青 玄 青 春 俳 句 群 像

            青玄クラブと言う存在感の重さの集まり

                  児 島 庸 晃

 ふぅーと思いつき家を飛び出していた。何時の日にかとも思っていたのだが、阪急電車塚口駅より南西へ歩いていた。…もしやそこに青春の何かがあり、心を揺り動かしてくれるものがあるのではと、私なりに思っていたのだ。歩くこと10分、そこで私は佇むことになる。

 青玄クラブ…伊丹三樹彦先生が成した偉業をもう一度この目で確認したかったからである。勿論いまはその場所の跡形もない。だが私の目の中にはある。クラブは塚口さんさんタウンから西へ五百メートルほど下った栗山というころにあった。文化住宅の二階で階段を上がってゆくと四畳半と六畳のふた間の部屋があり夜となく昼となく青玄人の誰かが何時も四、五人はいた。夜も昼も解放されていて誰彼となく集まれば句会が開かれ合評がなされた。年齢も句作経験の有無も問わない共同研究の場であった。クラブは平松治子や丸岡樹三子、坂口芙民子、丸山景子、中川かず子らの尽力により、昭和42年2月に開設された。もっともこの創設は発行所や無鑑査同人などの要望ではない。若い世代の盛り上がりによる会員の要望が纏まってのものであった。管理人は矢上新八、児島照夫(庸晃)、立岡正幸、坪内稔典、澤好摩へと引き継がれる。ここには青春俳句がいっぱいあった。正に俳句における松下村塾でもあったのだ。その青春を礎として、それ以後想像もしえないほどの純粋な青春俳句が各地区の新人より生まれている。

   コンクリエコーのシュプレヒコール 温い舌 伊丹啓子

   戦争ははじまりませんよ 手籠にねぎ    中永公子

   里に初雪 老いて小さい母に降る      蔭山光延

   送状持って 走って 動悸は見抜かれる  藤井美智男

   ラ・タラッと階段 雪の青年待ってます  坂口芙民子

   唇吸われるも孤独 石階の白い傾斜     山下幸美

   嫉妬が黙らす コーヒーカップの底の白   諧 弘子

   いっそ強風となれば 辛酸やわらぐ葦    門田泰彦

   ちぎれて雲は 中也の帽子 春を飢え    坪内稔典

   ピアノ教師の優雅な叱責 雪舞う午後    児島貞子

   母郷行 帽子の中で眼を覚ます       澤 好摩

   恋ふたつ レモンはうまく切れません    松本恭子

   春の宵は黒いビロード 母と腕組む     穂積隆文

   芽を吹く葦 遥かに濡れているヨット    鈴木 明

   朝は思考研ぎにだ 便器に座りに行く    児島庸晃

だが、クラブは厳しい試練の場でもあった。凄い討論の場である。知識と修練がなされ自己の鍛錬の場でもある。発言できなければ黙っているしかない。黙っていれば寂しくなる。孤独感がたまってくるのだ。発言をするには勉強をしなければならない。体験がなければ説得できない。私たちは三樹彦作品をむさぼるように読んだ。以下は伊丹三樹彦作品である。  

