結核に侵されながらも心は純粋…俳人新里純男

          灯の凍結、この姿が目に浮かんだとき

                児 島 庸 晃

          脚がバネ  でも大寒のど真ん中   庸晃

 歩きながら冷えは私の耳を狙って通過するのだが大寒の風は切れることもなくどんどん押しかけて心まで凍ることの多い朝は今朝ばかりではなかった。朝5時半、勤務のため家を出る。国道2号線を渡りJR甲子園口駅に着く。口にはマスク、手には厚めの手袋と寒さを封じるのだが今年の大寒は容赦ないのだ。68歳と言う私の年齢ばかりに起因しての凍る心、何しろ凍る思いの通勤である。だがこの寒さにも負けない樹木もあり些か私を喜ばせて嬉しくもなる…寒椿、この燃えるような花の色は私への微笑を投げかけてくれるような表情にも思える。国道の街路樹としては不思議なのだが、なでこんなところに寒椿の樹が在るのかもわからぬが、私には暖かい心をくれている嬉しさである。いま一歩前へと踏み出すエネルギーを呉れるその色の主は寒椿。私は弾む心をこめて脚を動かすのだ。それはバネになり弾む。通勤の一時心に安堵を得る。寒椿…いまが最も美しい色を発するのだが。じっと暫く見ている私にはその色はだんだんぼやけてくる色に…。真っ赤に燃える花の色はだんだん遠のき町に瞬く灯に見えてくる。大寒のこの時期、遠のいた寒椿は灯の凍結した色になった。灯の凍結、この姿が目に浮かんだとき、ガラスの町の何処で泣いている人がいるのではないかと思うナイーブ青年俳人の存在を思いだしていた。 

   灯が凍結して 誰か泣くガラスの町  新里純男

1960年、俳誌「青玄」122号に4句掲載された句の内の1句である。新里純男俳句が「青玄」に掲載されたのは、たったの40句であった。何故かと問うまでもないが26歳と言う一生であったのだ。死因は肺結核であった。昭和30年純男は東京奥多摩清瀬病院にいた。ここでの俳句への傾倒はやがて昭和32年の退院となり活発化してくる。この頃読売中央俳壇や「春嶺」に投句。本格的に句への没入が始まるのは「なだ満」の経営者であり俳人楠本憲吉との出会い以後であった。心の襞を広げるかに青春固有の愛と詩とポエジーは多くの若者の心を掴み離さなかった。「灯が凍結して…」の句は私性の文体であるが、決して説明的なものではない。そこには情緒が純男独自のキャラクターとしてある。思想があり生きてゆく、生きてゆくべき一つの実態が現代社会の中においてもたらされていることに気づかなければならなかった私たちであった。この時、3リ主義と言う言葉を生んでいたのだ。所謂、3リ主義とは…リアリズム、リリシズム、リゴリズムの三つを呼称しての言葉である。純男の「青玄」への初登場は「昏い雨期の日本を棄てた赤風船」であった。その後どんどん秀作を生んでゆく「昇給待つ日々屑篭で死んだ薔薇」「日曜ひそと母校の新樹傷だらけ」「苔咲いて僕を黙らす川の蒼さ」「無思想の歯で噛む林檎鉄の硬さ」「冬日は父性の温さで白い孤児の家」「見えぬ傷に堪えて冬越す林檎と僕」。1960年4月19日樋口一葉の晩年の町でもある丸山福山町での26歳と言う死であった。この死を伊丹三樹彦は風船忌と名づけたのだ。初出句の赤風船からの命名であった。そしてこの死を契機として」青玄」で批判的リアリズムなる言葉を生みその運動が始まってゆくのであった。新里純男絶章作品はそのことを照明するには最も相応しいものなのであった。

        絶章作品

    町は桜の季節で行方不明の僕

    誤診ではなかった胸裡の薔薇さわぐ

    ねむい春日の触手肺から腐る僕

新里純男追悼特集は俳誌「青玄」125号に記載されたのだが、私をも含む多くの青年俳人が悲しみその影響ははかりしれない。それ以後の俳句結社「青玄」は10代20代の俳人が60名ばかり生まれてゆく言動力になってゆく、そしてこの盛んな青年俳人の排出に俳壇からの脅威と、また妬みを同時に受けることになってゆく。主幹、伊丹三樹彦は必死に堪え果敢に俳壇に挑戦し、一歩も怯むことはなかった。それは戦国武将のような勇気と気迫に満ちていた。若者はこれに答えたのだ。室生幸太郎、坪内稔典、鈴木明、攝津幸彦。澤好摩、私だってその一人。純男の出現は俳句の意識を変革させたパイオニアでもあったようにも思う。この時である。俳壇からの妬みと誹謗中傷を受けた俳句結社「青玄」の主幹伊丹三樹彦はこの誹謗中傷にも耐えたのだ。そして次の句を俳壇に突き付けたのであった。

   正視され しかも赤シャツで老いてやる   伊丹三樹彦

この時「青玄」の青年集団も立ち上がり、俳壇と闘った。この青年俳句集団はその数を増やし100人はいたように思う。現代俳句の若者へと広がっていったのである。昭和40年頃だった。