中で母を意識するときの重さが大切な暖かさへと変革する、その心こそが柿畑さんだけの言葉の表現なのである。たとえば「木綿の母」であったり、「薄くれないの寒椿」であったり、実に暖かい眼差しで捉えられている。これらは日常語で解りやすく素直に感覚することが出来る。この日常感覚のエスプリが俳人としての柿畑さんなのである。柿畑文生俳句なのであろう。
ずーっと考え込んでしまっていた私を励ますように惹きつけられた句に出会うことが出来てほっとする数日であった。それは俳人としての影を探していた私に胸襟に能えする句と出会うことが出来た時であった。
泣いている薄羽蜉蝣東京へ
極楽はいま茜さす寒卵
後の夜の乗換駅の後の月
叱られてげんげの海へいったきり
まっすぐに白梅を見て帰る
八月六日わたしに影がある
これらの句は人間の本能とでも言える部分を多く含んだ句である。生活の日常における悲喜が表現されている。それそのものが柿畑さんの影の部分である。その影を描くには思想がなければ句にならない。しっかりとモノを視なければできない。モノを見てその物を描写するだけであれば、すこし俳句を知っていれば出来る。だが、詠む者の心を動かす術を自分独特のものにするまでには、大変な年月の修練の是非が問われる。人人を感動させる何かがいる。泣かせるか。笑わせるか。納得させるか。…こう考えると簡単なように思うが、俳句は十七音という短詩形ゆえ説明が出来ない。柿畑さんは、この短詩形ゆえの、或いは短詩形でこその表現を心得ているように、私は思った。その精神の根本になっているのは何か。その系譜を遡れば柿畑さんが啓蒙を受けた鈴木石夫先生であったように思われる。
…面白い俳句でなければ俳句でない。
この言葉こそが、柿畑文生俳句なのである。つまり、泣かせたり、笑わせたり、納得させたり、であった。生活してゆくにかかせないエスプリの精神であったように思う。現実の光景と格闘するときのエスプリの真剣な態度そのもであったように思う。