俳句表現では技術と技巧は違う

 俳句は十七音律の特異スタイルだが、ことほどに言葉選びを適確にしなければならない短詩形文芸は他にないだろう。一語一音たりともおろそかには出来ない句体なのである。それ故に従来より技巧が重んじられてきた。そして多くの俳人が上手な句を作ろうと努力してきた。いろんな形を試み実行してきた。だがことごとくこの試みは形骸化して、本当に良い俳句とは何かを、いま再び俳人は思考し始めている。ここで区別しておきたいのは技術と技巧は違うのである。技術とは、その手法だったり手段のこと。技巧とは、技術にさらなる工夫をして職人技とでも言える吃驚してしまうような技のこと。ここでこの技巧が問題になるのは職人技のことである。なるほど、とか、やっぱり、とか思わせる、この職人技は画一化すると実感を壊してしまうのである。作者の真実の実感が、何時の間にか消滅してしまってる事がある。
  
   九十の恋かや白き曼珠沙華   文扶夫佐恵
 
「現代俳句」2018年3月号、…私の愛誦句…より。実に適確な言葉が作者自身の心との対話のなかに定着している。この句、下手すると単なる言葉だけの羅列になるのだが、目視がしっかりと出来ているので言葉が形骸化しなかった。そしてこの句を支えている作者自身の内面の表出が技巧を思わせない表現言葉になっているのだ。「九十の恋かや」の俳句言葉は素直な実感言葉なのである。自己との対話するその深みは真実感そのものである。変な工面や工夫をすると実感が崩れることを作者は心得ていたのであろうか。この時代の俳句にしては珍しく技巧の目立たない句である。それも「曼珠沙華」の「白き」と朱色ではない「曼珠沙華」を見つけたときの驚愕を感覚するとき、作者自身の身体の衰えを「九十の恋かや」と感知しての情念は技工では表現はしつくせない心象であったのだろう。感じたものを思ったままに表出することであったと思われる。良い句とは感性をどれだけ強く表に出せるかである。ここには技巧などはないのだ。どうしようもないほどの重みと深さがある。実感は技巧では表現できないのである。内心には心花が宿っているからでもあろう。