   ひとりぼっちの泊灯ね 寒いわ お父さん

   火の糧は青年持ち寄る 紅葉の谷

   モーテルは 灯の祭典館 枯野の芯

連日三樹彦作品の研究をした。誰もが三樹彦作品をうまい句だと思っていた。それが、どこからきているかを分析研究もした。だが、誰もそのうま味のある俳句の根本を分析できなかった。心で作った句を、心で応えきれないものが分析など出来る筈もなかったのだ。三樹彦作品には生活者としての心の純粋さが句の中にこめられている。このことは研究してゆくうちにクラブの連中にもわかって来て、真似をするものまで出た。現実を体験しないものが、形を真似たところで、うま味のある句など出来る筈はなかった。クラブには常連と呼ばれる連中がいた。坪内稔典、澤好摩、穂積隆文、山内進侘助)、伊丹啓子、攝津幸彦、立岡正幸、杉山聖二、楊枝佐和子、佐藤幸子、島田多喜次、それに在学中だった馬場善樹や仲啓樹、矢野豊、といった若者が、ときどき来てはたむろしていた。坪内稔典などは俳句オルグと称し、近くの学校へ勧誘に行くのである。これには宮石弘司や砂口嘉津子が同伴し、それぞれのやり方で校門に立つ。ひとりひとりに呼びかけてゆく。呼びかけられたものはびっくりする。そして殆どはものにならなかった。そんな中で園田学園在学の村津康子がいた。先ずクラブに連れてきて青玄俳句をことこまかく説いてきかせる。クラブには何時も四、五人いるので、みんなから各各に良いところばかりを聞かされる。つまるところまるめこまれてしまう。半信半疑で俳句を始めるのだが、やってゆくうちに熱意と真実味のある接し方の中に青玄俳句の良さが、嘘でないとわかってゆく。わかりかけたころ先生がさらに実例を示し、俳句は若者の文学であることを力説してゆくのである…こんなふうにしてクラブの中に若者がどんどん広がっていった。全盛時には青玄全体で青春俳人が60人位はいたように思う。何時もクラブの中には長机が四つばかり並べられていた。白の洋紙にマジックで書かれた太字の句に向かって、全員が並びひとりひとり勝手なことを喋っていた。一座の者全員が一丸となってひとつことに集中する姿は実に美しかった。だが、この長机も最初はひとつもなかったのである。畳に足を投げ出し、頬杖をついて話し合っていたものだが、何人かの有志の寄付で助けられた。いろんな方に奉仕をしていただきクラブは成り立っていた。それだけに先生の考え方や方向をもっと進める運動をしなければならないと思っていた。各々に任務が決められ、案内状係、会運営係、印刷部、事業部、新人サークル、青玄発送係と、全員で事に当たって熱心に進められてゆき、その存在や価値観も理解していただく。無鑑査同人の方や外部の方が訪ねてくるようになり、毎夜のことのように趣向の違った会が開かれてゆく、早川邦夫担当の青玄史、守田椰子夫担当の著者を囲む会、伊丹公子担当の実作指導、伊丹三樹彦担当の現代俳句論等、夜間教室は活況を呈していた。内部のものだけではなく、外部の人との交流、それも俳人だけではなく、歌人、詩人といった具合にである。クラブの存在は青玄の発展展開でもあり、その成果は俳壇でも目立ちはじめる。集団としての活躍がその意味を濃くしゆくかに思われはじめた。共同の場で作句研究をしてゆくことは作句の密度を深めることにもなった。三樹彦先生はこのころ多忙をきわめていたが、出来る限りクラブの句会にも出られるように心がけていられたように思う。日頃から多忙な先生は俳壇外の会合にも出席されていて、とても余分な時間などなかった。阪神六市文芸祭など、私の知っているだけでも、青玄以外の行事で月に六、七回は費やされている。そんななかにあって先生は阪神詩歌会を発足させている。昭和43年7月30日のことであった。他部門との礼儀的な交歓会ではなく、熱意のこもったディスカッションであった。初回から応酬の連続で、クラブの連中も日ごろから議論にはなれている筈なのに、ひとことも発言出来ない虚しさを覚えることがあった。やがてクラブは東京、福井、豊岡、京都、宮津、神戸、三木と各各の新人サークルの誕生となってゆく。昭和43年4月28日。全国から若者が京都に集結された。新人サークルの全国大会であった。当時の国鉄京都駅前には胸にプラカードをつけた俳句集団が闊歩し、道行く人の目を驚かせた。胸にまといついた俳句スローガンを世間へ見せつけたのだ。「俳句現代派・青玄」2メートル程もある横断幕に書き込まれた言葉に、道行く人は唖然とした。「今日までの俳句を古流と呼ぶ」…横断幕に書かれたスローガンは道行く人を吃驚させた。若者の胸より吊るされたゼッケンの言葉はその大半は先生の青玄前記である。当時の国鉄京都駅前でのビラ配りを若者は必死で行なった。これまで俳句を市民に直接呼びかける団体はなかった。このようなアピールはしなかった。俳句現代派と市民が一体感になった日でもある。そのとき私は俳句の大革命だ思った。俳壇は恐るべき新人たちの革命に恐れをなし始めようとしていた。(青玄206号の表紙裏に写真掲載)伊丹三樹彦先生の純粋な俳句姿勢は当時の若者たちの心を揺り動かしたのだ。やがて俳壇に驚異的な存在となってゆく。総合誌や結社誌への青玄青春俳句の新人俳人のコラム欄が増えていった。その流れは氷見市の小・中学生俳人の特集を青玄誌上(青玄189号)で組むまでに至り、NHKテレビ水曜番組「あすは君たちのもの」(昭和43年5月15日放送)出演となる。このころ先生は総合誌「俳句研究」や「俳句」に句を発表し既成の俳壇と闘っていた。批判的リアリズム論は人気とりだとか、ワカチガキ俳句は穴ぼこ俳句だとか誹謗の真っただ中にいた。このとき青玄の青年俳人たちは怯むこともなかった。現代派俳人伊丹三樹彦の思考を信じ新しさへの挑戦を続けたのである。恐れられただけにまた中傷もひどかったのではないかと思う。…次の青玄217号の句が私の心に残る日々であった。

 笹にそよ風 石に木漏れ日 口をきくな 三樹彦

頑なに純粋であろうとする俳人…伊丹三樹彦。純粋であればあるだけ傷つく世間であれば、その流れの中に溶けて行く方が、どれだけ無難に俳壇をわたってゆけることか。それでも先生は自らに逆らうことをしなかった。純粋俳人の真実を守り目指すものへ向かって己を責めたててゆくのである。その純粋性はいまも私の心に残る。立ちはだかる雑念を打ち消し、俳壇へ敢然と立ち向かった。その姿こそが私にはすごく大きな勇気に見えた。

 梅雨の一日とはいえ、もう午後7時近くになっていた。すこし暮れかけようとしている。目の前をちらちらと当時の光景が瞬く。活気あふれていた頃の三樹彦先生。そしていつも新鮮な詩人の心を下さった公子先生。私は再度この青玄クラブの在りし日の記憶を辿り71歳の自分をゆっくりと20代の青春にもどしていた。これからもまだまだ頑張れる筈なのだと…。